【失われたシリーズ⑥】愛媛県民館内郷土記念館寄贈『歩』

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今回は郷土記念館に寄贈した『歩』という作品をご紹介します。

上の写真は沢田大暁作品集からのもので、この作品集の写真は元々がモノクロ写真だったので

スキャンしたところでモノクロです。

ただ、この色合いからみておそらくは白と黒ではなくカラフルな作品だったと思われます。

 1966(昭和41)年6月14日の日記にて

「県郷土記念館から作品寄贈をたのまれた。「歩」の作品をあげることにする。」

と書いてありました。ちょうどこの年の独立書展へ出した作品がこの「歩」の作品であったので、新作を寄贈することにしたのではないかと思っています。。

ところでこの郷土記念館は何かというと、昔、現在の美術館のあった場所に愛媛県民館という建築士の丹下健三氏が作った建物がありました。

当時は現在「南館」と呼んでいる方の美術館もまだなく、この県民館で展覧会なども行われていました。その県民館の中に『郷土記念館』と呼ばれるものがあり、そこに寄贈したのだということのようです。

昨年、愛媛県美術館へ郷土記念館に寄贈した大暁の作品について問い合わせを行なったところ、以下のような返答を頂きました。

「愛媛郷土記念館は財団法人により設立、昭和四一年落成・同四二年に開館し昭和五〇年に郷土記念館の所蔵品の一部が、旧愛媛県立美術館へ移管されていますが県が財団法人から管理の移管を受けたリストの中を確認したところ、お問合せの沢田大暁の作品は入っておりませんでした。県へ移管された以外の、郷土記念館旧蔵のそれぞれの作品の行く先については資料が残っておらず、残念ながら当方では確認ができません。」

一九六六年は六十年近く前の話であるため、当然ながら当時の職員は誰もおらず、現在のようなパソコンもないためすべては手書きでの管理であったろうから、そこで漏れがあった場合はもう追うことはできないのは当然です。

県の管轄ならほかの所にあるのでは??と思いましたが生涯学習センターにも大暁作品は一点も所持していないという話を頂いたのでもはや手詰まりとなってしまいました。(←いまここ)

どんなにカラフルな作品だったのか、美術館の開館時点でもまだこの世に誕生していなかった私は知る由もないですが、なんだかモダンな雰囲気のこの作品を観てみたかったと残念に思います。

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【失われたシリーズ⑥】中山高校へ寄贈「凌雲」(1977(昭和52)年)

ここに一枚の写真があります。

旧中山高校へ卒業生が寄贈した大暁の作品です。

これは、昭和52年の日記に挟んであった写真です。

おそらくカラー写真だと思うのですが、

色が褪せすぎていてカラーなのかどうか分かりませんね。

.

現在、旧中山高校は未来高等学校の中山キャンパスとして利用されています。

この作品がどうなったのかを問い合わせてみたところ、

現在も本館にかかっているというご返答を頂きましたので

ありがたく写真を撮影させて頂くことになりました。

こちらが現在の本館の入り口です。

うっすらと校章と学校名が見えますね。

こちらの詳細については

【失われたシリーズ①】愛媛県立中山高等学校題字(1976(昭和51)年1月)

↑こちらの記事をご参照ください。

この建物に入ってすぐ左手の壁に、作品はかかっていました。

外からはこんなにガラスがカラフルだなんて思っていませんでしたよね。

中から外を見てみるととても明るくきれいでした。

そこに、今もこの作品が飾ってありました。

近寄ると、しっかりプレートに名前もあり、落款も大暁のものです。

どこからどう見ても写真と一致していて、

それだけで嬉しかったです。

この作品はこの寄贈のための作品というわけではなくて

元々は東京での展覧会に出した作品だったそうです。

これからこの作品がどうなるのか分かりませんけれど、

四十年以上ここにずっと飾っていただけたことは

とてもありがたく、嬉しいことだと思います。

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【失われたシリーズ①】愛媛県立中山高等学校題字(1976(昭和51)年1月)

南海放送『サンデー9』(1973(昭和48)年2月25日)

大暁は愛媛県の地元テレビ局南海放送に出演したことがあります。

昭和48年にはまだ家庭用録画機が普及しておらず、
(調べたところベータの登場は1975年、VHSが1976年のようです)

南海放送に問い合わせをしても今はもう保存していないという返答で

諦めておりましたが、

ある方がなんとその時の放送を写真に撮って下さっており、

それを頂くことができました!!

