松山北高校弓道場『正射必中』額(1974(昭和49)年2月)

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先日、松山北高校へ作品や寄稿文の写真撮影にお邪魔しました。

北高校の先生方には本当に丁寧にご対応頂きましたので

この場を借りてお礼申し上げます。本当にありがとうございました!

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その中の、昭和49年度(大暁が退職前最後の年)の卒業アルバムで

弓道部の部活動写真の上にかかっている額を見つけました。

個人情報的にダメかなと思って目のところを消したら

なんか若干ホラー感が出てしまいました。

すみません気にしないでください。

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写真上部に「正射必中」の扁額が見えます。

この字と記名の形は、大暁の作品だ!と思い、

対応して下さった図書館の先生と、書道の先生にお伝えすると、

この作品の写真を後日送ってくださいました!

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なんと!現在でも飾って下さっていました!

ありがたいです。

西条高校の『緑葵昌』の扁額の時もそうでしたが、

道場に掲げる扁額の時にはどうやら名前を大きく書いているようですね。

二つとも大きいところをみると、これはおそらくわざとだと思います。

そのお陰で私も小さい写真から大暁の作だと気が付いたので

結果オーライというか、願ったりかなったりというか、

道場には大き目で正解だったということでしょう。

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※2022/6/27追記

この額の作品を制作した年が分かったので追記しました。

やっと日記が読み進められて良かったです。

書き始めたのは1月だったのですが、あんまり気に入らなかったらしく、

結局2月までかかって何枚もかいていたようです。

2月19日の日記で

「学校であいている時間を利用して額を二つ作っておく。

 「正射必中」の作品を裏打ちしておく」

とあって、この日にようやうく裏打ちまでこぎつけたようです。

1か月くらいかけて書いてたんですね。

この額は遠くからでも読みやすいし弓道部っぽくて良いですよね。

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西条高校蔵『緑葵昌』扁額(1965(昭和40)年3月)

松山北高校70周年記念誌『回顧と展望』(1970(昭和45)年)

松山北高校文芸誌『たぎり』第24号(1966(昭和41)年)

松山北高校剣道部「妙機」(1966(昭和41)年10月)

松山北高校『閑吟』(1969(昭和44)年7月)

松山北高校生徒会誌『北斗』第15号(1969(昭和44)年)

松山北高校門標(1975(昭和50)年6月)

松山北高校グループ旗(1967(昭和42)年~1990(平成2)年)

松山東高校、松山北高校寄贈『山部宿祢赤人至伊予温泉』歌

 

『森市太郎翁頌徳碑』(五柱神社)(1963(昭和38)年4月)

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神社というのはなんでこう

そこに在るだけで空気が違って感じるのでしょうね。

鬱蒼と繁った木々の隙間から見え隠れする社殿もまた

遠目からでも厳かな感じを受けます。

こちらは東温市(旧川内町)にあります五柱(いつはしら)神社です。

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この神社には長い歴史があり、

由緒をみると800年ほど前からこの場所には神様がまします。

この集落がそれほど昔からあるという証明でもありますね。

本殿の建物自体は明治頃かなという屋根の作りに見えました。

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その本殿から向かって右側に『森市太郎翁頌徳碑』があります。

この石碑は、1963(昭和38)年4月、

大暁の義弟で氏宮三嶋神社宮司の後藤伝次郎が

川内町役場の森さんに頼まれて碑文を書いたそうです。

五柱神社内にある氏子さんたちの名前を見ていると、

「森」姓の方はたくさんおられる様でしたのでそのうちのどなたかか、

元川内町長の森さんかは定かではありません。

そういうことも、分かれば良いのになー、と

ないものねだりをしたくなります。

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裏は石が割れてしまっていて読めませんでした。

また、碑に大暁の名前も書かれていませんでした。

記録がなければこの碑には気が付かなかったと思います。

こういうのもひとつのご縁かな、と思っています。

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『新潮』(1972(昭和47)年新年特大号)

