ベルギー国主催・右卿とその一門展(1969(昭和44)年9月)

1952年に手島右卿先生によって発足した独立書人団という公益財団法人があります。

澤田大暁略歴にもある通り、大暁もその団体に所属して活動をしていました。

昭和44年、独立書人団は「外務省第1回訪欧使節団」として訪欧し、

「ベルギー国主催・右卿とその一門展」という展覧会を開いた事がありました。

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愛媛新聞(昭和44年9月7日)

この展覧会は、外務省主催展としてベルギーを皮切りに

欧州各国を2年かけて巡回するという展覧会でした。

この愛媛新聞によると、当時愛大におられた浅海先生は

9月10日から二か月間渡欧したようですよね。

めっちゃ良いですよねえぇぇ(完全に個人的な意見です)。

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そしてこの時、大暁は「焼」という字を発表したと

記録に残しています。

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「澤田大暁作品集」より

「習字」誌を購読の皆様には

大暁の一字書は表紙でおなじみですよね。

この「焼」は爆発や火柱が上がるような雰囲気で書いてあります。

墨色は濃い部分と薄い部分とが混在し、

また潤っている部分とかすれとも混在させています。

この技法によって爆発の激しさと熱い空気感を

観るものに想起させる作品になっていると思います。

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私の個人的な印象では大暁はアジアに行くことが多かったように思います。

昭和30年代にはすでに大阪や京都、東海地方、東京へ年に何度も足を運んでいますし、

瀬戸大橋すら無かった時代によくこんなにフットワークが軽いものだと

本当に感心します。

1970(昭和45)年には「書道代表フランス親善使節団」として自ら渡欧もしています。

これについてはまた機会があればご紹介しますね。

それ以外でも、中国やインド等アジアへはよく行っていた気がします。

それで今も我が家には曼荼羅とか、なんかのお面とかが鎮座しています。

旅が好きなのは、大暁も、大星も、私も同じなようです。

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※2022/5/1追記

大星・明佳先生に聞いたところ、

この作品は金粉を練りこんだ墨で書かれているのだそうです。

そのため、この作品が作られたばかりの頃は

作品の左上の濃い墨の飛び散っている部分などは金粉が散って、

あたかも火の粉のようだったということです。

それはすごい!

新たな発見です。

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厳島神社(怒和島)の幟(1984(昭和59)年)

松山市の沖合に「怒和島(ぬわじま)」という島があります。

この怒和島には神社が三社あります。

氏神神社 宮の浦 若宮八幡神社

崇敬神社 元怒和 厳島神社

     上怒和 天満神社

以上の三社です。(神社名をクリックすると愛媛県神社庁のページに飛びます)

厳島神社の例祭で出す幟の字を沢田大暁が書いています。

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厳島神社では10月の体育の日の前の日曜日に例祭が行われており、

その時にこの幟が立つそうです。

そのことはこちらの資料で知りました↓

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これは、現会長の澤田大星が怒和島に指導に行っていた時に

当時宮司の三好さんから頂いたものです。

手作りの冊子なのですが、

怒和島全般に関する歴史が細かく書かれていて、

今回この記事を書くにあたり本当に助かりました。

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↑こちらの右ページに書いてくださっています。

このほかにも、怒和島についてや島に伝わる昔話、

凱旋松の話、島の歴史など本当にいろいろなことについて

丁寧に調べて書いてあります。

この冊子はいずれすごく貴重な資料になるのではないかと思っていますし、

その一端に大暁の名前が出てくることが誇らしいです。

※2022/5/7追記

1984(昭和59)年の『習字』誌の表紙や、

この幟についての俳句を見つけたので掲載しておきます。

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『習字』1984(昭和59)年12月号
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『習字』1984(昭和59)年12月号

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松山大学『三恩人』の胸像(1963(昭和38)年8月)

松山大学には三恩人と呼ばれる、

大学(当時の松山高等商業学校)設立に尽力した三人の先駆者がいます。

三恩人についてはここから松山大学のホームページをご覧ください)

特に説明を受けるというわけでもないと思うので、

在校生でも知らない方は多いかもしれませんが、

キャンパス内には三人の胸像があります。

建立されている場所に赤い丸を付けてみました。

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正門から入ってすぐが新田温山の胸像です
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大学構内三号館前から正門を向くと
手前が加藤彰廉、奥が加藤拓川です。

ここで、毎日学生たちを見守っています。

この胸像の名前と、それぞれの胸像の碑文を沢田大暁が書いています。

ではまず、新田温山翁からです。

新田温山翁は実業家の方で、松山大学だけでなく味生小学校の設立にも

財政的に援助しています。

そして新田高校を創立した新田仲太郎の叔父でもあります。

(新田仲太郎の父の弟が新田温山です)

