愛媛新聞『鐘はなる』(1976(昭和51)年4月13日)

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結婚についての記事のはずなのに、

結婚にまつわる話は最後の五行だけという驚きの記事です。

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この取材は同年4月1日に持田の家で行われました。

当時の日記には

『小生がしゃべりまくって一応まとめてしまう。

 何かまともをはづれた感じである。』

とあって、「何をしゃべったんだ…?」と思っていたので

記事を見つけて納得しました。

ですが、名士夫婦のような憧れの対象として取材に来ていただけたことが

当時とても嬉しかった様子でした。

個人的には、

もうちょっと祖母について触れて欲しかったなと思いますが

この記事の内容と日記と大暁本人との思い出を考えると

取材のときの様子がなんとなく想像できるので

こうなるのも予想通りではありますよね。

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こんな風に二人の写真を大きく出して記事にしてくださったことを

嬉しく思います。

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【失われたシリーズ④】愛媛県立松山東高等学校門標

※昭和40年度 松山東高等学校 第17回卒業記念アルバムより

遠い昔、松山東高校の門標を書いていたこともありました。

父の入学時(1967(昭和42)年4月)にはすでに今と同じ横書きの門標だったらしいので

昭和40年から42年の数年の間に代わったようです。

ちなみに、この頃に本館も建て替わっています。

今はもうないですが、校舎の両側に吹きっさらしの廊下があった建物です。

風通しがよかったですよね笑

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このあたりの日記は改めて通して読んだのですが、

門標に関する記述をみつけることができませんでした。

今度、機会があれば学校にも問い合わせてみようと思います。

たいてい探せば他にも問い合わせたい内容が出て来そうなので

まとまってから聞こうかと考えています。

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これとは別に、東高校では図書館の門標も書いていたはずなのですが、

以前学校を訪問した際図書館の方に伺ったところ

当時の図書館があった場所には体育館(旧 東体育館)が建っているため

学校内には残って無さそうだと云う事でした。

こちらは現在の図書館にも遠景の写真しかなく、

残念ながら門標は写っていませんでした。

ざんねんむねん。。。

(2023/4/22追記)

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1957(昭和32)年の卒業アルバムで正門の写真を見つけました!

東高校図書館の先生方、快く閉架図書を見せていただきまして

本当にありがとうございました。

後ろにあるのが建て替え前の本館です。

しかし、この写真の門標は大暁のものではありませんね。

「県」が旧字体の「縣」になっていますし、

「高等学校」の部分の消え具合から見ても違うと思います。

これより後だったのかもしれませんね。

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こちらは1959(昭和34)年の卒業アルバムです。

校舎側から門を見ているところだと思います。

左側が瓦礫に見えるのですが、これは…がれきか図書館建設前の状況なのか…?

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こちらは百周年記念誌に掲載されていた正門の写真です。

門は縦書きですが文字は不鮮明でよく見えません。

結局のところ「よく分からない」という結論になってしまって残念です。

昭和32年のものと比べると、体育館や本館(第一教棟)の様子が違っていて

時代によってどんどん変わっていった様子が分かりますね。

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松山東高校、松山北高校寄贈『山部宿祢赤人至伊予温泉』歌

松山東高校内『明教館』にある『六曲屏風』(1952(昭和27)年)

松山東高校生徒会誌『青柳』創刊号(1965(昭和40)年3月)

『教育広報』第72号(昭和49年)

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そもそも『教育広報』という雑誌の存在を私は知らなかったので

調査してみて初めてこのような雑誌があったのかと驚きました。

昭和50年に退職した大暁にとって、

昭和49年というのは教員生活最後という

しめくくりの年だという意識があったように思います。

この雑誌に、以下のような随筆を寄せています。

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1970(昭和45)年、金子鴎亭先生を団長とする日本代表書家訪欧団に参加し、

ヨーロッパを観て回った大暁は帰国後西洋美術についても調べ始めました。

スライドを作ったり、本を読んだり、

今でも家には画集などがたくさんあります。(大きい、そして重いのが!)

