松山市総合コミュニティセンターの道を挟んだ西側、
正確にはプールの西側でこども館の北側に、
松山市立新玉小学校があります。
この新玉小学校は大暁の母校で、
1928(昭和3)年に当時の第五尋常小学校を卒業しました。
『習字』1994(平成6)年10月号の大暁の随筆『おもかげ』によると、
「現在の新玉小学校はコミュニティーセンターの隣にあるが、当時は左図の場所のあたりにあった。学校のすぐ裏には伊予鉄の線路があり、現在の電車ではなく汽車が走っていた。二年生には、桂、花、雪という三つの組があった。私は桂組だった。」(『おもかげ』20より)
とありました。
二年生とあるのは、大暁の父が警察官であり愛媛県内を転々としていて、
この年に退職をして今治から松山に引越ししてきたためです。
そのためその頃はわりと貧乏で、
「小学校の頃、わたしは二つのアルバイトをしていた。ひとつは伊予絣の糸巻きの仕事、もうひとつは新聞配達である。当時は、それほど裕福ではなかったし、小遣いかせぎのつもりでやっていた。」(『おもかげ』21(『習字』1994(平成6)年11月号より))
と語っています。
四畳半の部屋に兄、弟、妹の兄弟4人で寝ていたそうですので
いくら小学生だといってもたしかに狭そうに思えます。
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そんな小学生時代を送った大暁ですが、
その後、新玉小学校の校長に愛媛師範学校時代の同級生が就き、
新玉小学校へ『玉』の作品を頼まれました。
これが1971(昭和46)年の3月の事です。
卒業してから43年の月日が流れていました。
当時の日記には、
「小生にとって母校であるので、小生の気持ちとしては心の暖まる思いである。小生の書が講堂に掲げられるのは名誉なことである。妻と相談して額も全部寄付することにする。」
と書かれてあります。
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現在、『講堂』という名前のものなど公立小学校にあるのだろうかと
心配しつつも新玉小学校に連絡してみましたら、
なんと!現在も体育館に飾って下さっているというありがたいお返事が!
さっそく撮影しに行ってまいりました。
この、校章の真上に飾られている大きな額をご覧ください。
この額こそが、大暁が寄贈した『玉』の額です。
現在では違う校訓がありますが、
昭和46年当時は『玉』が校訓だったのだそうです。
一文字だと逆に想像力たくましくなって、
「玉のよう」というと宝石を指しますから、
一人一人が宝石だという意味だったのか、
あるいは玉といえば球状ですから、
角が無い、丸い、和という意味だったのか、
いろいろと考えてしまいます。
きっといろいろ考えたその全てが正解なのだろうと思います。
…いや、やっぱり山上憶良かな。(まだ考えてる)
額を真下から見上げると、かなり遠く思えます。
小さく見えますがおそらく縦は額を入れると1メートルほどあるそうです。
よーく落款を見ると…
持っているカメラを最大限ズームにしてみましたが小さかったので
残念ながらクリックしても大きくなりません。
でも、一応「澤田茂印」と書いてあるのが分かります。
この上側の落款です!
学校に寄贈しているものではこの落款が多い感じがしますね。
たまたまでしょうか?
うーん、また新たな謎が出て来てしまいました。
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最後になりましたが新玉小学校では校長先生、教頭先生に大変お世話になりました。
本当にありがとうございました。
※同じ落款を捺している作品↓