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この像は正門を入ってすぐにあるのですが、

周りの緑に映えてまさかここに60年も建っているとは思えない程きれいな像でした。

左の写真を撮った時に撰文も大暁だと思っていなくて碑文を撮り忘れたため

再度行くと左の写真では咲いていなかったツツジが咲いていました笑

撰文を撮り忘れてガックリきていましたが、

結果的に満開のツツジに会えたので良かったです。(ポジティブ)

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さて、次は加藤拓川翁です。

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この方は正岡子規の叔父にあたりますし

第五代松山市長も務められた方なのでご存知の方もおられるでしょう。

この方が、新田温山翁と加藤彰廉翁をつないだといわれています。

こちらの碑文は文字が薄く、もうはっきりとは読めませんでした。

彫ってある部分だけ色を塗ってくれないかな、

塗ってくれれば読めるのに…!と思いました。

(松山大学関係者の方もし見ていたら宜しくお願いします!)

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さて、最後に初代校長の加藤彰廉先生です。

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この像の前にはベンチがあるので、

知らず知らず見ている学生さんもたくさんおられるはずと思います。

衆議院議員、北予高校(現在の松山北高校)の校長を務めた後、

亡くなるまでずっと松山高等商業学校(現在の松山大学)校長を務めました。

現在の校訓「三実」を作った方と言われています。

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碑文の方は読みづらくて比較できませんが、

銘の方は比較することができました。

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こうやって並べてみると面白いですね。

「加藤」さんがお二人いますがそれぞれ書体を変えていることが分かります。

また、左のふたつは「翁」なのに、「加藤彰廉先生」になっています。

私見ですが、加藤彰廉先生は「教育者」という側面が強かったのかなと思っています。

それに、初代学長を務めておられたということもあると思います。

年齢的には新田温山翁より少し年下ですし

それ以外に思いつかないのですが、いかがでしょうか。

依頼は同時期だったのでこの三つは一緒に書いたと思います。

ということは、書体も、敬称もわざと変えて書いたはずです。

三つの胸像の真ん中だけ少し変えている、というのが

ちょっと面白いですよね。

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松山大学の正門(1965(昭和40)年6月)

松山大学御幸キャンパス(1985(昭和60)年)

松山大学御幸キャンパス『彰廉館』門標(1997(平成9)年3月)

『太陽』10月号-No.52(1967(昭和42)年9月)

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月刊『太陽』10月号です。

こちらは、先日小池邦夫先生からお電話を頂いた際に

おすすめしてくださった雑誌です。

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この左ページにある「松山の三つの寺」という瀧井孝作先生の記事です。

私もこの随筆に大暁が掲載されていることは知っていたのですが

家の中にこの号が見当たらず、ちょうど古本を注文したところでした。

小池先生はお電話口にて

「二人の関係性が良く出ていて僕は本当にこれは良い記事だと思う」

とおっしゃっていたので、届くのを心待ちにしていました。

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カラーが美しい誌面ですよね。

石手寺だと思いますが、今より両脇がすっきりしているような気がします。

※右から順に読んでください
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このほかにもお寺のカラー写真が豊富にあり充実した誌面でしたが

今回はそちらは割愛しておきます。

文章だけでも松山に行きたくなる盛りだくさんな記事ですね。

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この時のことは大暁も日記に書いていて、

照らし合わせてみても同じことが書いてありました。

瀧井先生は二人(大暁と妻)とのやりとりをそう長く書いているわけではないのに

二人のしぐさを具体的に書いておられるのでなんとなく空気感というか

距離感が伝わりますよね。

最初に「知己」と書いておられるところもなんだかほっこりします。

ちなみに大暁の日記の方は紙面の都合上行き先などメモしていた感じでしたが

「瀧井孝作先生来る!」と日記のタイトル文字をめっちゃ大きくしていたところに

期待感というか喜びを感じられる日記でした。

(多分、大暁本人をご存知の方なら「わかるー」ってなるやつです)

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碧梧桐という自分と相手の共通に好きなもの(人)について

心ゆくまで語り合うことができるのは、

年齢に関わらず近しい間柄になれるのだと思いました。

一種の友情かもしれません。同志だったのかもしれません。

師弟関係というわけでもないですし、

ともかく特別な関係だったのかなと想像します。

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ところで、この来松の際には愛媛新聞社において座談会が行われ

後日(昭和42年4月30日)の愛媛新聞に掲載されました。

そちらもまたご紹介しますね。

※2022/6/11追記

『習字』1967(昭和42)年6月号に来松の際の随筆がありました。

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(1)とか書いてますがこの1回きりで終わりでした…

こういうのわりとあるんですよね。

最後まで書いて欲しかったー!

新聞に載ってた松山城の写真がありましたが、

この中ではまだ松山城まで行きついてないんですよね。

桜満開の松山城を背景にした写真は

一体誰に撮ってもらったんでしょうか?

