河東碧梧桐『三千里』上下巻、『続三千里』上巻(1973(昭和48)年~)

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講談社から出版された『三千里』シリーズに

大暁が関わっているのですがこれはあまり知られていないかもしれません。

『三千里』の上・下巻、『続 三千里』の上巻で脚注とルビを担当しています。

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こちらは『三千里』上巻の目次です。

本名の「茂雄」で校訂として登場しております。

これは1972(昭和47)年の12月に三千里への解説を頼みたい、と

東京から電話があり二つ返事で引き受けた、と書いてありました。

解説(たぶん脚注)と難読漢字へのルビをつけることが

今回頼まれた主な仕事だったそうです。

年が明けてからはひと月ほどずっとこの仕事にかかりきりで、

ことあるごとに「碧梧桐の語彙はすごい」と書いていました。

自分で好きに読む分には良いが、

人に見せるものとなると正しくなければならないので

辞書が手離せなかったそうです。

また、自分自身の勉強にもなるので大変ありがたいことだ、とも書いていました。

毎年1月には独立祭のため上京しているので、

その時に講談社で直接打ち合わせもしていました。

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ところで我が家に保管されてある初版本の『三千里 上』には

第二刷用に、かと思うのですがあれこれとメモが書いてあります。

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見えますでしょうか?

鉛筆であれこれとメモをしています。

たくさんのページ(体感だと三分の一くらい)にこのようなメモがあるので、

本が出てからも勉強を続けていたのだなと思います。

『続 三千里』の方は上巻だけ名前が載っているのですが

なぜ上巻だけなのかについてはまた追って調査してみたいと思っております。

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龍眠会特集の『墨美』159号(1966(昭和41)年6月)

河東碧梧桐特集の『墨美』164号(1966(昭和41)年12月)

『新潮』(1972(昭和47)年新年特大号)

瀧井孝作『俳人仲間』(1973(昭和48)年10月)

『河東碧梧桐 ―俳句と書―』(1982(昭和57)年1月)

『愛媛 わが郷土』タイトル文字(1982(昭和57)年11月)

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この本は本当に大きくて立派です。

時代的なものかもしれませんが、

大型本でカバーもしっかりしているし

しかも中身はフルカラーで本当にすごい本です。

さすがバブル期、と思います。

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裏表紙もこんな感じでフルカラーです。

昔の愛媛県の地図が描かれてあります。

昭和57年なのでこの時はまだ四国中央市とかもなくて

宇摩郡とか川之江市とかですし、

東予市や周桑郡も現役ですから、

この古地図だけじゃなくて中身も今となっては懐かしいです。

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名前もしっかり書かれています。

内容はと言うと、愛媛県内の色々な場所の航空写真がずらっと並んでいます。

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1ページだけ、と思いひとまず持田が写ってそうなのにしました。

グラウンドは松山商と松山東と附属です。

あと八坂小学校も写ってますね。

東高校の南側の道の幅が今よりずっと狭いです。

この時はまだ柳もありましたね。

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以前ご紹介した道後ゴルフ倶楽部も写っていましたよ。

愛媛県内のゴルフ場だけをピックアップして載せているのも

なんだかバブルっぽいですよね。(偏見?)

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この時からいえばだいぶ未来に今ありますけど、

たしかに貴重な資料だなと思いますし

こんな贅沢な本は今出せないだろうなと思います。

なんか見れば見るほどすごい本でした。

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『道後ゴルフ倶楽部』入り口の石碑(1978(昭和53)年10月)

『新潮』(1972(昭和47)年新年特大号)

