
今年も、第23回いろどりの書作展が開催されますので
お知らせいたします。
■とき
2022年6月15日(水)~6月19日(日)
9:40~18:00(最終日は16:30迄)
■ところ
愛媛県美術館 新館 2階特別展示室
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今年も彩り豊かな作品がそろっています。
ご期待ください!

生活の中に生きる 書

講談社から出版された『三千里』シリーズに
大暁が関わっているのですがこれはあまり知られていないかもしれません。
『三千里』の上・下巻、『続 三千里』の上巻で脚注とルビを担当しています。

こちらは『三千里』上巻の目次です。
本名の「茂雄」で校訂として登場しております。
これは1972(昭和47)年の12月に三千里への解説を頼みたい、と
東京から電話があり二つ返事で引き受けた、と書いてありました。
解説(たぶん脚注)と難読漢字へのルビをつけることが
今回頼まれた主な仕事だったそうです。
年が明けてからはひと月ほどずっとこの仕事にかかりきりで、
ことあるごとに「碧梧桐の語彙はすごい」と書いていました。
自分で好きに読む分には良いが、
人に見せるものとなると正しくなければならないので
辞書が手離せなかったそうです。
また、自分自身の勉強にもなるので大変ありがたいことだ、とも書いていました。
毎年1月には独立祭のため上京しているので、
その時に講談社で直接打ち合わせもしていました。
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ところで我が家に保管されてある初版本の『三千里 上』には
第二刷用に、かと思うのですがあれこれとメモが書いてあります。

見えますでしょうか?
鉛筆であれこれとメモをしています。
たくさんのページ(体感だと三分の一くらい)にこのようなメモがあるので、
本が出てからも勉強を続けていたのだなと思います。
『続 三千里』の方は上巻だけ名前が載っているのですが
なぜ上巻だけなのかについてはまた追って調査してみたいと思っております。

実はこれについては日記の記録が無いのです。
昭和59年から60年にかけての日記を
多分3回通りくらいは読んだのですが
その中に出てこないのです。見落としてるだけでしょうか…
この石碑の存在を見つけたのは、一番上にあります俳句、
雑誌『習字』昭和61年12月号(P.19)でした。

喜多浦八幡大神神社は、愛媛県今治市伯方島にある神社です。
この時は4月の終わりころだったのですが、
海が本当にめちゃくちゃきれいで感動しました。

海の色がすごいですよね。
橋も含めて、瀬戸内海って美しいなと思いました。
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さて、神社です。

神社の緑って他の緑より深いように感じるのですが気のせいでしょうか。
そして神社にはありがちの、階段です。
でも思ったよりは階段が多くなかったので大丈夫でした。

奥に見えるのが本殿です。
この本殿に向かって右側に、石碑があります。

これはもうどう見ても大暁の字ですね。
この石碑は、横に名前がありました。

裏はこんな感じです。

…ん?
今見ると、「竣工」が昭和六十年四月十四日と書いてありますね。
…と、いうことは、この除幕式はもっとずっと後ということですね…?
なんたること!!!
また調べ直して追記します。
よく見たら俳句も「秋」って書いているので
秋ごろを狙って探してみます。

松山市総合コミュニティセンターの道を挟んだ西側、
正確にはプールの西側でこども館の北側に、
松山市立新玉小学校があります。
この新玉小学校は大暁の母校で、
1928(昭和3)年に当時の第五尋常小学校を卒業しました。
『習字』1994(平成6)年10月号の大暁の随筆『おもかげ』によると、
「現在の新玉小学校はコミュニティーセンターの隣にあるが、当時は左図の場所のあたりにあった。学校のすぐ裏には伊予鉄の線路があり、現在の電車ではなく汽車が走っていた。二年生には、桂、花、雪という三つの組があった。私は桂組だった。」(『おもかげ』20より)

