松山市立子規記念博物館『第3回特別企画展 碧梧桐 自在への句と書』(1982(昭和57)年4月)

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松山市立子規記念博物館で開催された碧梧桐の特別企画展にて

作成された冊子の中に大暁が寄稿しております。

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右側の画像からご覧ください。

インタビュー形式での記事のようです。

こちらの子規記念博物館の前の道後公園の入り口には子規の石碑があり、

その裏側の文字を大暁が書いています。

道後公園句碑の裏書(1986(昭和61)年10月)

↑こちらに詳細があります。

そういう繋がりもあり、依頼されたのではないかと思います。

また詳細について分かりましたら追記します。

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『愛媛』「碧梧桐の書と書論」(1964(昭和39)年9月、11月)

龍眠会特集の『墨美』159号(1966(昭和41)年6月)

河東碧梧桐特集の『墨美』164号(1966(昭和41)年12月)

愛媛新聞『碧梧桐座談会』(1967(昭和42)年4月30日)

河東碧梧桐『三千里』上下巻、『続三千里』上巻(1973(昭和48)年~)

『碧梧桐の書の変遷』(愛媛新聞1973(昭和48)年12月25、26日)

『河東碧梧桐 ―俳句と書―』(1982(昭和57)年1月) (※2022/6/5追記あり)

『文化愛媛』「河東碧梧桐の短詩」創刊号(1982(昭和57)年1月)

『墨』36号(1982(昭和57)年5月号)特集:虚子と碧梧桐

松山東高校生徒会誌『青柳』創刊号(1965(昭和40)年3月)

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松山東高校には同窓会誌『明教』『関東明教』のほかに、

生徒会誌『青柳』があります。

この創刊号の表紙を大暁が書いていたので見せて頂きましたら

中に文章も寄稿していました!

ので、棚からぼた餅というかひょうたんから駒というか

思いがけない幸運でした。(やっぱり『たなぼた』ですね)