本当にありがとうございました。

.

1月22日(月)
南海放送の土居放送部長が訪ずれて来る。
来る2月26日(※原文ママ)の碧梧桐生誕記念日に一時間テレビに出て欲しいとのことで打合せに来る。

実際の放送は25日でしたが、この時日記にはこんな感じで書かれてありました。

ちなみに生放送ではなくて録画放送だったようです。

2月13日(火)
土居南海放送事業部長が来る。
来るサンデーナインに小生が出る件につき打合せがあった。碧梧桐を中心にして其の間に生徒の習字を入れる。

この日記をただ読んでいると「どういう番組??」となりますが、

一時間の長丁場となると

途中で目線を変えるものが必要だったのかなと思います。

2月21日(水)
午前中は俳句の選出に努力した。明日放送する(※原文ママ)碧梧桐の俳句について十句選ぶ。
なかなかむつかしい。時代時代の特徴をつかまないといけないので…

2月22日(木)
南海放送にて録映。
10名の生徒の習字とか作品批評とかが主で碧梧桐は時間が少いので自分としては不満であるが…

時間の配分についてのようですね。

今であれば編集でいろいろ時間の配分は変わる気がします。

当時はどうだったんでしょうね。

2月25日(日)
南海放送サンデーナインに出る。
午前九時から一時間南海放送にてサンディーナインの番組があり、それに小生が碧梧桐(明日が生誕百年)のことと、県下から集めた十名(東中南)の小中学生の画仙紙への書写、県下から集めた習字作品の陳列、小生の批評などを放送する。
よく出来ていたようだ。

ブラウン管のテレビが懐かしいですね。

左から一枚目は、以前ご紹介した

松山東高校内『明教館』にある『六曲屏風』(1951(昭和26)年)

です。

真ん中と右側は大暁の写真です。

番組の様子が分かりますね。

クリックするとちょっとだけ大きくなります。

2023/04/12追記

1枚追加で頂いたのでこちらもご紹介しておきます。

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松山北高校に寄贈した『閑吟』の作品のようです。

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松山東高校内『明教館』にある『六曲屏風』(1951(昭和26)年)

松山北高校『閑吟』(1969(昭和44)年7月)

『別格本山西山興隆寺』看板(1971(昭和46)年8月17日)

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8/17(火)
(合宿も)終りに近い頃、別格本山西山興隆寺の看板を書いてあげる。最後大沢和尚への別れのあいさつや大沢和尚のあいさつがあり、その時看板は永久に記念にしたいと述べてくれたことは生徒への気持も出ていた

澤田大暁は高校教師だった頃から毎年夏に

西条市丹原町にある西山興隆寺で合宿をしていました。

西山興隆寺公式ホームページはこちら

看板を書いているとあったので今どうなっているかと思い

お寺へ電話をかけてみたところ、

今は和尚さんが変わったためどの看板のことか把握していないのですが

看板であれば外にあるでしょうから

よければ実際に観に来てくださいとのことでしたので行ってまいりました。

 

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駐車場に車を停めて、さっそく上り口から入ります。

最初に小さな橋があり、写真正面に見える石碑のところから

右手におれて登っていくようです。

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右に曲がってすぐ、りっぱな門が姿を現しました。

ここ西山興隆寺は紅葉がとっても美しいらしいのですが

このあたりはまだまだ緑でした。(※2022年11月上旬)