通りすがりの人だったのでしょうか?

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愛媛新聞『碧梧桐座談会』(1967(昭和42)年4月30日)

『新潮』(1972(昭和47)年新年特大号)

『続 愛媛の文学散歩』(愛媛新聞 1973(昭和48)年7月16日)

瀧井孝作『俳人仲間』(1973(昭和48)年10月)

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松山市立桑原小学校(1970(昭和45)年7月)

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松山市桑原にある松山市立桑原小学校です。

門がピンクでかわいらしいですね。

校訓がこんなに大きいのも、二宮金次郎像もなかなか珍しい気がします。

そして、この門の文字も沢田大暁が書いています。

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頑張ってきれいに撮ろうと思っていたのですが、

残念ながら反射してしまってこの程度しか写りませんでした。

見えづらくてすみません。

偏にカメラマンの腕の問題です。

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桑原地区は、

沢田の本籍が正円寺にあるというのも繋がりとしてあるかなと思っています。

ただ大暁の父は警察官であり、転勤も多かったと話していましたので

小さい頃に住んだとかそういうことではないと思います。

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そしてここまで見てきて皆様もお思いだと思います。

学校にまつわるものがとにかく多いです。

あとまだ写真を撮りに行けてない校旗とか、額とかもあります。

写真を撮るだけでも結構大変なので、

ぼちぼちご紹介していきたいと思っております。

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西条高校表大看板(1966(昭和41)年10月)

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愛媛県立西条高等学校といえば、

この一見お城かと見紛うほどの立派な正門ですよね。

そもそもお堀の中に学校があるというのが珍しいです。

ここと松山東雲女子中学・高等学校の正門は本当に良いと思います。

(↑個人の感想です)

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昭和41年10月21日(金)の記録に、

「西条高校の表大看板を書く。

 快心の作とはいかなくともかなりなものが仕上った。」

とありました。

どうやらお気に入りの作のようです。

おそらく

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↑この看板だと思います。

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もうすぐ60年経つのでだいぶ薄くなっていますが

これはこれで門の風合いと合っていて趣きがありますよね。

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実は私、たまたま数年前にこの門を観に行ったんですけど、

その時は大暁が書いたことを知らなかったのでスルーしちゃったんですよね。

知っていればもっとよく見ていたし周りにも宣伝しただろうに…と

今更思います。

後悔先に立たず。

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※2022/5/11追記

西条高校に収蔵してある大暁作品を観に行った時に

近くで写真を撮りました。

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近くって本当に接写です笑

「校」という文字のところです。

よく見ると、書いた文字の部分だけ少し盛り上がって見えますよね。

盛り上がるような物(墨に何か混ぜるとか?)とも想像しましたが、

大星先生や明佳先生にも見てもらって意見を聞きました結果、

これは板に直接墨で書いていて、

墨で書いた部分と書いていない部分とで木の瘦せ方が違ったのではないか

ということになりました。

だからこれは盛り上がっているのではなくて、

周りの木が痩せたのでそう見えるだけかもということでした。

なるほど。

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西条高校蔵『緑葵昌』扁額(1965(昭和40)年3月) 

龍眠会特集の「墨美」159号(昭和41年6月)

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森田子龍先生の墨美において龍眠会の特集が組まれた時

寄稿したのが沢田大暁でした。

そもそもこの表紙がオシャレですよね。

個人的に色も好きだし、デザインも気に入っている一冊です。

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森田先生は京都にお住まいでしたので、

日常的にお会いするわけではありませんでしたが

東京に行く折には新大阪で新幹線を降りて船に乗り継ぐ時によく訪ねているようでした。

森田先生からのご紹介で瀧井孝作先生にもお会いすることができたようです。

瀧井孝作先生「俳人仲間」についてはこちら

.

そもそも大暁が河東碧梧桐の書に感銘を受けたのは

現在松山市役所のすぐ近く、お堀のわきにある

碧梧桐の句碑を見て感動したところからだと

俳句と書の中で大暁自身が回想していました。

そこから、碧梧桐について調べ始め、

碧梧桐の親戚の方(姪御さん)にコンタクトを取って直接お話を聞きに行くなど

精力的に調査していたようです。

.

それがあったので、森田先生は碧梧桐の直弟子であった

瀧井孝作先生をご紹介くださったのだと思われます。

これは1965(昭和40)年のことです。

.

それから資料など見せてもらったり、

東京の碧梧桐のお墓(梅林寺)を見にいったり、

碧梧桐が看板を書いた平安堂へ出向いたり、

親戚の方やら知り合いの方のつてをたどって資料を集め、

時には息子(=現会長:澤田大星)を引き連れて大阪へ碧梧桐の作品の写真を撮りに行ったこともあったそうです。

(澤田大星の思い出話で聞きました)

この、初めて滝井先生にお会いした時のことは

習字誌昭和40年9月号に掲載していますので

これについてもまたご紹介します。

.