とありました。
二年生とあるのは、大暁の父が警察官であり愛媛県内を転々としていて、
この年に退職をして今治から松山に引越ししてきたためです。
そのためその頃はわりと貧乏で、
「小学校の頃、わたしは二つのアルバイトをしていた。ひとつは伊予絣の糸巻きの仕事、もうひとつは新聞配達である。当時は、それほど裕福ではなかったし、小遣いかせぎのつもりでやっていた。」(『おもかげ』21(『習字』1994(平成6)年11月号より))
と語っています。
四畳半の部屋に兄、弟、妹の兄弟4人で寝ていたそうですので
いくら小学生だといってもたしかに狭そうに思えます。
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そんな小学生時代を送った大暁ですが、
その後、新玉小学校の校長に愛媛師範学校時代の同級生が就き、
新玉小学校へ『玉』の作品を頼まれました。
これが1971(昭和46)年の3月の事です。
卒業してから43年の月日が流れていました。
当時の日記には、
「小生にとって母校であるので、小生の気持ちとしては心の暖まる思いである。小生の書が講堂に掲げられるのは名誉なことである。妻と相談して額も全部寄付することにする。」
と書かれてあります。
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現在、『講堂』という名前のものなど公立小学校にあるのだろうかと
心配しつつも新玉小学校に連絡してみましたら、
なんと!現在も体育館に飾って下さっているというありがたいお返事が!
さっそく撮影しに行ってまいりました。

この、校章の真上に飾られている大きな額をご覧ください。
この額こそが、大暁が寄贈した『玉』の額です。
現在では違う校訓がありますが、
昭和46年当時は『玉』が校訓だったのだそうです。
一文字だと逆に想像力たくましくなって、
「玉のよう」というと宝石を指しますから、
一人一人が宝石だという意味だったのか、
あるいは玉といえば球状ですから、
角が無い、丸い、和という意味だったのか、
いろいろと考えてしまいます。
きっといろいろ考えたその全てが正解なのだろうと思います。
…いや、やっぱり山上憶良かな。(まだ考えてる)

額を真下から見上げると、かなり遠く思えます。
小さく見えますがおそらく縦は額を入れると1メートルほどあるそうです。
よーく落款を見ると…

持っているカメラを最大限ズームにしてみましたが小さかったので
残念ながらクリックしても大きくなりません。
でも、一応「澤田茂印」と書いてあるのが分かります。

この上側の落款です!
学校に寄贈しているものではこの落款が多い感じがしますね。
たまたまでしょうか?
うーん、また新たな謎が出て来てしまいました。
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最後になりましたが新玉小学校では校長先生、教頭先生に大変お世話になりました。
本当にありがとうございました。
※同じ落款を捺している作品↓

愛媛県今治市大三島に、上浦町歴史民俗資料館(村上三島記念館)があります。
この記念館の中に、大暁の『風情』という作品が寄贈されています。
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ここを訪れた時の写真のデータが消えてしまったので
作品の白黒写真だけなのをお許しください。
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この記念館が出来たのは1982(昭和57)年の4月です。
この年の3月2日、大暁は『風情』の作品を寄贈しています。
4月25日午後1時から開館記念式典があり、
その日の朝、観光港から船に乗って(しまなみ海道無いですもんね)、
式典にも参加したそうです。
愛媛県知事、毎日新聞社社長、愛媛新聞社社長、青山杉雨先生、
村上三島先生などの挨拶の後、テープカットをして
全国から集まった書家たちと「現代日本名家書展」を鑑賞した、と
書いてありました。
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この記念館は行く前に私が想像していたよりも大きくて、
村上三島先生の部屋がそのまま再現されていたり、
貴重な墨や硯が展示されてあったりするだけでなく
作品を展示するスペースもかなり広かったように記憶しています。
事前に展示内容を把握していたわけではなかったのですが、
たまたま行ったときにも大暁の作品を展示してくださっていました。
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もし今治市大三島へ行く機会がありましたら
ぜひ観に行っていただきたいと思います。
※2022/6/1
「現代日本名家書展」の作品集を見つけましたので
ここに記載しておきます。
まさかの前期、中期、後期の三期にわけての展覧会だったことや
現代日本名家書展の作品集に掲載されている先生方が
いろいろな流派のたくさんの大家の方々ばかりだったので
本当に驚きました。よいものを見つけました!


