秋田忠俊著『愛媛の文学散歩』(1967(昭和42)年4月)

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秋田忠俊著『愛媛の文学散歩』です。

この本はもともと愛媛新聞の中の記事で、

第1回の記事はこんな感じでした。

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昭和42年4月8日

見ての通り、フォントを使ったロゴを使用していました。

それが!

第3回からはこちらになりました!

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昭和42年4月22日

なぜか図書館のマイクロフィルムをコピーしたら反転してしまいましたが、

ロゴが筆文字に変わっているのがお分かりでしょうか。

この文字を大暁が書いています。

早速この日には富田道徳氏から題字が良かったと電話を頂いたようです。

たしかに、フォントが筆文字になっただけで

なんだか格調高くなったような感じがしますよね。

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また、その3年後の1970(昭和45)年の10月6日、

秋田氏からこの本を贈呈していただいたそうです。(このページ一番上の画像)

『すっぱりした装幀であるし、表紙の文字も引立って良い』

と書いてありました。

違う文字を新たに書いたようですよね。

シンプルで良いですね。

この続きの、背景が写真のものも良いと思います。

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秋田忠俊『伊予の文学地図』愛媛新聞(1974(昭和49)年2月~1975(昭和50)年3月)

愛光学園二期生『にぎわい』リレーマラソン(1986(昭和61)年10月)、(『習字』1986(昭和61)年12月号)

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こちらは愛光学園の校報誌『インテルノス』創刊号です。

愛光学園ができた当初は、当然ですが同窓会がなく、

有志が集まって飲み会をするというだけだったようです。

1984(昭和59)年8月、

京都府の天橋立で二期生の大規模な同窓会が開催され、

大暁も招待されて白石教頭先生(当時)と、松山に住む二期生数名と共に

松山観光港から船に乗って同窓会に出かけました。

.

観光港から大阪までの間も夜中まで大部屋でお酒を飲みながら尽きない話をして、

大阪からは同窓生の迎えの車に乗り込んでみんなで天橋立に向かい、

その日の夜、全国各地から到着した同窓生たちと一緒になって

楽しい夜を過ごしたそうです。

そこで、二期生たち、自称「にぎ(二期)わい会」メンバーで

松山から東京まで週末リレーでつなぎ、

各地にいる同窓生たちに声をかけてリレーの選手交代のポイントごとに

その近くにいる同窓生たちと集まって飲み会を開く、という

企画を立てたのだそうです。

(40歳越えてからこんなに走りまくる企画を立てるアイデアがすごいです)

で、そうやって同窓会名簿を作ったとかいう話だそうです。

.

この様子は愛媛新聞にもとりあげられていましたのでご紹介します。

まずは出発前から↓

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で、どうしてこの大暁の足跡コーナーにこの話題がでているのかと申しますと…

見えますでしょうか、新聞紙上のこの車の文字が。

そう、「にぎわい」の文字を大暁が書いているわけです。

伴走車にも、揃いのTシャツにも染め抜かれ、

たすき代わりの鉢巻きの文字は手書きで書かれていたそうです。

(はちまきと伴走車について愛光学園に問い合わせましたが

 今はもう無いということでした。残念です…)

.

出発式にも大暁は参加して、俳句を詠んでいます。

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こちらは『習字』誌昭和61年12月号(P.19)です。

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そして八か月後、約1000キロを走破して東京でゴールしました。

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愛媛新聞(1987(昭和62)年6月4日)

こちらの記事には『澤田大暁さん直筆の鉢巻き』と

書かれてありますね。

そしてこの後の1987(昭和62)年6月18日には愛媛新聞内で特集が組まれていました。

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ちなみに、写真中央上の田中先生の墓石銘も大暁が書いています。(写ってないですが)

すごい熱量が伝わってきますよね。

この記事の中にも大暁が『にぎわい』と揮毫した事が書かれてありますし、

Tシャツをみなさんが着てくださっているので

大暁の『にぎわい』の文字もたくさん写っています。

そしてこの写真の一番上の段の左端、よーく見て下さい。

※クリックしても元が小さいので大きくはなりません

こんなところにいます。

ちゃっかり写ってます。

めちゃくちゃ嬉しそうなのが良い写真ですよね。

この件については愛光学園40周年記念誌、50周年記念誌にも掲載されました。

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これだけのことをやってのけた人たちと一緒になって何かをするというのは