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こちらが目次です。目次に「題字 澤田大暁」とあります。

そして右ページにあるように、本誌134ページに

『碧梧桐の書と書論』というタイトルで書いています。

というか左ページの寄稿者たちがめっちゃ豪華ですよね。

正門入って左側に鎮座しておられる胸像でおなじみの阿部能成さんや

俳人の松根東洋城さん、

新田高校の校長も務められた佐伯秀雄先生など

いろいろな方面で活躍されご縁のある方々が寄稿されています。

創刊号ってやっぱり熱量がすごいですよね。

無から有を創り出すのには相当な熱量が必要なのだと

この一年いろいろな調査をしてきて思います。

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国語科と芸術科と両方に写真が載っていました。

そんなこともアリだったのですね…ほ、ほぅ。

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こちらが碧梧桐について書いたページです。

碧梧桐の書と書論について、以下のように書いています。

 ここに本校の先輩碧梧桐の書についてとりあげた所以は、俳人としての碧梧桐は、虚子とともに、子規門下の二巨星と仰がれているにもかかわらず、書作家としての碧梧桐の陰は薄い。そこで、私の見識のとどく限りにおいて鑑賞してみたいと思ったからである。
 現代の書道界の傾向からみれば、碧梧桐の書は風変りでもなく、また絵のような字だと非難された当時のことがおかしい位である。先覚者は往々にしてその真価が認められず、葬られてしまうことが多いようだ。碧梧桐はそのよい例であったと思う。
 碧梧桐の書論の中には、卓抜な意見を述べているが、それから類推して、現代の書道における先覚者だと言っても過言ではない。私自身現代の前衛的な書道を味わって来ている者において、痛切に感じている一人である。久米の米山翁については殆どその真価が問題にされていない。もっとも時代的にみて、当時は書法とか、精神修養のためだとかなかなかやかましい時代で、師法を重んじて、盲従していた頃だから、彼の書論が奇抜過ぎたのである。書家の中に西洋的な思潮を充分かみしめて書道にもとり入れようとする者がほとんどいなかったのであるし、唐以前の書法に眼をむける者が少なかったとも言える。もし居ても形骸をとどめるに過ぎなかった。それ故に書道史的にみて、明治大正のころは先駆者にとってみじめであった。少しかわった書でも書くものなら、書を冒涜する者だと排斥したものである。そのころにあって超然と独歩の書論を吐いていたのが碧梧桐である。逸早く六朝の書道に眼をむけたのだから卓見である。しかし初めから彼の書がそういう方向を指していたわけではない。最初の出発は師正岡子規の書をそのまま手に入れていた。やはり普通の出発であった。それが間もなく六朝書風に眼を向け出した。碧梧桐の芸術性が一場所にとどまることを許さないのである。後には洋画家の先駆者として有名な中村不折とともに六朝書道を鼓吹し、大正元年には不折等と龍眠会をおこし、会報「龍眠」を発刊した。当時の書風をみると全く中村不折と同傾向で、見分け難いものがある。不折と碧梧桐の芸術性は六朝書の上で共鳴していたと思われる。それから間もなく碧梧桐はまた独歩の歩みを続け始めた。一定の場にとどまることができない彼の姿を如実に表している。
 明治四十二年八月二十六日の朝、越中の竹湍が訪ずれてきて六朝書の筆法を教えてくれ、というのに対して書論を述べているが、これが、「続一日一信」の中に収められている。もしこの書論が現代であれば、我々の世界において普通のことである。しかし明治四十二年に既に現代の代表的書作家が述べていることを言っているのであるから敬服させられる。
 続一日一信の書論をあげながら私見を述べることにする。「所謂俳諧に門戸なしで、書道にも筆法という一定の門戸はない、要するに趣味(芸術性と解すべきか)の高い俗気の無い力の張った書をさえ為し得れば、それで目的は達せられておる」筆法に門戸は無いと道破しているのである。これは当時として怪異にさえ感じられることである。流儀というものに重きがおかれていた時代であるし、現在でもややもすると、貴殿は何流ですかと問われることがある。実際筆法なんて本人が持っているものが即ちその人の筆法であって、私が極論すればその人の個性が即ちその人の筆法である。要するに趣味の高いと言っている言葉は、人間性そのものを述べていると思われる。即ち情緒豊かな芸術性に富んだ人間でなければ駄目で、名声や技術だけでは書が書けるものではない。と言い切っているのである。これはすばらしい見識といわなければなるまい。現代的な言葉でいうなれば、芸術的センスの問題で、インスピレーションの湧かない人間では高次的な書はできないのである。碧梧桐にとって当時書かれている美しい書などは眼中になかった。これだけのことが当時言えたのは何といってもすばらしい。