そういった刺激もまだまだ残っているような文章ですよね。

随筆というのは、まあ多少かっこつけているところはあるにしても、

考え方が分かって面白いです。

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作品 松山大空襲「父爆死」(『習字』1995(平成7)年11月号)

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1945(昭和20)年7月26日の深夜、松山市で大規模な空襲がありました。
その際、私の曾祖父(大暁の父)は亡くなりました。

もうすぐ空襲の日がやってくるので、この作品を取り上げることにしました。

この空襲について、大暁は「おもかげ」の最終回で以下の様に語っています。

「松山が全滅するような大空襲の日、いつものように雄郡小学校で落ち合う約束で、家族それぞれ大事な物を身につけて家を出た。私は最後に見回ってから家を出、中の川を越して小学校まで走った。ところが、いつまで待っても、先に出たはずの父親が来ない。その日の空襲は、とてもひどかったので父の安否を皆でとても心配していた。

後で避難してきた近所の人が、「お父さんは、国鉄の線路よりずっとこっちの、林の方でやられていたようなよ。」と教えてくれた。長い夜が明けるのを待ちかねて、父親を探しに行った。あたりは、ひどい有り様だった。探して、探して、中の川橋の所で父が死んでいるのを見つけた。橋のあたりで爆撃され、そのまま走って逃げれば命を落とさずにすんだかもしれないが、父は当時足を悪くしていたので、逃げることをせず、そこの石の下に隠れようとしたらしい。それを思うと涙が出た。父は、しっかりとした厳格な人で、私にとってはこわいとも思われる存在だったが、体を悪くしていた最期が悲しい。その時の思いを、後に、詩に詠み、屏風作品とした。私の心を打ち込んだ、今でも目頭の熱くなる作品である。

その松山大空襲で、長く住んでいた江戸町の家は焼けてしまった。私達は家を失い、父親を失った。

―完―

沢田大暁短歌

父爆死(松山大空襲)

いづれにか父やおはすと燃えさかる紅蓮中にもとめ迷ふかも

爆弾(たま)うけしわか父の血ぞ赤々と布団の外ににじみいでたる

あはれあはれ息たえにけり父ねむる布団のうへに日はのぼりつゝ

うつつなく荼毘の煙のあと追へば松田ケ池の面にみたるる 」

布団の外まで血が滲んでくるような状況で、
それでも次の空襲があるかもしれなくてゆっくり悲しみに浸ることもできない、
そんな日常だったことがありありと迫ってきます。

私が読む日記には、命を大切にしてほしいという気持ちが何度も出てきます。

生徒が事故を起こした時、自殺した時、
そのたびに心を痛めている様子の記述を残しています。

こんなつらい思いをした人が日本中のすべての地域に
たくさんいたことを忘れてはいけないし、
世界に目を向けると、
今まさにこのようなつらい思いをしている方がたくさんいることを
他人事にしてはいけないと思います。

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毎日書道展準大賞受賞(毎日新聞愛媛版1968(昭和43)年7月18日、『習字』1968(昭和43)年9月号)

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松山北高校『閑吟』(1969(昭和44)年7月)の作品で

昭和43年に毎日書道展準大賞を受賞しました。

その時に『習字』誌上に掲載された記事がこちらです。

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この記事の中にある毎日新聞愛媛版を探したのですが

最近のものならともかく昭和43年のものが図書館を回っても見つけられず、

今毎日新聞社に問い合わせをしています。

記事が見つかったらまたこちらでお知らせいたしますね。

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この時に毎日書道展の審査員に推挙され、

以降参与として長年活躍しました。

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2022/06/28追記

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1968(昭和43)年7月18日の毎日新聞愛媛版です。

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こちらは1968(昭和)43年7月19日付け東京本社発行夕刊です。

問い合わせてデータを頂けました☆

古いとなかなか手に入らないので

探すだけでも一苦労です。

ふー、歴史の中では近現代のはずなのに、

探すとなるとほんと難しいですね。

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うちにある角川書店『書道字典』の話

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このボロボロの書道字典は

我が家愛用の角川書店刊『書道字典』です。

(※上のリンクからAmazonに飛びます)

実は今は教室には置いてなくて(前は置いてたんですが)

大切にしまってあります。

初版本でもありますし、

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伏見先生のサインも入っています。

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この字典は筒井先生から渡して頂いたと記録があったのですが

伏見冲敬先生と大暁の間は筒井先生を介していただけで

お互いがさしたる知り合いだとは思っていなかったのです。

でもこの前、気になっていたので直接筒井先生に伺ったところ、

伏見先生とは直接お会いして話していたことを知りました。

思っていたより親しくしていてビックリしましたし、

なんと『習字』誌上で連載もされていたことが分かりました!