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『新潮』昭和47年新年特大号です。

この中に、瀧井孝作先生の「碧梧桐のことなど」という

文章が掲載されています。

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そうそうたる作家の方々が寄稿しておられますよね。

川端康成が「志賀直哉」という題で寄稿しています。

志賀さんは前年の10月にお亡くなりになっているため

今回このタイミングで文章を寄稿したのだと思います。

しかしまさかこの三か月後に川端康成がガス自殺するなんて

まさか想像していませんでしたよね。

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さて、瀧井先生の文章です。

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とても読みづらい部分があって申し訳ないのですが

ちょっと長いこともあってこのままいったん掲載します。

もしかしたらまたスキャンし直すかもしれません。

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登場シーンの一部だけご紹介しました。

松山での思い出とか、大暁が釣り好きだった話とか

たくさん紹介してくださっていて嬉しかったです。

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この記事が掲載されたのをたまたま見た

当時南海放送の制作部長だった土井氏から電話を受け、

『サンデーナイン』という南海放送のローカル番組に

出演することが決まったそうです。

私はその番組を観たことがないので

観られるものなら観てみたいものだと思っています。

『私の一代』とかいう10分ほどのコーナーだったらしいのですが、

どんな番組だったのでしょうね。

ご覧になった方がおられましたら、いつか教えて下さい。

※2022/5/31追記

大暁登場シーンのみに変更しました。

また、南海放送さまに問い合わせましたがこの放送分は南海放送にもないそうです。

とても残念です。

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河東碧梧桐特集の『墨美』164号(1966(昭和41)年12月)

『太陽』10月号-No.52(1967(昭和42)年9月)

『制作は発見也ー瀧井孝作先生と書ー』独立書人団(1973(昭和48)年9月)

瀧井孝作『俳人仲間』(1973(昭和48)年10月)

福良英雄著『続 論語抄詠詩』(1970(昭和45)年6月)

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福良英雄先生は、澤田大暁の高等小学校時代の恩師です。

福良先生からこの本を手紙と共に贈られた、と

記録に残しています。

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奥書を読むとこの本はなんと非売品のため、

愛媛県内の図書館の横断検索では県立図書館にしか蔵書がありませんでした。

読むことが出来て良かったです。

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…と思っていたら!

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家に帰ると本棚にひょっこりいるんですよね。

「えーさっきまでいなかったじゃん!」と

なんか脱力しました。(あるあるですよね)

でも中に福良先生からのお手紙が挟まっていたので

そんな脱力などさっとどこかへ消えていきました。やった!

この本の中に、大暁に宛てて作った福良先生の漢詩が掲載されています。

(下記ページ右側です。)

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左端の行五文字目は「壇」ではなく「専」だそうです

記録には、

「恐縮至極である。

 書聖とは恐れ入ったが、先生らしい迫力(剣道達人)が伺える。」

と書いてありました。

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元々大暁は二男で、長兄の忠雄は松山中学(現在の松山東高校)へ進学していたため、

本人は松山高等小学校を卒業したら丁稚奉公でもして就職するつもりだったそうです。

しかし、師範学校が全寮制でしかも生活費が支給されると知り、

二学期から猛勉強をして師範学校を受験することにしたと書いていました。

そしてその際、級友や先生にはたくさん質問をして本当にお世話になった、と

振り返って『習字』誌内の「おもかげ」の随筆に書いています。

(『習字』平成6年12月号「おもかげ 22」、平成7年1月号「おもかげ 23」より)

おそらく福良先生にもいろいろと質問をしたり、

勉強を教えてもらったりしていたのだと思います。

大暁の日記の中には、この本の時以外にも福良先生に関する話題が出てきますので

多分、かなりお世話になったか、励ましてもらったかしたのかなと

勝手な想像を働かせています。

逆に福良先生としても、まさかこんなに頑張って師範学校に受かり、

その後書道の道を志すとは、と

きっと嬉しかったのではないかなと思います。

頂いたお手紙は掲載しても良いものか分からなかったので概略だけお話すると、

知り合いとの雑談の中でたまたま書道の話になり、

その知り合いが「澤田大暁は素晴らしい!」と褒めたので嬉しくなって

今年もらった年賀状を出して自慢してやった、という話でした。

なんだかこちらまで嬉しくなりました。

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松山北高校文芸誌『たぎり』第24号(1966(昭和41)年)