その反面碧梧桐の書道に対する態度がある程度確立していたとみてよい。俳句においても自由律の定昇の火口は切られ、四囲の芸術界を卓観していた頃である。碧梧桐が多芸多能であったことは、彼の芸術性の赴くままに表現が可能であったのではなかろうか。「俗気の無い力の張った書をさえ為し得れば、それで目的は達せられておる。」と述べているが、俗気の無いのは人間の問題である。俗人は俗人の書しか書けるものではない。高僧は自らにして立派な書を残している。良寛の書のすばらしさは良寛の人物が打ち出されているからである。俗人から逃避するため芸術家の中には酒に浸る者が多い。私もその一人かも知れない。酒によって俗塵を洗い、夜中の静かな時に書に打ち込むことが多い。結局心の俗気を酒によって洗うのである。要するに人間性の深度によって書の本質は異って来るものである。地位や名誉で書を書いている者が居るが、考え方によるとこれは噴飯物である。明治の偉人はよくわきまえたもので、伊藤博文は春畝とか、ただ博文と書いている。総理大臣などの肩書は書いていない。西郷隆盛は南洲と書いているだけである。それで見事なもので、南洲の精神躍如たるものがある。次に力の張ったと言っているが、これは技術の世界で、いくら芸術的センスがあり、人間的に情操が豊かであっても技術のともなわないものは結局書としての価値がない。筆力は用筆の根本的な問題で、柔毛であろうが、剛毛の筆であろうが、筆力を出すことにおいては変りがない。筆力はその人の鍛錬過程の表現であるとみてよい。更に技術的な面を述べているが、私たちの試みている新しいことを既に明治四十二年に謡っている。『筆を右に臥かす「側筆」前即ち筆者の身の方に倒す「偃(えん)筆」、筆を左側に臥かす「逆筆」、「偃筆」の反対の方向に倒す「倒筆」の四つがある。これを四則という』と述べているが、これは当時としては意外であったろう。邪道として非難されるのも当然のことで、懸腕直筆でなければ書はできないとされていたことのことである。現在私たちが筆を倒すことによって種々な線質を出して、書の線は唯の線ではなく面であることを自覚しているのである。ただの線の集合は書としての価値はないと思っている。それだけに碧梧桐のこの書論はすばらしい。なお、「懸腕直筆に馴れた人は、これを奇怪のこととするけれども、それは自己が久しい間ある巣中に沈淪(ちんりん)してをったことを忘れた観察に基くと思う。月並みの調子に馴れた頭に我らの句が生硬に響くのと同じ趣で、さる攻撃や冷笑は言うまでもなく無価値である」当時の書家連中を睥睨(へいげい)していて、痛快この上ない。碧梧桐の書の中には複雑な要素を含んでいるのを凡人は見落しているのである。筆の自由自在は、人間の自由性に通じ、あらゆる方向へ延びてゆく要素ともなる。ところがこれほど追求している技術を、彼は一面では否定しているのである。書の本質は品位にあることを第一義としていたからであろう。「書は単に技術ではない。筆法に精通し習熟さえすればそれで書が大成するとは言えぬ。究極の問題は趣味(芸術性)である。人格である。頭である。頭がしっかりせず、人格が修練されず、趣味が解されないで、書を作す所以はない。筆法の如き遂に些々たる末枝である。」あれほど、卓抜たる技法を述べながらなおそれは末枝であると言い切っている。人格修養のために書道を習練するのだと、そのころ言っていたが、それは倫理感に結びついていることが多くて、ここにいう人格修養とはほど遠いものである。宇宙大自然と一体になり得る人格であり、小さく言えば、美的対象に対して、鋭い感性によって抱擁する世界がそれである。
 要するに続一日一信の冒頭にかかげている、「書道にも筆法という一定の門戸はない。」の語は、書道の奥義を究めた者でなければわかるものではない。しかしそれかといって本質的なものを無視しているわけではない。「俳諧にゃかなの使い方と季題趣味の研究が必要である如く、六朝書を宗とする一二の書法、即ち筆の扱い方が無いでもない。」と述べているのでもわかる。本質的なものまで無視すれば一人よがりのものであって、俳諧にもならぬし、書でもないことを述べている。この本質的なものは、書の本質的なものから生まれるのであって、それを会得していなければ、書は書けるものではないと言っていると思われる。前述した通り、書道は唯精神修養のために使われたり、字が上手になるためのものであったり、当時は書が芸術の世界であることを嫌った傾向さえみられたのであった。書が速く封建的な社会から脱却して居れば、もっと書道は日の目をみていたかも知れない。
 碧梧桐が欧州へ旅立って、身を以って西洋思想や芸術に触れ、偉大な芸術を感得して帰省してからは、がらりと独歩の書風を書きはじめたのである。すなわち大正十年頃のことである。微妙な線質に西洋的な造型性が加わり、シチリア島のモンレアーレ本寺南側に付属する廻廊にあるモザイク柱を思わせる。それは空間への柱の働きと、その柱そのものの華麗が、碧梧桐の書に似通うものを感ずるからである。(芸術科担任)