大変お待たせいたしました!
創刊70周年記念号がようやく完成いたしました。
表紙は歴代の『習字』の雑誌たちです。

ロゴもいろいろと変わっていることが分かりますよね。
そしてあえての『7・8月号』です。
8月が休刊だったのももう懐かしいです。
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本日これから郵便局へ向かいますので
早くても週明けの到着となる見込みです。
届きましたら、巻頭にお祝いのコメントを掲載しておりますので
ぜひご覧くださいね。
応募が多数だったため、紙面の都合上数か月にわたって
コメントをご紹介しようと思っています。
(それでも全部ご紹介できるとは限りません、ご了承ください)
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コメントを見て頂くと分かります通り
本当に多彩なジャンルの方々が揃っています。
多彩であるということが大暁の残した一番大きな特徴だと思い、
このことを私たちは誇りに思っております。
一流一派に扁せず、土台となる基本を重視し、
その上で「みんな違ってみんな良い」ということや
技術一辺倒にならず「感動が起点となる作品作り」を
進めてまいりたいと考えております。
今後共、どうぞ宜しくお願いいたします。

先日、松山北高校へ作品や寄稿文の写真撮影にお邪魔しました。
北高校の先生方には本当に丁寧にご対応頂きましたので
この場を借りてお礼申し上げます。本当にありがとうございました!
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その中の、昭和49年度(大暁が退職前最後の年)の卒業アルバムで
弓道部の部活動写真の上にかかっている額を見つけました。
個人情報的にダメかなと思って目のところを消したら
なんか若干ホラー感が出てしまいました。
すみません気にしないでください。

この字と記名の形は、大暁の作品だ!と思い、
対応して下さった図書館の先生と、書道の先生にお伝えすると、
この作品の写真を後日送ってくださいました!

なんと!現在でも飾って下さっていました!
ありがたいです。
西条高校の『緑葵昌』の扁額の時もそうでしたが、
道場に掲げる扁額の時にはどうやら名前を大きく書いているようですね。
二つとも大きいところをみると、これはおそらくわざとだと思います。
そのお陰で私も小さい写真から大暁の作だと気が付いたので
結果オーライというか、願ったりかなったりというか、
道場には大き目で正解だったということでしょう。
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※2022/6/27追記
この額の作品を制作した年が分かったので追記しました。
やっと日記が読み進められて良かったです。
書き始めたのは1月だったのですが、あんまり気に入らなかったらしく、
結局2月までかかって何枚もかいていたようです。
2月19日の日記で
「学校であいている時間を利用して額を二つ作っておく。
「正射必中」の作品を裏打ちしておく」
とあって、この日にようやうく裏打ちまでこぎつけたようです。
1か月くらいかけて書いてたんですね。
この額は遠くからでも読みやすいし弓道部っぽくて良いですよね。
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松山北高校70周年記念誌『回顧と展望』(1970(昭和45)年)
松山北高校文芸誌『たぎり』第24号(1966(昭和41)年)
松山北高校生徒会誌『北斗』第15号(1969(昭和44)年)
松山北高校グループ旗(1967(昭和42)年~1990(平成2)年)

神社というのはなんでこう
そこに在るだけで空気が違って感じるのでしょうね。
鬱蒼と繁った木々の隙間から見え隠れする社殿もまた
遠目からでも厳かな感じを受けます。
こちらは東温市(旧川内町)にあります五柱(いつはしら)神社です。

この神社には長い歴史があり、
由緒をみると800年ほど前からこの場所には神様がまします。
この集落がそれほど昔からあるという証明でもありますね。
本殿の建物自体は明治頃かなという屋根の作りに見えました。