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大暁が松山北高校に転任した1966(昭和41)年6月、

さっそく文芸部から原稿依頼を受けて寄稿しています。

「瀧井孝作先生を訪ねて」という題で原稿をまとめたものが

この文芸誌の巻頭に掲載されています。

(左から順番に読んでください。)

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この時、龍眠会特集の『墨美』159号(1966(昭和41)年6月)

ちょうど出たところだったので、

その時の大暁の頭の中は龍眠会や碧梧桐や瀧井先生でいっぱいだったのだなと

文章を読んでいるだけで感じます。

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今は中村不折の書道博物館があったり、

”不折流”のデビューと言われる「龍眠帖」など龍眠という名前にも覚えがあったり

龍眠会や中村不折、河東碧梧桐について研究する方も多くありますが

やはりこの1966(昭和41)年の時点では

あまり研究する人がなかったように書かれてあります。

それだけにやりがいを感じていたのかもしれませんし、

応援してくれる瀧井先生にはすごく力をもらっていたのだと

この文章を読んで改めて思いました。

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この時の自分のことを書き残してくれていて

とてもありがたいと思います。

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松山北高校70周年記念誌『回顧と展望』(1970(昭和45)年)

龍眠会特集の『墨美』159号(1966(昭和41)年6月)

河東碧梧桐特集の『墨美』164号(1966(昭和41)年12月)

松山北高校剣道部「妙機」(1966(昭和41)年10月)

松山北高校『閑吟』(1969(昭和44)年7月)

松山北高校生徒会誌『北斗』第15号(1969(昭和44)年)

松山北高校門標(1975(昭和50)年6月)

松山北高校グループ旗(1967(昭和42)年~1990(平成2)年)

松山東高校、松山北高校寄贈『山部宿祢赤人至伊予温泉』歌

秋田忠俊『伊予の文学地図』愛媛新聞(1974(昭和49)年2月~1975(昭和50)年3月)

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秋田忠俊先生とは、

『愛媛の文学散歩』『続 愛媛の文学散歩』に続き、

『伊予の文学地図』の題字も大暁が揮毫しています。

(画像一番下の段左端に名前があります)

『愛媛の文学散歩』は4巻までありますが、

この『伊予の文学地図』は書籍化されていないのか見つけられませんでした。

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この新聞がえらく黄色いのは、

大暁本人のスクラップブックにあったものをスキャンしたからです。

(これまでのは県立図書館のマイクロフィルムのコピーでした)

この記事はずっとスクラップブックに綴じていたので

この最終回以外にもいろいろあったのですが、

これには記事のタイトル一覧が載っていたので選びました。

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イラストは野村彰史先生が描かれています。

野村先生は私が高校の時に美術教諭としておられた先生です。

私は音楽選択だったこともあり

野村先生と接点はほとんどありませんでしたけど、

この名前は見覚えがあり、久しぶりに卒業アルバムを開きました。

後になって気づくご縁もあるものなのですね。

このところ、ご縁というものを実感することが多く、

『世間が狭い』のではなくて『ご縁がある』ということなのでは、

と思っています。

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秋田忠俊著『愛媛の文学散歩』(1967(昭和42)年4月)

『制作は発見也ー瀧井孝作先生と書ー』独立書人団(1973(昭和48)年9月)

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家にあったものなので、

澤田の蔵書印が捺してありますが気にしないでください。

実は中身も結構瀧井先生の言葉に赤えんぴつで線が引いてあります。

特に気に入ったところだったのかなと思います。

この対談は小池邦夫先生と小木太法先生とが企画してくださったものです。

この話が最初にあったのは、

1971(昭和46)年2月20日で、

小池先生が持田の家に来て大暁に企画を持ちかけて下さいました。

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そして実現したのがその年の7月8日。

赤坂の山の茶屋というところだったそうです。

大暁の記録によれば、

「家の周囲は樹木が生い茂り、山へ来た感じがする。」

と書いてありました。

瀧井孝作先生とは1965(昭和40)年森田子龍先生の御紹介にて

お会いして以来のお付き合いで、

上京するたびにご挨拶に伺ったり、

碧梧桐の話や作品の写真をみせたりして

滝井先生には「息子の様に思う」と仰って頂いていたということです。

(この件は龍眠会特集の『墨美』159号(1966(昭和41)年6月)にも載せています)