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『新潮』昭和47年新年特大号です。

この中に、瀧井孝作先生の「碧梧桐のことなど」という

文章が掲載されています。

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そうそうたる作家の方々が寄稿しておられますよね。

川端康成が「志賀直哉」という題で寄稿しています。

志賀さんは前年の10月にお亡くなりになっているため

今回このタイミングで文章を寄稿したのだと思います。

しかしまさかこの三か月後に川端康成がガス自殺するなんて

まさか想像していませんでしたよね。

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さて、瀧井先生の文章です。

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とても読みづらい部分があって申し訳ないのですが

ちょっと長いこともあってこのままいったん掲載します。

もしかしたらまたスキャンし直すかもしれません。

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登場シーンの一部だけご紹介しました。

松山での思い出とか、大暁が釣り好きだった話とか

たくさん紹介してくださっていて嬉しかったです。

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この記事が掲載されたのをたまたま見た

当時南海放送の制作部長だった土井氏から電話を受け、

『サンデーナイン』という南海放送のローカル番組に

出演することが決まったそうです。

私はその番組を観たことがないので

観られるものなら観てみたいものだと思っています。

『私の一代』とかいう10分ほどのコーナーだったらしいのですが、

どんな番組だったのでしょうね。

ご覧になった方がおられましたら、いつか教えて下さい。

※2022/5/31追記

大暁登場シーンのみに変更しました。

また、南海放送さまに問い合わせましたがこの放送分は南海放送にもないそうです。

とても残念です。

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河東碧梧桐特集の『墨美』164号(1966(昭和41)年12月)

『太陽』10月号-No.52(1967(昭和42)年9月)

『制作は発見也ー瀧井孝作先生と書ー』独立書人団(1973(昭和48)年9月)

瀧井孝作『俳人仲間』(1973(昭和48)年10月)

松山市立堀江小学校東門(1976(昭和51)年2月)

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松山市福角町に松山市立堀江小学校があります。

こちらの東門の文字を大暁が書いています。

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夕焼けがまぶしすぎて写真を撮る私が思い切り写りこんでいますが

それは見なかったことにしてください。

前にご紹介した道後小学校正門(1969(昭和44)年1月)と比べて、

スッキリした線でスラリと書いていますね。

松山市立桑原小学校(1970(昭和45)年7月)のはそもそも隷書風なので

雰囲気が全然違います。

参考までに二校の門標の画像を下に並べておきます↓

松山市立道後小学校正門
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松山市立桑原小学校正門
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このように、同じ門標でも「今回はこんな感じにしよう」

「今回はこういう風に書いてみよう」といろいろ試していることが分かります。

また、渡す際に一つではなく三つくらいの候補を渡して

その中から好きなものを選んでもらうというのも

わりとよくしていたようです。

記録にも「同じにならないように」と書いてありました。

でも自分が書いたいろいろな学校の門標の写真を撮って回って、

現像したのを見てみて「こう見るとどれも似ている」

とガックリしていることもありました。

ずっと自分に厳しい目を持つことはすごいことだと思いました。

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ところで写真と言えば、大暁は写真を撮ることがとても好きだったので

残っているものがたくさんたくさんたくさんあります。

(本当に多いので三回言いました)

いつか整理できればきっと意味があると思うので、

長い時間をかけてデータ化していけたらいいなと思います。

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(※2022/10/31追記)

この東門の依頼をしたのは玉井さんという方で、

日記によれば(教え子)と書いてありました。

いつの教え子の方なのかは不明です。

その玉井さんと、校長先生と、PTA会長さんと3人でいらして、

門を新しく作ったので書いて欲しい、という依頼だったということです。

これが、昭和51年2月5日(木)のことでした。

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道後小学校正門(1969(昭和44)年1月)

松山市立桑原小学校(1970(昭和45)年7月)

【ちょっと小咄】『大暁道人』の落款

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西条高校蔵『緑葵昌』扁額(1965(昭和40)年3月) でご紹介した

『緑葵昌』の作品と、

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松山北高校『閑吟』(1969(昭和44)年7月)でご紹介した

『閑吟』の作品には同じ落款が捺してあります。

『緑葵昌』の印影
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『閑吟』の印影
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白文の方が『澤田茂印』で、朱文が『大暁道人』ですね。

この落款については、沢田大暁作品集に掲載がありました。

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日頃から好きで篆刻をたくさんしていた大暁ですので

てっきり自分で刻した落款かと思っていましたら

違っていて逆にビックリしたので備忘録として掲載しました。

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西条高校蔵『緑葵昌』扁額(1965(昭和40)年3月) 

松山北高校『閑吟』(1969(昭和44)年7月)

松山市立湯築小学校校歌の額

愛媛県立東予高等学校(旧壬生川工業高校)体育館の額(1972(昭和47)年2月)

福良英雄著『続 論語抄詠詩』(1970(昭和45)年6月)

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福良英雄先生は、澤田大暁の高等小学校時代の恩師です。

福良先生からこの本を手紙と共に贈られた、と

記録に残しています。

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奥書を読むとこの本はなんと非売品のため、

愛媛県内の図書館の横断検索では県立図書館にしか蔵書がありませんでした。

読むことが出来て良かったです。

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…と思っていたら!

