【書の鑑賞】はじめに②

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思い立ったきっかけ

そもそもなんでこんなことを言い始めたかというと、

「書の見方」という本の「序章」の部分にとても共感したからです。

あーこれこれ、これ私が思ってたこと!そうなのよー、という

This is it‼感がありました。

どこがって?

もうね全部なんですよ。

ここに全部コピペしたいけどきっと何かの権利に引っ掛かりそうな気がするので

皆様なんとかして読んでください笑

簡単に言うと、

身近にある文字に着目して「いいな」とか「面白いな」と思う時点で

鑑賞できているんだよって話です。

あーうーでもこれは端折りすぎていてなんじゃそりゃって感じですか?

つまり書の鑑賞は、実はとても身近で、日常的で、

本人も気が付かないうちにすでにやっているもので、

改めて「鑑賞の仕方とは!!」とかしこまって考えるようなことではないってことなんです。

「そんなこと言われても、、、」と思ったそこのあなたのために、

これからあれこれ鑑賞についてのヒントを書き綴っていきたいと思います。

あなたにとってちょっとしたヒントになるブログになりますように。

>>続き『重要な大前提

【書の鑑賞】はじめに①

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書とはなんだ?

そもそも私がこんなことを発信しようと思っているのは、

書道、イコール中国でいう書法、イコール韓国でいう書芸というものに対して

書にかかわったことのない人からどう考えても敬遠されているような気がしているからです。

(↑めっちゃ身近だと思ってる!って方ごめんなさい)

周りになんでー?って聞いてみたら、

「だって分かんないからー」

と大抵いつも言われるので、それならば分かりやすく見てもらうべく私が何かできることを

ちまちまと書いていけばよいのではないか、と思った次第です。

書展ってだけ聞いて、知ってる人が出しているとかでもない場合、

何をどう観れば良いのか、皆目見当がつかないというんですよね。

そもそも何を書いているのかも読めないし分からないと。

確かに墨象になってくると専門家であっても誰も分からないことも多いです。

読めるかどうかだけにこだわってないってこともあるんですけど、

何しろ書にはこれという定義がないのです。

えーってなりましたか?もうビックリですよね。

ひとまず昭和の高度成長期頃に

「書は文字を使った造形芸術である」

ということになったらしいのですけれど、

それは範囲が広すぎるように思われてなりません。

文字を使った、というやつがけっこう曲者ですよね??

文字のパーツを持ってさえいればよいのか、

文字として読めればいいのか、

文字と言い張っていればそれで良いのかなど

考えようによってはいろいろある気がするんです。

でも、文字じゃなくなったらそれは絵と差がない気がしませんか?

これじゃ誰も何もわからなくなってきて当然ですよね。

ちなみに広辞苑によると、

「 毛筆を用いて文字を巧みに書く術。 」

と書いてあるのですが、これはこれで、

毛筆って限定しちゃうの??っていう疑問もあります。

書塾に行けば、毛筆に限らずペンや鉛筆も指導していますよね?

それは書に入らないのかと言われれば、入るんじゃないでしょうか?

しかも石碑が全部書に入らなくなってしまいます。

あと逆に、中国の方にとってみれば、日本のかな書や韓国のハングル書は

たとえ文字であっても書の定義の中に入れているのかどうか

きわめてあやしい気がするのですが、どうなんでしょう?

謎多き書の世界。

書とは何かを考えるまずはじめに、

書の観方について一緒に考えてみようかと思います。

また、今後私が「書」という場合、

便宜上「文字を使った造形芸術」という定義で使用します。

>>続き『思い立ったきっかけ