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この冊子は全部で10ページ程の薄いものですが

中身はとても濃く、そしてなにより参加している三人が皆楽しそうなのが印象的です。

話は漢時代の石碑のことから始まり、

碧梧桐について、また顔真卿についてや副島蒼海、志賀直哉など

皆の思いつくままに多岐にわたります。

こういう話ができる仲間と自分の考えを話して議論することは

それ自体楽しいことですよね。大暁も

「心の通った相手だけに、話は自然に進む…

 和やかな晩餐だった。瀧井先生と二時間程話し合った」

と書き残しており、楽しい会であったことが伺えます。

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龍眠会特集の『墨美』159号(1966(昭和41)年6月)

愛媛新聞『碧梧桐座談会』(1967(昭和42)年4月30日)

『新潮』(1972(昭和47)年新年特大号)

瀧井孝作『俳人仲間』(1973(昭和48)年10月)

県展座談会(愛媛新聞1967(昭和42)年5月4日)

県展の15周年を記念して行われた『県展座談会』の様子です。

参加したのは、

小泉政孝氏、古茂田次男氏、石井南放氏、富野慎一氏と、沢田大暁です。

ここでは誰がどの部分について話したのかが全く載っていないので

大暁の考えがどれなのかというのははっきりとは分かりません。

ただ、三段目の六行目からの部分

『が、芸術の世界には本来アマもプロもない。

 楽しんで描く姿勢こそ大事。賞を目的とせず、

 たくさんの作品の中で自分の作品がどういった位置にあるのか―――

 そうした意味で思い切り前衛的な作品を出品する作家が書道部門などには多い。』

というあたりの意見は、

なんとなく大暁っぽいような感じがします。(個人の意見です)

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あとこの時点で美術館が無いという事実に驚きました。

現在の美術館南館が出来る前は県民館で県展の展示をしていたんですね。

というか県民館を覚えている方がどれだけおられるか…

今の美術館新館があったあたりに昔建っていたなんか丸っこい建物です。

(すごくあいまいな記憶ですがなんか丸かった印象でした)

中には郷土美術館もありましたよね。

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愛媛県の県展は、愛媛新聞社主催の愛媛アンデパンダン展を

引き継いだのが始まり、とあります。

もともとアンデパンダン展(出品した人が全員無審査で展示される)

というものが先にあったのだと分かり、

芸術を自由に楽しんで欲しいという主催者の意図が伝わりますし、

そこから現在に至るまで脈々とアンデパンダン方式が引き継がれていることは

自由に自分の世界を表現するうえでとても大切なことだと思います。

「審査員の目を意識する」ということは

良い時もありますし、そちらにばかり気を取られて

自分の世界を蔑ろにしてしまう危険性も孕んでいる気がします。

単純に「観客の目を意識する」だけの自由な表現を楽しむ機会というものは、

芸術として内面を表現するうえで必要なことだと思いました。

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澤田大暁著 句集『汲淦』(1983(昭和58)年5月20日)

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競書雑誌『習字』を購読されている方にはお馴染みの

澤田大暁句集『汲淦』です。

私はながらく「きゅうきん」と呼んでいましたが

淦に「キン」という読みは無いみたいです。

(「コン」か「カン」ならあるようです)

この本のタイトルは『淦(あか)を汲(く)む』という訓読だったのでは、

と今は思っています。

(※2022/5/31追記

 読み方について筒井先生から教えて頂きました!

