喜多浦八幡大神神社(1985(昭和60)年)

実はこれについては日記の記録が無いのです。

昭和59年から60年にかけての日記を

多分3回通りくらいは読んだのですが

その中に出てこないのです。見落としてるだけでしょうか…

この石碑の存在を見つけたのは、一番上にあります俳句、

雑誌『習字』昭和61年12月号(P.19)でした。

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喜多浦八幡大神神社は、愛媛県今治市伯方島にある神社です。

この時は4月の終わりころだったのですが、

海が本当にめちゃくちゃきれいで感動しました。

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海の色がすごいですよね。

橋も含めて、瀬戸内海って美しいなと思いました。

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さて、神社です。

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神社の緑って他の緑より深いように感じるのですが気のせいでしょうか。

そして神社にはありがちの、階段です。

でも思ったよりは階段が多くなかったので大丈夫でした。

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奥に見えるのが本殿です。

この本殿に向かって右側に、石碑があります。

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これはもうどう見ても大暁の字ですね。

この石碑は、横に名前がありました。

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裏はこんな感じです。

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…ん?

今見ると、「竣工」が昭和六十年四月十四日と書いてありますね。

…と、いうことは、この除幕式はもっとずっと後ということですね…?

 

なんたること!!!

 

また調べ直して追記します。

よく見たら俳句も「秋」って書いているので

秋ごろを狙って探してみます。

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『森市太郎翁頌徳碑』(五柱神社)(1963(昭和38)年4月)

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神社というのはなんでこう

そこに在るだけで空気が違って感じるのでしょうね。

鬱蒼と繁った木々の隙間から見え隠れする社殿もまた

遠目からでも厳かな感じを受けます。

こちらは東温市(旧川内町)にあります五柱(いつはしら)神社です。

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この神社には長い歴史があり、

由緒をみると800年ほど前からこの場所には神様がまします。

この集落がそれほど昔からあるという証明でもありますね。

本殿の建物自体は明治頃かなという屋根の作りに見えました。

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その本殿から向かって右側に『森市太郎翁頌徳碑』があります。

この石碑は、1963(昭和38)年4月、

大暁の義弟で氏宮三嶋神社宮司の後藤伝次郎が

川内町役場の森さんに頼まれて碑文を書いたそうです。

五柱神社内にある氏子さんたちの名前を見ていると、

「森」姓の方はたくさんおられる様でしたのでそのうちのどなたかか、

元川内町長の森さんかは定かではありません。

そういうことも、分かれば良いのになー、と

ないものねだりをしたくなります。

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裏は石が割れてしまっていて読めませんでした。

また、碑に大暁の名前も書かれていませんでした。

記録がなければこの碑には気が付かなかったと思います。

こういうのもひとつのご縁かな、と思っています。

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『道後ゴルフ倶楽部』入り口の石碑(1978(昭和53)年10月)

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松山市下伊台に道後ゴルフ倶楽部があります。

(※クリックするとホームページに行きます)

こちらは、道後ゴルフ倶楽部10周年の際に大暁が書いたものです。

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こんな感じで、ゴルフクラブの入り口に鎮座しています。

緑色に映えて、重厚感もありとても良い雰囲気ですよね。

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裏はこんな感じです。

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こちらの石碑については、

1978(昭和53)年8月に、現在同クラブの取締役を務めておられる平松秀夫様が

大暁の持田の家に来られて依頼されたそうです。

この時の大暁の記録の口ぶりから、

おそらくは何か繋がりのある方かなと問い合わせてみましたら、

大暁が道後小学校で小学5,6年生を担任していた時の

生徒さんだったそうです。

(お忙しい中すぐにご返答いただき本当にありがとうございました。)

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現在も会議室に額装して飾ってくださっていると

写真を送っていただきました。

嬉しい驚きでした!