きっと楽しかったし誇らしかったと思います。

この記事を探す作業しかしていない私でさえ、とても楽しかったです。

ご協力いただいた愛光学園同窓会に感謝致します。

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愛光学園生誕地の石碑(1978(昭和53)年3月)

愛光学園内『日野荘氏 顕彰碑』(昭和53年3月)

愛光学園正門

松山東高校、松山北高校寄贈『山部宿祢赤人至伊予温泉』歌

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松山東高校蔵
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松山北高校蔵

沢田大暁は松山東高校に15年(昭和26-41年)、

松山北高校に10年(昭和41-50年)勤めました。

その両校に、同じ長歌が収蔵されております。

松山東高校では明教館横の資料室、松山北高校では80周年記念館階段にあります。

この歌について少しご紹介します。

※口語訳については松山市ホームページの物を使いました。

【原文】
皇神祖之 神乃御言<乃> 敷座 國之盡 湯者霜 左波尓雖在 嶋山之 宣國跡 極此<疑> 伊豫能高嶺乃 射狭庭乃 崗尓立而 歌思 辞思為師 三湯之上乃 樹村乎見者 臣木毛 生継尓家里 鳴鳥之 音毛不更 遐代尓 神左備将徃 行幸處

【訓読】
すめろきの 神の命(みこと)の 敷きませる 国のことごと 湯はしも さはにあれども 島山の 宣しき国と こごしかも 伊予の高嶺の 射狭庭の 岡に立たして 歌思ひ 辞(こと)思はしし み湯の上の 木群(こむら)を見れば 臣(おみ)の木も 生ひ継ぎにけり 鳴く鳥の 声も変らず 遠き代に 神さびゆかむ 幸(いでま)しところ

【口語訳】
歴代の天皇がお治めになってきた 日本の国のあちこちに温泉はたくさんあるけれども、その中でも伊予の温泉は、瀬戸内の島々のうるわしいところにあるというので、昔、聖徳太子が来られ、けわしい伊予の高嶺続きの伊佐庭の岡(現在の道後公園)にお立ちになって、歌をお作りになり、碑文の文章をお考えになったことがある。
その温泉付近の森や木立ちを見ると、かつて舒明天皇じょめいてんのうが行幸された時の話に伝えられるモミの木は、生い継いで今も茂っている。
また鵤いかるがや此米鳥しめが鳴いていて、昔に変わらない景色である。
このように、たびたび皇族が来られたこの温泉は、このまま遠い後の世までも神々しい土地がらとして栄えるであろう

.

「すめろき」で思い出しましたが

万葉集くらいの頃は、「天皇」と書いて

「おほきみ」とか「すめらみこと」と読みますよね。

大王(おほきみ)はどちらかというと政治的な印象で、

「すめらみこと」の方がちょっと神聖化している印象があります。

(↑個人の感想です)

「みこと」というのが宣言することを指すという説があり

世の中を統べて(すめる)物事を決定する(みこと)というのが

「すめらみこと」なのかなと私は考えています。(これは諸説あります)

同様に「のり」というのも「言う、宣言する」という意味なので、

「みことのり」とか「のりと」とかも

神道で出てくる宣言に関する言葉なのかなと思います。

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うっかり話が逸れました。

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そんなこんなで山部赤人の道後温泉について歌った長歌です。

「いさにわ(いざにわ)」の岡から温泉を見下ろして詠んだ歌です。

伊佐爾波神社の階段の上から下を見降ろすと、

確かにずーっと向こうの方まで見えますよね。

ちなみに、今の椿神社の「椿」の由来として

「津脇(つわき)」からきているという説があります。(伊豫豆比古命神社ホームページより)

津の脇、つまり、椿神社の辺りまで

昔は海だったかもしれないという説です。

そうしたら、高い建物の無いこの当時なら

伊佐爾波神社のところから海まで一望できていたんじゃないかな、と

なんだかすごくロマンを感じました。

.