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家に帰ると本棚にひょっこりいるんですよね。

「えーさっきまでいなかったじゃん!」と

なんか脱力しました。(あるあるですよね)

でも中に福良先生からのお手紙が挟まっていたので

そんな脱力などさっとどこかへ消えていきました。やった!

この本の中に、大暁に宛てて作った福良先生の漢詩が掲載されています。

(下記ページ右側です。)

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左端の行五文字目は「壇」ではなく「専」だそうです

記録には、

「恐縮至極である。

 書聖とは恐れ入ったが、先生らしい迫力(剣道達人)が伺える。」

と書いてありました。

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元々大暁は二男で、長兄の忠雄は松山中学(現在の松山東高校)へ進学していたため、

本人は松山高等小学校を卒業したら丁稚奉公でもして就職するつもりだったそうです。

しかし、師範学校が全寮制でしかも生活費が支給されると知り、

二学期から猛勉強をして師範学校を受験することにしたと書いていました。

そしてその際、級友や先生にはたくさん質問をして本当にお世話になった、と

振り返って『習字』誌内の「おもかげ」の随筆に書いています。

(『習字』平成6年12月号「おもかげ 22」、平成7年1月号「おもかげ 23」より)

おそらく福良先生にもいろいろと質問をしたり、

勉強を教えてもらったりしていたのだと思います。

大暁の日記の中には、この本の時以外にも福良先生に関する話題が出てきますので

多分、かなりお世話になったか、励ましてもらったかしたのかなと

勝手な想像を働かせています。

逆に福良先生としても、まさかこんなに頑張って師範学校に受かり、

その後書道の道を志すとは、と

きっと嬉しかったのではないかなと思います。

頂いたお手紙は掲載しても良いものか分からなかったので概略だけお話すると、

知り合いとの雑談の中でたまたま書道の話になり、

その知り合いが「澤田大暁は素晴らしい!」と褒めたので嬉しくなって

今年もらった年賀状を出して自慢してやった、という話でした。

なんだかこちらまで嬉しくなりました。

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松山北高校文芸誌『たぎり』第24号(1966(昭和41)年)

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大暁が松山北高校に転任した1966(昭和41)年6月、

さっそく文芸部から原稿依頼を受けて寄稿しています。

「瀧井孝作先生を訪ねて」という題で原稿をまとめたものが

この文芸誌の巻頭に掲載されています。

(左から順番に読んでください。)

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この時、龍眠会特集の『墨美』159号(1966(昭和41)年6月)

ちょうど出たところだったので、

その時の大暁の頭の中は龍眠会や碧梧桐や瀧井先生でいっぱいだったのだなと

文章を読んでいるだけで感じます。

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今は中村不折の書道博物館があったり、

”不折流”のデビューと言われる「龍眠帖」など龍眠という名前にも覚えがあったり

龍眠会や中村不折、河東碧梧桐について研究する方も多くありますが

やはりこの1966(昭和41)年の時点では

あまり研究する人がなかったように書かれてあります。

それだけにやりがいを感じていたのかもしれませんし、

応援してくれる瀧井先生にはすごく力をもらっていたのだと

この文章を読んで改めて思いました。

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この時の自分のことを書き残してくれていて

とてもありがたいと思います。

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松山北高校70周年記念誌『回顧と展望』(1970(昭和45)年)

龍眠会特集の『墨美』159号(1966(昭和41)年6月)

河東碧梧桐特集の『墨美』164号(1966(昭和41)年12月)

松山北高校剣道部「妙機」(1966(昭和41)年10月)

松山北高校『閑吟』(1969(昭和44)年7月)

松山北高校生徒会誌『北斗』第15号(1969(昭和44)年)

松山北高校門標(1975(昭和50)年6月)

松山北高校グループ旗(1967(昭和42)年~1990(平成2)年)

松山東高校、松山北高校寄贈『山部宿祢赤人至伊予温泉』歌

秋田忠俊『伊予の文学地図』愛媛新聞(1974(昭和49)年2月~1975(昭和50)年3月)

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秋田忠俊先生とは、

『愛媛の文学散歩』『続 愛媛の文学散歩』に続き、

『伊予の文学地図』の題字も大暁が揮毫しています。

(画像一番下の段左端に名前があります)

『愛媛の文学散歩』は4巻までありますが、

この『伊予の文学地図』は書籍化されていないのか見つけられませんでした。

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この新聞がえらく黄色いのは、

大暁本人のスクラップブックにあったものをスキャンしたからです。

(これまでのは県立図書館のマイクロフィルムのコピーでした)