こうやって生き続けてくれていることがとても嬉しいし

ありがたいです。

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柴田薫先生頌徳碑(1978(昭和53)年1月)

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四国中央市川滝公民館分室に「柴田薫先生頌徳(しょうとく)碑」があります。

こちらも「澤田大暁作品集」(昭和60年)で見つけたので

今日、ようやく撮影しに行くことができました。

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↑こちらが作品集に掲載されていたページです。

事前に川滝公民館へ電話をして、

国道192号線沿いにある健康トレーニングセンターにあると聞きました。

が!

ナビに健康トレーニングセンターが出なくて、

お聞きした住所も出なくて、

「詰んだ…」ってなりました。

駐在所のお巡りさんに教えて頂いてなんとか到着することができました。

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碑の表面はこんな感じです。

優しい字ですよね。

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さて、この柴田薫先生について私は存じ上げなかったので

行く前に調べようと思ってネットで調べたのですが出てこず。

そうしたら、裏面にしっかり書かれてありました。

とても素晴らしい方でしたのでご紹介します。

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 柴田先生は昭和二十二年二月より昭和五十一年一月のご逝去まで実に二十九年間当地椿堂にて医療に専念従事されました又学校医として児童の健康管理に尽くされ川滝公民館運営審議委員会議長小中学校のPTA会長川之江市教育委員会等教育にもご貢献いただきました
 先生は性無欲恬淡誰彼の別なく患者に接せられ施療は親切丁寧昼夜を問わず風雨を厭わず単車で山野を走り往診をして下さいました晩年は病身を案ずる夫人に「医者としての責任」の話を残し仁術の道を実践されました
 ここに長年にわたる先生のご慈愛を感謝する遠近住民の協力によりこの日を建てご遺徳を永久に伝えようと思うものです
      昭和五十三年一月二十九日
          撰文   川滝公民館長 石村寛逸
          書    松山市持田町 澤田大暁
          世話人  川 滝 壮 年 会

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昭和52年12月20日、

公民館長の石村寛逸さんと、元愛媛大学教授の大喜多秀先生とがいらして

川之江市(当時)に顕彰碑を建立するので書いて欲しいという依頼があったそうです。

そしてその席で大暁はすぐに引き受けるとお返事をしたようです。

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『習字』誌70周年ということで調べ始めた大暁の足跡ですが、

それをきっかけにして今まで知らなかった素晴らしい方を新たに知ることができて、

そういう点でもとても意義のある調査だなと思っています。

そして急な電話や来訪であったにも関わらず快く対応してくださった

川滝公民館の方と駐在所のお巡りさんに心から感謝しております。

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松山大学『三恩人』の胸像(1963(昭和38)年8月)

松山大学には三恩人と呼ばれる、

大学(当時の松山高等商業学校)設立に尽力した三人の先駆者がいます。

三恩人についてはここから松山大学のホームページをご覧ください)

特に説明を受けるというわけでもないと思うので、

在校生でも知らない方は多いかもしれませんが、

キャンパス内には三人の胸像があります。

建立されている場所に赤い丸を付けてみました。

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正門から入ってすぐが新田温山の胸像です
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大学構内三号館前から正門を向くと
手前が加藤彰廉、奥が加藤拓川です。

ここで、毎日学生たちを見守っています。

この胸像の名前と、それぞれの胸像の碑文を沢田大暁が書いています。

ではまず、新田温山翁からです。

新田温山翁は実業家の方で、松山大学だけでなく味生小学校の設立にも

財政的に援助しています。

そして新田高校を創立した新田仲太郎の叔父でもあります。

(新田仲太郎の父の弟が新田温山です)

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この像は正門を入ってすぐにあるのですが、

周りの緑に映えてまさかここに60年も建っているとは思えない程きれいな像でした。

左の写真を撮った時に撰文も大暁だと思っていなくて碑文を撮り忘れたため

再度行くと左の写真では咲いていなかったツツジが咲いていました笑

撰文を撮り忘れてガックリきていましたが、

結果的に満開のツツジに会えたので良かったです。(ポジティブ)

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さて、次は加藤拓川翁です。

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この方は正岡子規の叔父にあたりますし

第五代松山市長も務められた方なのでご存知の方もおられるでしょう。

この方が、新田温山翁と加藤彰廉翁をつないだといわれています。

こちらの碑文は文字が薄く、もうはっきりとは読めませんでした。

彫ってある部分だけ色を塗ってくれないかな、

塗ってくれれば読めるのに…!と思いました。

(松山大学関係者の方もし見ていたら宜しくお願いします!)