永遠に栄えるであろうとここ伊予の地を称賛した長歌を

自分に縁のある、思い入れのある学校に寄贈することは

学校の繁栄を願ったステキな贈り物だなと思います。

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松山東高校内『明教館』にある『六曲屏風』(1952(昭和27)年)

松山北高校剣道部「妙機」(1966(昭和41)年10月)

松山北高校『閑吟』(1969(昭和44)年7月)

松山北高校生徒会誌『北斗』第15号(1969(昭和44)年)

松山北高校門標(1975(昭和50)年6月)

松山北高校グループ旗(1967(昭和42)年~1990(平成2)年)

松山北高校70周年記念誌『回顧と展望』(1970(昭和45)年)

【失われたシリーズ④】愛媛県立松山東高等学校門標

松山東高校生徒会誌『青柳』創刊号(1965(昭和40)年3月)

愛媛新聞『愛媛人新地図』(1970(昭和45)年1月7日)

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こちらは本人の実績、というわけではないかもしれませんが

大暁の人となりや『習字』誌の理念についてよく分かるため

ご紹介したいと思います。

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この記事は愛媛の書の世界を紹介する記事で、

愛媛県習字教育研究会主宰として出ています。

この中で、愛習研での書について大暁は以下のように言っています。


『書を書きたいという気持ちをつくることが大切。』


書は生活に根付いた文化です。

伝統文化として保護されているものではなく

ひとりひとりの生活と寄り添って息づいているものです。

書教育をする者たちにとって一番大切なことは、

学ぼうとしている人に対してその面白さ、楽しさを伝えることだと思います。

それは上手か下手かというだけの話ではなく

表現する手段としての書の面白さ、楽しさであると思います。

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『道後ゴルフ倶楽部』入り口の石碑(1978(昭和53)年10月)

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松山市下伊台に道後ゴルフ倶楽部があります。

(※クリックするとホームページに行きます)

こちらは、道後ゴルフ倶楽部10周年の際に大暁が書いたものです。

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こんな感じで、ゴルフクラブの入り口に鎮座しています。

緑色に映えて、重厚感もありとても良い雰囲気ですよね。

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裏はこんな感じです。

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こちらの石碑については、

1978(昭和53)年8月に、現在同クラブの取締役を務めておられる平松秀夫様が

大暁の持田の家に来られて依頼されたそうです。

この時の大暁の記録の口ぶりから、

おそらくは何か繋がりのある方かなと問い合わせてみましたら、

大暁が道後小学校で小学5,6年生を担任していた時の

生徒さんだったそうです。

(お忙しい中すぐにご返答いただき本当にありがとうございました。)

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現在も会議室に額装して飾ってくださっていると

写真を送っていただきました。

嬉しい驚きでした!

こうやって生き続けてくれていることがとても嬉しいし

ありがたいです。

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『河東碧梧桐 ―俳句と書―』(1982(昭和57)年1月)

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ついにこの著書を出す時が来ました。

東京堂出版から刊行された『河東碧梧桐―俳句と書―』です。

この本は沢田大暁の代表作ですよね。

この中には、長年大暁が集めた碧梧桐の作品の写真が

二百点以上、本当にたくさん収められています。

私が県外出身の初めてお会いした方から

「僕の卒論は碧梧桐だったので、この本には本当にお世話になりました」と

声をかけられたのも『河東碧梧桐―俳句と書―』でした。

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『澤田大暁作品集』より

出版しないかという話を最初に頂いたのは、

1978(昭和53)年8月のことでした。

筒井茂徳先生からお電話にて話を受けたと書いてありました。

そこから四年の月日を経て、出版に至ることになったようです。

(話を受けてから出版するまでの間のことについてはまだ調査が半ばなので、

 分かり次第追記いたします。)

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この中に入っている写真を一つ一つ自ら撮影しに行ったというのが