そしてよーーーく見ると、

門の向こう側に恐ろしいほどの階段が…この時は見えていませんでした。

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分け入っても分け入っても青い山、ならぬ

登っても登っても階段…

緑が多いので空気はとてもおいしく

ゼェゼェ言っていても体に入る空気は少し冷たくて

すがすがしい気持ちになります。

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階段を覆うように木が生えていて、

緑のトンネルのようです。

多分紅葉シーズンに来たらすごくきれいだと思います。

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登る間にたくさんの杉の巨木がありました。

そのうちの一本は昭和43年に枯れ木となったと書いてありました。

昭和43年ならば毎年合宿をしている頃なので、

この杉が枯れ木となる前後で

大暁は合宿をしていたのだなと感慨深く思いました。

そして、その枯れ木にこんなにもまた新しい命が芽吹き

土にかえっていっている時間が経ったのだとも思いました。

 

さて、ここからすこし上ったところ右手側に、

何かの入り口がありました。

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みつけました!

この向かって右側の看板は、大暁の筆跡でしょう。

まだ本堂まではたどり着いていませんが

お目当ての看板を見つけてしまいました。

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板の左側面にはちゃんと、「大暁書」の名が入っています。

風雨にさらされたせいで随分滲んでいますけれども

たしかにまだここに残っていました。

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さて…

まだ階段は続いています。

見えにくいですが大きく写っている階段の左奥にもまだ階段が続いています。

ここまでだけでもかなりの階段を上ってきているので

着て来たコートはもう脱いでいるくらい暑いです。

しかし、せっかくなので本堂までは上ることにしました。

えっちらおっちら・・・・

 

上の方は木々が色づいて、

すでに黄色や赤の葉がたくさんありました。

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そしてこの記事最初の画像、本堂に到着しました!

この本堂は階段上がって右手にあるのですが、

寝泊まりするってなるとここではなくて、

左手側にあるこの建物だったのかなと思います。

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建物自体は変わっているかもしれないのでなんとも言えないのですが

母曰く階段の左だったような気がすると言っていたので

この場所にあったのかなと想像しています。

ちなみにこの左奥には塔が建っています。

(太陽の位置の関係で写真が撮れませんでした)

街灯などもほぼなさそうなこんな山奥では

夏とはいえ怖くなかったのかなと思いましたが

仲間と一緒ならさほど怖くもなかったのかなとか

毎年行くほどなのだからむしろ楽しかったのかなとか

いろいろ想像できました。

看板を見つけることができて本当に行ってよかったです。

 

追伸

行きがあるということは帰りもあるということで。

帰りもヒィヒィ言いながら降りました。

運転手の弟氏は膝が笑っていると言っていました。

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愛媛県立東予高等学校(旧壬生川工業高校)体育館の額(1972(昭和47)年2月)

西条市周布に愛媛県立東予高等学校があります。

今年(2022年)発表された高等学校の再編によって

近いうちに小松高等学校丹原高等学校と合併し

西条産業科学高等学校(仮称)になるかもしれませんが

現在のところ東予高等学校としてあるこの学校は、

1962(昭和37)年に壬生川工業高等学校として誕生しました。

 

1972(昭和47)年2月、この壬生川工業高校の

講堂に掲げる作品を書いて欲しいという依頼があり、

澤田大暁が『勤勉』と『創意』という作品を

全紙に濃墨と淡墨で書きました。

後日、当時校長だった萩尾晴美先生が直接

持田町の大暁の自宅までお礼に来られたそうです。

.

壬生川工業高校はその後東予工業高校になり、今の東予高校になりましたので

さすがにもう残っていないだろうと思っていました。

それが、先日お邪魔した松山西中等教育学校(こちらの記事です)で担当頂いた先生が

たまたま少し前東予高校に務めてらしたということで

壬生川工業高校のも残っている可能性がありますよと教えて下さいました。

そこで、思い切って連絡してみますと

『現在も体育館に飾ってありますよ』とのご返答が!

喜んでさっそく撮影に行きました。

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こちらが体育館です。

中に入ると、

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ありました!

この正面にある舞台の左右に掲げてある作品がそれです。

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両方とも丁寧に表具されて掲げてありました。

とてもありがたいです。

そして気になる落款印はというと…

こちらはお馴染みの「大暁道人」
こちらは「澤田茂印」

どちらも馴染みのある伏見冲敬先生から頂いた印でした。

やはり学校に寄贈する作品にはこの落款印を使っているようです。

一対になっている作品だからこのような朱文と白文の使い方をしたのかなと

興味深く感じました。

.