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さて、最後に初代校長の加藤彰廉先生です。

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この像の前にはベンチがあるので、

知らず知らず見ている学生さんもたくさんおられるはずと思います。

衆議院議員、北予高校(現在の松山北高校)の校長を務めた後、

亡くなるまでずっと松山高等商業学校(現在の松山大学)校長を務めました。

現在の校訓「三実」を作った方と言われています。

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碑文の方は読みづらくて比較できませんが、

銘の方は比較することができました。

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こうやって並べてみると面白いですね。

「加藤」さんがお二人いますがそれぞれ書体を変えていることが分かります。

また、左のふたつは「翁」なのに、「加藤彰廉先生」になっています。

私見ですが、加藤彰廉先生は「教育者」という側面が強かったのかなと思っています。

それに、初代学長を務めておられたということもあると思います。

年齢的には新田温山翁より少し年下ですし

それ以外に思いつかないのですが、いかがでしょうか。

依頼は同時期だったのでこの三つは一緒に書いたと思います。

ということは、書体も、敬称もわざと変えて書いたはずです。

三つの胸像の真ん中だけ少し変えている、というのが

ちょっと面白いですよね。

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松山大学の正門(1965(昭和40)年6月)

松山大学御幸キャンパス(1985(昭和60)年)

愛光学園内『日野荘氏 顕彰碑』(昭和53年3月)

愛光学園内に『日野荘氏 顕彰碑』があります。

この『澤田大暁作品集』(昭和60年 正能商会)内では後ろ側がグラウンドですが、現在は

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上のような感じで新校舎の前に建っています。

裏はこんな感じです↓

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読んでいただくと分かるように、

愛光学園がここに移転してくる時に

それまでここ衣山の土地を所有し整備した日野荘氏の功績を讃え

碑を建立したようです。

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昭和50年代は大暁の石碑が多くあります。

昭和50年に高校の教員を退職したので、

時間的にも余裕ができたのかもしれません。

石碑はだいたい外に置いてありますし、

劣化しづらく長く残るので、

今調べるにはやりやすくて良いです。

字が薄くなっている場合もありますけれど、

あれは上から黒いペンキ?を塗れば大丈夫だったはず。

物があってすぐに見られるのはありがたいことです。

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愛光学園正門

愛光学園生誕地の石碑(1978(昭和53)年3月)

愛光学園二期生『にぎわい』リレーマラソン(1986(昭和61)年10月)、(『習字』1986(昭和61)年12月号)

「愛媛県女子師範学校・同付属小学校跡」碑(1977(昭和52)年)

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松山市須賀町に、愛媛県女子師範学校跡地の碑があります。

愛媛県女子師範学校が明治43年10月から昭和25年11月まで、

附属小学校が明治44年4月から昭和25年11月までこの地にあったことを示す石碑です。


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沢田大暁は、愛媛県師範学校には昭和18年から昭和25年まで助教授として勤めました。

ちょうど愛媛県師範学校が愛媛大学になるタイミングで大学を退職し高校教師になりました。

第二次世界大戦は大学に勤めていたんですね。

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愛媛大学、と名称が変わり新しくなるときに、

愛媛県師範学校と愛媛県女子師範学校がひとつになりました。

そこで、今の愛媛大学に移転したという事のようです。

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昭和25年時点で沢田家は北条にありました。

昭和28年の『習字』誌に、持田に引っ越す時の情報が掲載されていました。

でも、松山の大空襲の時は市内に家があったはずなんですよね。

元警官だった曽祖父が避難誘導をしていて

中の川で亡くなったと聞いたはずなので。

この辺りはどうなっているのか、まだ調べる必要がありそうです。

※2022/5/17

この碑に関する計画図面を自宅で発見しましたので

追記しておきます。

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こんな風に依頼されるんですね。

結構具体的で分かりやすいですが、

実際のサイズ感で太さやイメージを膨らませるのが

大変な作業だと改めて気づきました。

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道後公園句碑の裏書(昭和61年10月)