ちなみにこの作品のところに書いてある「二宮蒸一氏」とは、

碧梧桐の姪の息子さんという方で

日記にもたびたび作品を観せていただきにあがっているようです。

大暁は愛媛県内だけでなく日本中の碧梧桐の作品を

写真に撮りに行っていました。

このフットワークの軽さは見習うべきところだと思います。

やりたいことは後回しにせずとりあえず行動してみるように

私も心掛けていこうと思います。

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松山東高校内『明教館』にある『六曲屏風』(1952(昭和27)年)

松山東高校、松山北高校寄贈『山部宿祢赤人至伊予温泉』歌

【失われたシリーズ④】愛媛県立松山東高等学校門標

愛媛新聞『鐘はなる』(1976(昭和51)年4月13日)

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結婚についての記事のはずなのに、

結婚にまつわる話は最後の五行だけという驚きの記事です。

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この取材は同年4月1日に持田の家で行われました。

当時の日記には

『小生がしゃべりまくって一応まとめてしまう。

 何かまともをはづれた感じである。』

とあって、「何をしゃべったんだ…?」と思っていたので

記事を見つけて納得しました。

ですが、名士夫婦のような憧れの対象として取材に来ていただけたことが

当時とても嬉しかった様子でした。

個人的には、

もうちょっと祖母について触れて欲しかったなと思いますが

この記事の内容と日記と大暁本人との思い出を考えると

取材のときの様子がなんとなく想像できるので

こうなるのも予想通りではありますよね。

.

こんな風に二人の写真を大きく出して記事にしてくださったことを

嬉しく思います。

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『中島司有書作展』推薦文(1974(昭和49)年1月)

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中島司有先生は何度か上野の森美術館で展覧会を開いていました。

この1974年、澤田大暁は作品集に推薦文を寄稿しています。

 

実は家で探したところ別の年の作品集しか見つけられず、

推薦文がどうしても読んでみたかったので

直接中島先生が創設した現代書道研究所に問い合わせをしました。

そうしましたら、現所長の佐伯司朗先生が直接お返事とこの画像をくださいました。

いろいろな方のお世話になっております。

本当にありがとうございます。

 

さて、この作品集の推薦文については、

この個展の2か月前、

11月12日に原稿用紙200字詰5枚にまとめて送ったという日記がありました。

この度ついにその内容をご紹介します。

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どうですか。

しょっぱなからの「親友」呼びで驚きましたよね。

「あれ、こんなに近しい感じ?」

と個人的にはびっくりしました。

直接ご存知の方は当たり前なのかもしれないです。

私は面白いなと感心しました。

 

また、戦後すぐから認知していて、

昭和31年からのつながりだったことや、

中島先生が松山市にお住まいだったころに親しくなったことなど、

私の持っている日記の昭和37年よりも前の情報が手に入ったことが

とても有意義でした。

こんな風にまた別の原稿から

日記以前のことが分かる資料が発掘されてほしいと思います。

どこにあるかはまだ分かりませんが楽しみに調査を進めたいと思います。

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中島司有「沢田大暁書作展に思う」(五禾書房『書道』第21巻7号(1975(昭和50)年7月))

五禾書房『書道』より中島司有「沢田大暁書作展に思う」(「習字」1976(昭和51)年9月号)

中島司有「沢田大暁書作展に思う」(五禾書房『書道』第21巻7号(1975(昭和50)年7月))

『習字』1976(昭和51)年9月号に掲載された記事

五禾書房『書道』をついに発見しましたのでご紹介します!