この記事はずっとスクラップブックに綴じていたので

この最終回以外にもいろいろあったのですが、

これには記事のタイトル一覧が載っていたので選びました。

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イラストは野村彰史先生が描かれています。

野村先生は私が高校の時に美術教諭としておられた先生です。

私は音楽選択だったこともあり

野村先生と接点はほとんどありませんでしたけど、

この名前は見覚えがあり、久しぶりに卒業アルバムを開きました。

後になって気づくご縁もあるものなのですね。

このところ、ご縁というものを実感することが多く、

『世間が狭い』のではなくて『ご縁がある』ということなのでは、

と思っています。

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秋田忠俊著『愛媛の文学散歩』(1967(昭和42)年4月)

『制作は発見也ー瀧井孝作先生と書ー』独立書人団(1973(昭和48)年9月)

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家にあったものなので、

澤田の蔵書印が捺してありますが気にしないでください。

実は中身も結構瀧井先生の言葉に赤えんぴつで線が引いてあります。

特に気に入ったところだったのかなと思います。

この対談は小池邦夫先生と小木太法先生とが企画してくださったものです。

この話が最初にあったのは、

1971(昭和46)年2月20日で、

小池先生が持田の家に来て大暁に企画を持ちかけて下さいました。

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そして実現したのがその年の7月8日。

赤坂の山の茶屋というところだったそうです。

大暁の記録によれば、

「家の周囲は樹木が生い茂り、山へ来た感じがする。」

と書いてありました。

瀧井孝作先生とは1965(昭和40)年森田子龍先生の御紹介にて

お会いして以来のお付き合いで、

上京するたびにご挨拶に伺ったり、

碧梧桐の話や作品の写真をみせたりして

滝井先生には「息子の様に思う」と仰って頂いていたということです。

(この件は龍眠会特集の『墨美』159号(1966(昭和41)年6月)にも載せています)

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この冊子は全部で10ページ程の薄いものですが

中身はとても濃く、そしてなにより参加している三人が皆楽しそうなのが印象的です。

話は漢時代の石碑のことから始まり、

碧梧桐について、また顔真卿についてや副島蒼海、志賀直哉など

皆の思いつくままに多岐にわたります。

こういう話ができる仲間と自分の考えを話して議論することは

それ自体楽しいことですよね。大暁も

「心の通った相手だけに、話は自然に進む…

 和やかな晩餐だった。瀧井先生と二時間程話し合った」

と書き残しており、楽しい会であったことが伺えます。

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龍眠会特集の『墨美』159号(1966(昭和41)年6月)

愛媛新聞『碧梧桐座談会』(1967(昭和42)年4月30日)

『新潮』(1972(昭和47)年新年特大号)

瀧井孝作『俳人仲間』(1973(昭和48)年10月)

県展座談会(愛媛新聞1967(昭和42)年5月4日)

県展の15周年を記念して行われた『県展座談会』の様子です。

参加したのは、

小泉政孝氏、古茂田次男氏、石井南放氏、富野慎一氏と、沢田大暁です。

ここでは誰がどの部分について話したのかが全く載っていないので

大暁の考えがどれなのかというのははっきりとは分かりません。

ただ、三段目の六行目からの部分

『が、芸術の世界には本来アマもプロもない。

 楽しんで描く姿勢こそ大事。賞を目的とせず、

 たくさんの作品の中で自分の作品がどういった位置にあるのか―――

 そうした意味で思い切り前衛的な作品を出品する作家が書道部門などには多い。』

というあたりの意見は、

なんとなく大暁っぽいような感じがします。(個人の意見です)

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あとこの時点で美術館が無いという事実に驚きました。

現在の美術館南館が出来る前は県民館で県展の展示をしていたんですね。

というか県民館を覚えている方がどれだけおられるか…

今の美術館新館があったあたりに昔建っていたなんか丸っこい建物です。

(すごくあいまいな記憶ですがなんか丸かった印象でした)

中には郷土美術館もありましたよね。

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愛媛県の県展は、愛媛新聞社主催の愛媛アンデパンダン展を

引き継いだのが始まり、とあります。

もともとアンデパンダン展(出品した人が全員無審査で展示される)

というものが先にあったのだと分かり、

芸術を自由に楽しんで欲しいという主催者の意図が伝わりますし、

そこから現在に至るまで脈々とアンデパンダン方式が引き継がれていることは

自由に自分の世界を表現するうえでとても大切なことだと思います。

「審査員の目を意識する」ということは

良い時もありますし、そちらにばかり気を取られて

自分の世界を蔑ろにしてしまう危険性も孕んでいる気がします。

単純に「観客の目を意識する」だけの自由な表現を楽しむ機会というものは、

芸術として内面を表現するうえで必要なことだと思いました。

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