そういった資料をたくさん集めるうち、

それらをまとめて出さないかと森田先生からご提案があって、

瀧井先生からも資料をお借りするなどして

この特集に寄稿することができた、と記録に残しています。

大暁は生涯碧梧桐について研究しており、

「河東碧梧桐 俳句と書」という本を出版していますが

文章が長くなりすぎるのでその件はまた別の機会にお話ししたいと思います。

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『新潮』(1972(昭和47)年新年特大号)

瀧井孝作『俳人仲間』(1973(昭和48)年10月)

『河東碧梧桐 ―俳句と書―』(1982(昭和57)年1月)

道後公園句碑の裏書(昭和61年10月)

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道後公園北側出入り口(子規記念博物館の西側出入口)に

正岡子規・夏目漱石句碑があります。

ちょうど写真を撮った時がお花見シーズンだったので

背景に桜や提灯や出店が見えていますね。

この句碑の裏側の字を沢田大暁が書いています。

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今、この碑の裏側には立派なソテツが植わっているので

パッと見は分かりづらいかもしれないです。

でもよーく見るとちゃんと名前も書かれてありますよ!

ちなみにこの碑の日付は昭和61年11月2日ですが、

昭和61年10月20日に除幕式があり、

翌日10月21日の愛媛新聞にその記事がありましたので掲載しておきます。

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石碑は時間が経っても私が生きている間くらいはたいして摩耗もしないので、

見えるものを追いかけられることはありがたいことだと思います。

見えるものを探すこともまた、私の今の楽しみの一つです。

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筆耕サービスはじめました。

実は少し前からひっそりとスタートしていたのです。

気づいておられた方もおられるでしょうか?

コンテンツの欄に新しくできたこのアイコンです↓

※クリックするとリンク先に飛びます

昨年から筆耕の仕事をする機会があり、

筆耕をするのが楽しくて好きなので

受付をするページを作ることにしました。

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ただ、たいてい筆耕は未来の行事に対してすることが多く、

書いたとしてもなかなかご披露できないので

サンプル以外では実績としてお見せることが難しいんですよね。

これは本当に残念です。

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この前松山北高校の『妙機』の記事を書いていた時、

松山北高校のホームページ記事で私の筆耕した賞状がちらっと写っていました!

字は…見えないですが笑

こうやって手渡されて大切にしてくださる写真を見るだけでも

嬉しい気持ちになり、またがんばろうと思えますね。

.

最近は賞状も活字が多くなっていますけれど、

手書きで書かれているときっと嬉しいんじゃないかと

そう信じて気持ちを込めて書いています。

松山北高校剣道部「妙機」(1966(昭和41)年10月)

沢田大暁が松山北高校に赴任したのは

1966(昭和41)年4月でした。

それまで松山東高校で15年勤めましたが

これ以上は同一校に勤務ができない規定だったため

松山北高校へと転任することになりました。

.

この『妙機』という作品は

今も松山北高校剣道部において使ってくださっている

北高剣道部員にとってはおなじみのものです。(多分)

昨年(2021年)もこの文字を背中に染め上げたTシャツを着ている

北高生を見かけましたのでおそらく間違いないと思います。

.

この記事を書くにあたりネットで検索していると

昭和44年卒業の剣道部の方の集合写真に

この「妙機」の旗?が写っておりましたので、

おそらく赴任して間もない頃に書いたものだと思われます。

ということは、

もうかれこれ50年以上も使っていただいていることになり

これはとても嬉しいかぎりです!

剣道部の歴史の一部となって生き続けているのを見ると、

形に残るものがあるのは幸せなことだと感じます。

 

※2022/4/16、2022/8/29追記

記録を調べ、昭和41年10月3日に

240cm×160cmの大紙に書いたということが判明しました。

その前月の9月に、同じく北高校で剣道部の顧問をされていた佐伯先生から

県下女子剣道大会の優勝旗の揮毫を頼まれたことがご縁のようです。

佐伯先生とはその後もお付き合いがあり、

佐伯先生が中山高校の校長先生を務めておられた時には

大暁が中山高校の卒業証書を書いていました。

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松山東高校、松山北高校寄贈『山部宿祢赤人至伊予温泉』歌

松山北高校『閑吟』(1969(昭和44)年7月)

松山北高校生徒会誌『北斗』第15号(1969(昭和44)年)

松山北高校グループ旗(1967(昭和42)年~1990(平成2)年)

松山北高校70周年記念誌『回顧と展望』(1970(昭和45)年)

松山北高校弓道場『正射必中』額(1974(昭和49)年2月)

松山北高校門標(1975(昭和50)年6月)