松山大学は、キャンパスの北側にグラウンドやテニスコート、体育館があります。
来年が100周年ということで、最近クラブハウスが移転してきて
とてもきれいに整備されています。
プールや体育館のある御幸キャンパスの入り口にある石碑を
大暁が書いています。
毎日松山大学の職員さんがこの芝生をお掃除してくださっているので
とてもきれいでした。
大暁の作品の中ではわりと最近のものです。
とはいえもう37年経ちます。(そう見えないくらい綺麗ですよね!)
松山大学の正門(1965(昭和40)年6月)のところでも書きましたが
大暁は『松山商科大学』という名称だった頃から
松山大学の正門の文字を書いてきました。
『松山商科大学』という名前がスタートしたのが1949(昭和24)年です。
この時、大暁はまだ愛媛大学で助教授をしていた時代ですので、
おそらくはそこで、同じく大学教授だった田中忠夫先生と
繋がったのではないかと私個人としては想像しています。
ただ実際どうだったのかについては調べる術がない状況です。
そもそも田中忠夫先生は1947(昭和22)年占領政策の教員適格条項に触れ
当時の松山経済専門学校(現:松山大学)校長を辞任しているので
正門の依頼をするような時期に松山大学と関わりあったのかどうか、
その辺も分かりません。
ただ、その後また松山商科大学教授として復活しているところを見ると、
やはり大暁が愛媛師範学校女子部(現:愛媛大学)の助教授をしていた頃に
どこかで知り合って、依頼したのではないかと思うのです。
.
それから、1950(昭和25)年に愛媛大学を退職した後も、
松山大学とも、田中忠夫先生とも長いお付き合いになったのですから、
人との出会いというのは不思議なものですよね。