苦節五か月(意外と短い)、やっと見つけました。

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雑誌はあまり残っていないことが多く、

古本屋さんやネットで気づくたびに検索して回っていたのですが

なかなか該当の号が見つけられず時間がかかってしまいました。

今回やっとネットで見つけた時は、

嬉しくてお店の方にも自慢してしまいました。

よく考えると迷惑な客ですね笑

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当然のことながら内容は

『習字』1976(昭和51)年9月号に掲載された記事のと同じです。

ですが、記事の中に写真が掲載されていることは

今回手にしてみて初めて知りました。

「巌」と「喜」の作品ですね。

こんな感じにレイアウトされて記事になっていたとわかり

改めて嬉しかったです。

やはり百聞は一見に如かず、ですね。

この雑誌を残して下さっていた方にも、

この本を売って下さった古書店の方にも、

お礼を言いたい気持ちです。

ありがとうございました。

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五禾書房『書道』より中島司有「沢田大暁書作展に思う」(「習字」1976(昭和51)年9月号)

『中島司有書作展』推薦文(1974(昭和49)年1月)

趣味の雑誌・酒(1976(昭和51)年2月号)

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実を言うと、いったい何がどうつながってこの雑誌なのか

全然分かっていないのですが、

昭和51年2月2日の日記に

「筏で松本松吉氏に会う。絹小路の推薦文が「酒」という本に出た。
 昨年小生が原稿を書いたものである。」

というのが突然出て来て、

慌てて前年の日記を見返すもそんな記述が無いため

いったいいつ書いたのか、どういう繋がりなのか謎です。

ただ、ありがたいことに家に雑誌は保管してありました。

雑誌のたぐいは今探そうと思ってもなかなかないのでありがたいです。

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たしかに文言は大暁が書いているようなのですが

この写真………みなさまはどう思われますか?

写真の写り方かもしれませんが大暁に見えないので

一応念のため両親にも聞いてみましたが

やはり「違うと思う」とのこと。

体格はそれっぽいんですけれど、

そうなるとこの右側の方は一体誰なのか…?

そもそも本人も「推薦文が出た」と書いているだけで

写真が載ったとは書いていないんですよね。

うーん、どうなんでしょう。

.

「書家酒豪大会大阪場所」(『習字』1967(昭和42)年5月号)

にもあります通り祖父大暁はお酒が好きだったので

そういうお酒の席での繋がりや人脈で

この推薦文が掲載されるに至ったのかもしれませんね。

よく一人でフラッと飲みに出て、

行った先で誰かと会って話す、ということがよくありました。

それが情報源となって現状を分析するとか、

愛媛・松山に来てくださった方を案内するための顔つなぎ、

という面もあったのかなと思います。推測ですが。

.

この「酒」という雑誌は佐々木久子さんという方が編集長をなさっていた

お酒専門の雑誌です。(1997(平成9)年に休刊しています)

佐々木さんはお酒の本も多数出版されていて、

家にある本には大暁へのメッセージのあるものもありました。

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表紙と裏表紙です。

昭和57年のようなのでこの「酒」という雑誌よりは随分後ですが、

何かしらのお付き合いはあったようですね。

こういうサイン本?は本を開けてみないと分からないので

本棚にたっていて「お、読んでみようかな」と手にとると

急にサインが出て来て驚きます。

本からも大暁の人生の歴史が感じられて

親近感も突然出てくるので不思議です。

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「書家酒豪大会大阪場所」(『習字』1967(昭和42)年5月号)

からたち-村上節太郎先生退官記念随筆集(1975(昭和50)年9月)

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愛媛大学に勤めておられた村上節太郎先生が退官なさる時に

学生時代の友人から大学教員仲間だった方など、

関わった方々それぞれが村上先生との思い出を語る

随筆集を出版されました。

この中に、愛媛県師範学校(現:愛媛大学)の元同僚として

澤田大暁が随筆を寄せています。

 

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「私が投手をするのは当然のことながら」とかいうあたりは

え、あ、そうなの??と突っ込みたくなりますが、

それにしてもいろんなことをよく覚えているものだと感心しました。

いつどこでだれがどういうことを言ったか、なんて

この頃はたいして日記もつけていなかったのによく覚えているものです。

 

そしてこの写真は、なんだか見慣れた祖父の姿で

この写真一枚だけでも懐かしい感じがします。

個人的にはもうすこし髪が長い姿が一番見慣れていますけれど、

新聞などによく載っていた頃の祖父はだいたいこんな感じの容貌であるように思います。

 