その本殿から向かって右側に『森市太郎翁頌徳碑』があります。
この石碑は、1963(昭和38)年4月、
大暁の義弟で氏宮三嶋神社宮司の後藤伝次郎が
川内町役場の森さんに頼まれて碑文を書いたそうです。
五柱神社内にある氏子さんたちの名前を見ていると、
「森」姓の方はたくさんおられる様でしたのでそのうちのどなたかか、
元川内町長の森さんかは定かではありません。
そういうことも、分かれば良いのになー、と
ないものねだりをしたくなります。
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裏は石が割れてしまっていて読めませんでした。
また、碑に大暁の名前も書かれていませんでした。
記録がなければこの碑には気が付かなかったと思います。
こういうのもひとつのご縁かな、と思っています。

『新潮』昭和47年新年特大号です。
この中に、瀧井孝作先生の「碧梧桐のことなど」という
文章が掲載されています。
そうそうたる作家の方々が寄稿しておられますよね。
川端康成が「志賀直哉」という題で寄稿しています。
志賀さんは前年の10月にお亡くなりになっているため
今回このタイミングで文章を寄稿したのだと思います。
しかしまさかこの三か月後に川端康成がガス自殺するなんて
まさか想像していませんでしたよね。
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さて、瀧井先生の文章です。

とても読みづらい部分があって申し訳ないのですが
ちょっと長いこともあってこのままいったん掲載します。
もしかしたらまたスキャンし直すかもしれません。

登場シーンの一部だけご紹介しました。
松山での思い出とか、大暁が釣り好きだった話とか
たくさん紹介してくださっていて嬉しかったです。
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この記事が掲載されたのをたまたま見た
当時南海放送の制作部長だった土井氏から電話を受け、
『サンデーナイン』という南海放送のローカル番組に
出演することが決まったそうです。
私はその番組を観たことがないので
観られるものなら観てみたいものだと思っています。
『私の一代』とかいう10分ほどのコーナーだったらしいのですが、
どんな番組だったのでしょうね。
ご覧になった方がおられましたら、いつか教えて下さい。
※2022/5/31追記
大暁登場シーンのみに変更しました。
また、南海放送さまに問い合わせましたがこの放送分は南海放送にもないそうです。
とても残念です。
河東碧梧桐特集の『墨美』164号(1966(昭和41)年12月)

松山市福角町に松山市立堀江小学校があります。
こちらの東門の文字を大暁が書いています。

夕焼けがまぶしすぎて写真を撮る私が思い切り写りこんでいますが
それは見なかったことにしてください。
前にご紹介した道後小学校正門(1969(昭和44)年1月)と比べて、
スッキリした線でスラリと書いていますね。
松山市立桑原小学校(1970(昭和45)年7月)のはそもそも隷書風なので
雰囲気が全然違います。
参考までに二校の門標の画像を下に並べておきます↓
このように、同じ門標でも「今回はこんな感じにしよう」
「今回はこういう風に書いてみよう」といろいろ試していることが分かります。
また、渡す際に一つではなく三つくらいの候補を渡して
その中から好きなものを選んでもらうというのも
わりとよくしていたようです。
記録にも「同じにならないように」と書いてありました。
でも自分が書いたいろいろな学校の門標の写真を撮って回って、
現像したのを見てみて「こう見るとどれも似ている」
とガックリしていることもありました。
ずっと自分に厳しい目を持つことはすごいことだと思いました。
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ところで写真と言えば、大暁は写真を撮ることがとても好きだったので
残っているものがたくさんたくさんたくさんあります。
(本当に多いので三回言いました)
いつか整理できればきっと意味があると思うので、
長い時間をかけてデータ化していけたらいいなと思います。
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(※2022/10/31追記)
この東門の依頼をしたのは玉井さんという方で、
日記によれば(教え子)と書いてありました。
いつの教え子の方なのかは不明です。
その玉井さんと、校長先生と、PTA会長さんと3人でいらして、
門を新しく作ったので書いて欲しい、という依頼だったということです。
これが、昭和51年2月5日(木)のことでした。