ちなみにこの二つの言葉は、校訓の言葉なのだそうです。

校門入ってすぐのところで校訓を見つけました。

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こちらは初代の校長先生が書かれた作品だそうですが、

五つある校訓のうち最初の二つが、今回掲げられていた作品の文言です。

工業高校の校訓として、どれも必要な資質のように思いました。

そして、この最初の二つのうち

「創意」を淡墨、「勤勉」を濃墨にしている点についても

なんだか納得のチョイスだと思いませんか。

校訓というのは、児童・生徒として中にいる時はあまり意識していなかったですが

大人になってから見てみると

実に的を射た文言であるものだと感心します。

対応して下さった教頭先生をはじめ先生、事務の方、

ありがとうございました!

2022/11/12追記

東予高校ホームページにて紹介していただけました!

こちらからぜひご覧になって下さい★

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【ちょっと小咄】『大暁道人』の落款

【失われたシリーズ③】愛媛県立松山西高等学校門標(1975(昭和50)年)

【失われたシリーズ③】愛媛県立松山西高等学校門標(1975(昭和50)年)

こちらは現在の愛媛県立松山西中等教育学校です。

その名の通り、中高一貫の6年制の教育機関です。

.

中等教育学校の前身である愛媛県立松山西高等学校は、

1974(昭和49)年4月1日に誕生しました。

現在では愛媛県立松山西中等教育学校になったため、

高等学校ではなくなりましたが

創立当初の門標を澤田大暁が揮毫していました。

さすがにもう無いかな…と半ば諦めモードで問い合わせましたが、

なんと!資料室に現在も所蔵されているということで、

さっそく撮影しに行ってまいりました!!わーい!

 

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取り外す際に折れてしまった部分はあるものの、

当時そのままの門標が観られて本当に嬉しかったです。

自分が写り込まないように注意して撮影したので

なかなか良い感じに撮ることができました。

石に彫られた門標でしたので、綺麗なままの姿だったのが嬉しかったです。

こういった感じで統廃合された学校でも

もしかしたら現存する作品があるかもしれない、と

期待することができた有意義な取材でした。

西中等教育学校で対応して下さった皆さま、ありがとうございました!

 

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松山市立湯築小学校校歌の額

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松山市立湯築小学校は

昭和40年に校舎が出来上がり道後小学校と分離しました。

(湯築小学校10周年記念誌より)

この湯築小学校の体育館には、

現在でも澤田大暁が書いた校歌の額が飾られています。

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遠目では分かりにくいですよね。

ちなみに、舞台の反対側にある水墨画は

石井南放先生のものでした。

.

近づいてみると…

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私の母校の小学校では木彫りの校歌が掲げられていたので

紙に筆で書いてあるのが新鮮で驚きました。

下にちゃんと名前も書いて下さっていてありがたかったです。

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小学生にも読める字で書いてあり、

軽やかでリズミカルな作品でした。

.

そしてここにも

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「大暁道人」の印影が使われていました。

松山北高校の「閑吟」西条高校の「緑葵昌」と同じ

伏見冲敬先生から頂いた印です。

学校に寄贈する用なのでしょうか?

記録はいまのところ見つかっていませんが

もしかしたらそうなのかもしれません。

また謎が深まってきてしまいました。

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西条高校蔵『緑葵昌』扁額(1965(昭和40)年3月) 

松山北高校『閑吟』(1969(昭和44)年7月)

【ちょっと小咄】『大暁道人』の落款

松山北高校門標(1975(昭和50)年6月)