後の火事によって今、愛媛大学内には祖父の資料は何もありませんが

(勤めていた記録も全部燃えちゃったそうなので)

こうやって一緒に勤めていた方がおられると

事実勤めていたのだと確信が持てて嬉しいです。

いえ、もちろん疑っていたわけでは決してないんですけれど。

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愛媛県女子薬剤師会誌『たちばな』(1975(昭和50)年9月)

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愛媛県女子薬剤師会は、現在の愛媛県女性薬剤師会だと思われます。

昭和50年に20年を記念して作られた記念誌の表紙文字を

澤田大暁が書いております。

.

当時の日記には当日のことが書かれておらず、

9月30日に

「昨日頼まれた「愛媛県薬会報」を書いてみる。プリントの表紙にするらしい。」

と書いてありました。

そのため、普通の会報(通常の定期会報)かと思っていましたし

会報といってもプリントなのかと想像していました。

しかし、調べていただいたところ

こんな立派な冊子を発見していただけました!

古いものですし図書館などには置いておらず半ばあきらめておりましたので

本当にありがたく、うれしかったです。

ありがとうございました!

.

ていうかこれ「プリント」とかじゃ全然ないじゃん…

と心の中で突っ込んでしまいました。

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編集後記にはちゃんと名前も書いていただいており、

ありがたいかぎりです。

もうちょっと日記に詳細を書いてくれていれば、と

思わないでもないですが、

こうやって一つ一つ見つけていくのは私にとって

まさに宝探しのような感じです。

残しておいてくださったことに感謝です。

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『子規遺墨』書籍編を推す(愛媛新聞1975(昭和50)年11月8日)

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『子規遺墨』は、山上次郎氏が監修した

全三編(書跡編・絵画編・書簡編)の正岡子規の遺墨集です。

山上次郎氏は愛媛県出身の歌人、文筆家で

愛媛県議会議員も務めておられた方のようです。

.

大暁はご本人と友人関係にあったわけではなく、

愛媛新聞文化部の方から推薦文を頼まれてこの文章を書いたそうです。

日記によれば、大暁原稿で14枚書いたとか。

あ。

大暁原稿って知ってる人にしか通じないですよね。

200字詰めの原稿用紙で、左下に沢田大暁原稿って書いてあるんです。

うちにまだあります。

.

頼まれてから山上次郎さんの本をたくさん読み始めた様子で、

原稿が終わってからも本を買ってきては読んでいたようです。

.

【追記】大暁原稿の写真も載せておきます!↓

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愛媛県高等学校教育研究会研究集録第8巻(1970(昭和45)年)

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またしても、「こんな雑誌あったのね」というやつです。

これは、書いたことだけ日記にあって、どこに載せたのかわからなかったのですが

図書館で探していてたまたま見つけました。

図書館も宝探し状態です笑

図書館のバーコードを消すために左下が怪しい感じになってしまいました。

※クリックすると大きくなります(左から順番に見てください)

実をいうと大暁の調査をし始めてから初めて

河東碧梧桐がヨーロッパに行っていたことを知りました。

冒頭に、瀧井先生から「欧州紀行」という本をお借りしたと書いてあったので

「欧州紀行」という本を探してみたのですが見つけられませんでした。

今度、碧梧桐全集を紐解いてみたいと思っています。

三千里もまだ読めていないのでそっちが先かもしれません。

今、完全に「積ん読」状態です。

やりたいこととできる時間の差がありすぎる!

いでよ時間!!

そんなわけで、家にはミケランジェロなど西洋美術に関する本や図録があるのですが

なるほどこういうときに使っていたのだと納得した次第です。

.

芸術全般はどこかしらつながる部分があって、

書道と西洋美術は一見全然似ていないように見えて

通じるものがあるのだなと思います。

何かを見て「美しいな」「すてきだな」と思う心に

国境はないのだと思いました。

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