 「キュウカン」が正しいそうです!謎が解けて嬉しいです。)

わが身の勉強の足らなさぶりが恥ずかしいです。

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この写真もお馴染みですよね。

記録によれば、この写真は佐伯先生が撮影して下さったようです。

撮り直ししたり、白黒の写真を指定したり

けっこうこだわって撮ったようです。

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この本をお持ちの方はご存知でしょうが

本を開くと突然小池邦夫先生のお手紙が目に飛び込みます。

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表と裏とにまたがって書かれてあります。

これは、そもそもは瀧井孝作先生に序文をお願いしていて、

ご自宅まで伺って依頼をしていたのですが、

先生の体調がお悪くて実現できなかったという経緯があります。

(瀧井先生は翌年1984(昭和59)年にお亡くなりになっています。)

びっくりする表紙の裏ですが、

逆に「なんだなんだ??」って読みたくなりますよね。

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そして本文のすぐ前に、上の一文が書かれてあります。

私の祖母である輝子は

私が生まれるよりも前、というか

両親が結婚するよりも前に亡くなりました。

1978(昭和53)年のことです。

そのため私自身は会ったことがありません。

記録の中に出てくる祖母はとても働き者で、

家事だけでなく大暁の仕事も手伝ったり、

趣味のコーラスに勤しんだり、

友達と旅行に行ったり、

3人の子どもたちについて大暁と相談したり、心配したり、

大暁の視点から見た妻はいつも生き生きしています。

この句集にはそんな妻をはじめ、

家族のことも沢山書かれてあって、

なんだか日常を垣間見るような感じがします。

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どこを例として載せようかな、と思った挙句

せっかくなので私が載っているところにしてみました。

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最後に、小池先生が代筆して下さった瀧井先生の批評と、

大暁のあとがきが並んでいます。

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瀧井先生の言葉が優しくて暖かくてなんだか泣けます。

あとがきからも分かるように、大暁は1962(昭和37)年から日記を書いています。

そのお陰で今、私がその日記を追うことができます。

何の因果か、私も一昨年から日記を書いていて、

書くこと、残すことの大切さを実感しています。

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余談ですが、おまけとして奥付を。

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発行日が、5月20日です。

5月20日といえば、大暁の誕生日です。

思い入れのある本だったということが、

こんなところにも隠されていますね。

※2022/6/7追記

澤田大暁作品集ではこんなページになっています。

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新聞記事が一緒にあったためこちらも掲載しておきます。

これをみると…

「きゅう・・・・きん・・・???」

となりました。

前述の通り「淦」に「きん」という読み方は無く

「きゅうかん」が正解のようなので

何かの手違いだったのか、間違えて教えてしまったのか

いずれにしてもここに出てしまったので

みんな勘違いしちゃったのかもしれませんね。

私は…まだ幼児(むしろ乳児)なので文字は読めてないと思います。

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『河東碧梧桐 ―俳句と書―』(1982(昭和57)年1月) 

愛媛新聞『碧梧桐座談会』(1967(昭和42)年4月30日)

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瀧井孝作先生が愛媛にこられた時、

『太陽』10月号-No.52(1967(昭和42)年9月)

の随筆を書かれたことはすでにご紹介しました。

実はこの時途中で愛媛新聞社に寄り、

対談をしていました。

この年、河東碧梧桐の展覧会を開くということで、

碧梧桐の弟子だった瀧井孝作先生と、碧梧桐研究をしていた大暁と、

俳人の阿部里雪さん、愛媛新聞社の高橋士さんの4人で対談をしています。

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碧梧桐が欧州旅行でミケランジェロの未完成に影響を受けた話をしていますが、

大暁自身もこの数年後欧州旅行へ行って欧州の美術に影響を受け、

興味を持っていろいろ本を読んだり美術史を調べたりスライドにまとめたりしていました。

大暁の欧州旅行については実は別で日記を書いていたようなのですが

大変残念なことにその日記が現在行方不明です。

あるのは日程表や渡航メンバーの名簿と、渡航前後の日記のみです。

あ、あとパリで行った席書(いや、どちらかというとパフォーマンス?)の写真はありますので、

これらをまたご紹介したいと思っています。

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