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愛媛県立松山北高校です。

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前にこちらに伺った時から、

この門標の文字には見覚えがある気がするぞ、と思っていました。

どう見てもこれは大暁の筆跡だと思うなと思っていたところ、

それらしい記述を発見しました。

1975(昭和50)年4月2日
学校の門標文字をたくさん書く。
二時半まで書く。たくさんの中から4、5点選出しておく。

いつもなら「○○学校」と学校名を書くのに学校名がないので

これでまさかのここじゃなかったらショックなのですが、

1975(昭和50)年6月12日
松山北高校第5教棟が完成したので今日は式典があった。小生が門標を書いておいたがそれが出来たので写真を撮りに行く。鋳造は立派に出来ていた。

この記述を読んで、これは北高校の門標のことだと確信しました。

あー、発見できて良かったです。

これで、松山北高校は中島分校と両方の正門の門標を揮毫していることがわかりました。

最近は門標もフォントが増えましたけど、

鋳造の昔ながらの門標って良いですよね。

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松山北高校文芸誌『たぎり』第24号(1966(昭和41)年) 

松山北高校70周年記念誌『回顧と展望』(1970(昭和45)年)

松山北高校剣道部「妙機」(1966(昭和41)年10月)

愛媛県立松山北高校中島分校正門(1973(昭和43)年3月)

松山北高校『閑吟』(1969(昭和44)年7月)

松山北高校生徒会誌『北斗』第15号(1969(昭和44)年)

松山北高校弓道場『正射必中』額(1974(昭和49)年2月)

松山北高校グループ旗(1967(昭和42)年~1990(平成2)年)

松山東高校、松山北高校寄贈『山部宿祢赤人至伊予温泉』歌

松山大学御幸キャンパス『彰廉館』門標(1997(平成9)年3月)

松山大学御幸キャンパスの門標については以前お話ししました。

↑こちらの門標です

そのキャンパスの一番奥に、武道場である『彰廉館』があります。

「あります」とか堂々と書いていますが実はキャンパス内のどこか分からなくて

御幸キャンパス内の守衛さんに聞きました…その節はありがとうございました。

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行った日にちょうど曇っていたので空が白いですが

晴れた日だとすごくきれいです。

この武道場の向かって左側にある文字を大暁が書いています。

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この頃のことは日記がないため詳細は分かりませんが、

両親によりますと自宅まで依頼があったという記憶があるそうです。

また、詳しい落成日について松山大学に問い合わせたところ、

1997(平成9)年3月12日の落成だと分かりました。

81歳の時の書ということになります。(誕生日が5月なので)

年齢を重ねると、人生が出るというか若い時とはまた違った魅力がありますよね。

味わいのある字だと思います。

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松山大学『三恩人』の胸像(1963(昭和38)年8月)

松山大学の正門(1965(昭和40)年6月)

松山大学御幸キャンパス(1985(昭和60)年)

西古市集会所へ贈った漢詩(1974(昭和49)年12月)

東温市にある西古市集会所です。

この集会所の中に、大暁の半切作品が現在も飾られているという話を伺いまして、

さっそく撮影するべく行ってまいりました!

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東温市の歴史民俗資料館の方、西古市集会所の方に大変お世話になりました。

ありがとうございました。

.

この作品は大暁が西古市の集会所を建て替える際に

東高時代の教え子であった元県議会議員の梅﨑雪男氏(現在は故人)から頼まれ、

西古市のために自作の漢詩を作って贈ったものです。

その後二度集会所は建て替えられたそうなのですが

現在の集会所にも変わらず掛けていただきありがたいです。

内容は、

「青山如旧友

 心髄野水清

 夕陽聞鳥語

 欣会西古市 大暁」

と書いてあります。

私の適当な漢文の翻訳では、

「青い山々は古くからの友人のようだ。
 野に湧く水の清いことが心の最も中心にある。
 夕暮れ時に鳥の語るのを聞く。
 西古市で会うことができて嬉しい。」

みたいな感じではないかと思うのですが間違っていたらすみません。

とにかく「自然が豊かで心も豊かになる西古市で会えて喜ばしい」

というような意味ではないかと思います。

.

伺った際に、梅﨑氏の奥様にもお会いすることができました。

玄関に大暁の作品を飾って下さっていてとても嬉しかったです。

ありがとうございました!

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『森市太郎翁頌徳碑』(五柱神社)(1963(昭和38)年4月)