(連載についてはまた別記事にしますね。)

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やはり日記は万能ではありませんね。

伺ってみて良かったです。

そして答えを知ることができることをありがたいと思いました。

大暁の始まりの師、三宅木兎先生

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明日6月15日から19日(日)まで、

愛媛県美術館2階特別展示室において

第23回いろどりの書作展が開催されます。(詳細はこちら)

一昨年はコロナでできなかったこと、

昨年はまだまだ人をそんなに呼べるような上京じゃなかったことから、

今年は久し振りに大々的に呼びかけられる展覧会となりました。

 

そこで今回、ちょうど筒井先生から三宅先生のかなの半切作品を頂いたので

大暁のかな作品と並べてちょっとしたコーナーを作り、

展示することにしました。

 

大暁のはじまりは教員生活初年度、

湯築尋常小学校で校長先生から習字の担当に指名されたことでした。

その同じ年の昭和10年に、愛媛師範学校へ赴任してきたのが

当時32歳の三宅木菟(本名:武夫)先生でした。

つまりは学生時代にお世話になっていたわけではないということです。

そして愛媛師範学校に教員として赴任する前の昭和16年に

自身の故郷である岐阜師範学校へ転勤して行っています。

(大暁が愛媛師範学校に赴任したのは昭和18年です)

ちょうど大暁が文検を目指して三宅先生を訪ね、

勉強している間だけ愛媛におられた先生ということになります。

 

人との出会いというのはこういうご縁なのかもしれないですね。

展示の際に展覧会場で三宅先生のかなと

大暁のかなを並べて見て、似ているところを感じました。

 

三宅先生に教わり、三宅先生が比田井天来先生の弟子(自称?)だったことから

大暁は手島先生と出会うことになります。

人とのつながりがまずあって、

そこから数珠繋ぎにどんどん世界が広がっていくさまは

もうご縁としか言いようがないですよね。

その起点が観られる展覧会だと思います。

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愛媛県習字教育研究会のバッジ(『習字』昭和30年7月~昭和31年2月)

私は存在すら知らなかったのですが、

バッジがあったらしいです。

これは昭和30年7月から昭和31年2月までだけの限定で販売されていました。

なんで蛍なのかとか、(蛍雪的な…?)

蛍って紺色だったかしらとか、

なんで三角なんだろうかとか、

なんかいろいろ気になる点があるのですが

そもそもこういうものがあったことにビックリしました。

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この文面に時代が出ていますよね。

一個「三五」円で、「二十五」個以上…のあたりにも、

今のようにパソコンで作成して印刷するのとは違う

アナログの趣きが感じられます。

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「書家酒豪大会大阪場所」(『習字』1967(昭和42)年5月号)

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大暁本人をご存知の方はご存知でしょう。

澤田大暁とお酒が切り離せないことを…!!

酒豪大会の記事を掲載するのも楽しそうなレポートですよね。

個人的には第23代木村庄之助さんと握手しているのが

めっちゃうらやましいところですね。

第24代木村庄之助さんから木村庄之助さんは木村伊之助を経由しないと

庄之助に上がれないことが決まったので、

第23代木村庄之助さんは最後の伊之助を経由しない庄之助さんです。

(文字だけ見たら意味不明な文章ですね笑)

ちなみに第23代木村庄之助さんは木村正直さんからの庄之助さんです。

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話が逸れました。

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お酒好きな印象の強い大暁ですが、

もともとはお酒にはめっぽう弱かったそうです。

ちなみに昭和29年時点での写真はこちらです↓

※クリックすると大きくなりすぎるのでご注意ください

こちらは『習字』昭和29年11月号に掲載された写真です。

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え、だ、、、誰…??

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って感じですよね。

めちゃくちゃ痩せてます。

しかし、当時は当然のようにあった

「お酒の付き合い」がどうしても必要だと思ったそうで、

下戸から飲めるようになったのだとか聞きました。

下戸ってそんな強制的に飲めるようになるのかどうか、

私には分かりませんが

そういうことだと本人が言っていましたので

そうなのではないでしょうか。

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趣味の雑誌・酒(1976(昭和51)年2月号)

愛媛師範学校女子部に勤めていた記録

「愛媛県女子師範学校・同付属小学校跡」碑(1977(昭和52)年)にある通り、

澤田大暁は1943(昭和18)年から1950(昭和25)年まで

確かに愛媛師範学校女子部で勤めていたのですが、

松山北高校を退職して年金をもらうようになる頃、

愛媛師範学校に勤めた記録がないので大変だったというエピソードがあります。

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というのも、愛媛師範学校男子部は当時木屋町にあったらしいのですが

その師範学校が松山大空襲で焼失してしまい、

事務書類も何もかもが失われてしまったのだそうです。

それで、勤めていた記録…というかなんなら働いた記録が

一切合切無くなっていたのだそうです。

そのため、愛媛師範学校でたしかに勤めていたと

証明してくれる人物を何名も集めて

書類を作るのが大変だった様子が書かれてありました。

(その間無職ってことになると年金に響きますものね)

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確かに、空襲で校舎も何もかも無くなってしまって

しかもその後男子部と女子部が一緒になったり

学校が木屋町と須賀町から城北へと移転したり、

学校名が変わったりという事務的に煩雑な時期に

ポンと県立高校へ転任してしまったとあれば

大変になってしまったのもうなづけるなとは思います。

最終的には証明できたようで良かったです。