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道後公園北側出入り口(子規記念博物館の西側出入口)に

正岡子規・夏目漱石句碑があります。

ちょうど写真を撮った時がお花見シーズンだったので

背景に桜や提灯や出店が見えていますね。

この句碑の裏側の字を沢田大暁が書いています。

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今、この碑の裏側には立派なソテツが植わっているので

パッと見は分かりづらいかもしれないです。

でもよーく見るとちゃんと名前も書かれてありますよ!

ちなみにこの碑の日付は昭和61年11月2日ですが、

昭和61年10月20日に除幕式があり、

翌日10月21日の愛媛新聞にその記事がありましたので掲載しておきます。

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石碑は時間が経っても私が生きている間くらいはたいして摩耗もしないので、

見えるものを追いかけられることはありがたいことだと思います。

見えるものを探すこともまた、私の今の楽しみの一つです。

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俵原池 石碑 (1953(昭和28)年)

松山市北条にある俵原池(たわらばらいけ)には

石碑があります。

作品集で見つけたので撮影しに行ってきました。

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これが作品集内のページです↑

まず俵原池に初めて行ったので

行き着くまでにちょっと迷っちゃいました。

サンセットヒルズカントリークラブのすぐ近くなので、

そのつもりで看板を見ていくと良いと思います!

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作品集と同じアングルで写真を撮ってみました!

昭和28年ということは、沢田大暁はまだ30代です。

だからなのか、これには本名も書いてありますね。

最後に、その年の習字誌にもチラッと出ていましたのでご紹介します。

『習字』昭和28年7月号

後年の沢田大暁なら表紙に写真を使うくらいのことはしそうな気がしますけど、

まさかのたった4行!

逆にビックリしますよね。

立派な石碑でした。

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愛媛県護国神社「挺身」石碑(昭和52年)

愛媛県護国神社は、

松山市御幸にある神社です。

愛媛大学や松山大学が近くにあり、

お正月にはたくさんの方が初詣に来るそうです。

この神社の入り口から北西方向には、

第二次世界大戦の慰霊碑がたくさんあります。

その中のひとつ、

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「殉職女子挺身隊員慰霊之碑」を

沢田大暁が揮毫しています。

昭和60年発刊の『沢田大暁作品集』の中では

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↑こんな感じの写真が掲載されていました。

現在の様子を観に行くと、

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まったく変わらない姿でそこにありました。

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沢田大暁は大正4年生まれでしたので

終戦時にはすでに成人していました。

昭和10年から教師の道を歩んできていたということは、

きっと多くの教え子の死にも遭ってきたことと思います。

自分よりも若く未来のある教え子たちを見送る気持ちがいかなるものだったのか

私には想像もできません。

今日生きて元気に笑っていた子が

明日にはもうこの世にいないかもしれない生活は、

どこの誰にも起こってほしくないことです。

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碑の裏側には碑文が記されていたのですが、

こちらは文字が薄く読みづらくなっていました。

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そのため、碑文の内容を下に書いておきます。

碑文

殉職者
竹内和栄 武替悦子 渡部節子

太平洋戦争激化の昭和19年県立松山高等女学校卒業と同時に祖国の危急に応じて女子挺身隊員となり呉海軍工廠に赴き電気部三次電池工場に勤務中終戦を三ヶ月程に控えた昭和20年6月22日米機B29の爆撃を受け殉職された三柱の霊を慰め併せてこれら乙女達が身命をかけてかち得た国の平和が永遠に続く事を願ってこの碑を建てる

昭和52年12月
愛媛県立松山高等女学校
42期生

題字 澤田大暁

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