なによりすごい点です。

碧梧桐は1906(明治39)年に全国俳句行脚をしているらしく

作品は愛媛県内だけでなく全国にあります。

それらを一つ一つ撮影しに行ってまとめたことは

現代の碧梧桐研究の財産であると思っています。

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そもそも碧梧桐は1937(昭和12)年までご存命でしたので、

亡くなった時大暁はすでに22歳でした。

つまり、現在の感覚では碧梧桐は当然研究対象となりますが、

その当時『研究対象』というほど過去の人物ではなかったかもしれないと思っています。

(姪御さんがご存命であったという点からも推察されます)

よくそこで残そうと思い立ってフットワーク軽く集めたものです。

自分が見たかったから、ということもあるかもしれませんけれど。

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そうして出来上がったこの『河東碧梧桐―俳句と書―』ですので

現代の、そして未来の碧梧桐研究においても

お役に立ってくれれば良いなと思っています。

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※2022/6/5追記

作品集に載っていた愛媛新聞(昭和57年1月21日)の記事を調べてきましたので

こちらでご紹介します。

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『沢田大暁の足跡』のページの写真とポーズは同じですが、

後ろにある碧梧桐のお軸の内容が違うようです。

なんかほぼ同じに見えるんですけどね笑

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澤田大暁著 句集『汲淦』(1983(昭和58)年5月20日)

『観魚』(1970(昭和45)年2月)

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よーく見るとエンボス加工になった「観魚」の文字が見えます

伊藤観魚という俳人がいました。

(※名前をクリックするとウィキペディアに飛びます)

中村不折・河東碧梧桐が設立した「龍眠会」の設立に参画していたことから

大暁の碧梧桐研究の中で手紙などを通した交流があったようです。

この本は、伊藤観魚翁が亡くなった遺作集として出版されました。

.

1969(昭和44)年9月16日に、

大暁宛で京都の立命館大学教授だった赤井達郎先生から原稿依頼が来た、

と記述があります。

その手紙の文章がとても親切で感激した様子が書かれてあります。

さっそく原稿として28日に送ったようです。

.

本の中では瀧井先生の次に掲載されていました↓

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この文章は、以前紹介しました

龍眠会特集の『墨美』159号(1966(昭和41)年6月)にあるものです。

手前味噌ではありますが、

この時の龍眠会についての文章はよく調べてここまで書いたものだと

感心する出来栄えです。

この墨美が出来た時、瀧井先生からお電話を頂き

大変褒めて頂いたと大暁の記録にも残っていましたが

設立に関わった一人一人についてちゃんと作風や履歴を調べ

自分なりの考察も交えたすごい文章だと思います。

その中の伊藤観魚翁の部分の抜粋です。

.

この遺作集は実は2冊あって、

どちらもハードカバーの立派な本です。

大暁の文章はこの観魚翁が逝去された翌年に出版された方に掲載されています。

この後、1981(昭和56)年にも、改めて遺作集が出版されています。

このことからも分かるように、観魚翁について残したいと思う

周りの方々の熱意を感じます。

あとがきからも伝わりましたので最後にご紹介します。

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こんな風に慕ってもらえる弟子たちがいるのってすごいですよね。

どんな方だったんでしょうね。

大暁の文章からはけっこう尖った人っぽい印象を受けたので興味があります。

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『愛媛』(1964(昭和39)年9月、11月)

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『愛媛』という冊子をご存知でしょうか。

私はこの調査を始めるまで全く知りませんでした。

愛媛県立図書館の詳細検索で調べても出てこないような

かなりレアな冊子のようです。

どちらかというと本というよりは新聞に近いような形状でした。

これはどうやって写真を撮ったのかというと、

愛媛県立図書館へ行ってカウンターで直接聞いてみたら、

ピンク色をした普通の紙のファイルに綴じられた

この『愛媛』を出してきてくださった、というわけです。

図書館の皆様、ありがとうございました。

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さて、この『愛媛』ですが、

最初に寄稿の依頼がありましたのは、

1963(昭和38)年2月、星加宗一先生からでした。

しかしこの時は「本を書いているのでことわった」とあります。

ここでいう『本』とは、『書道』(1963(昭和38)年5月)のことです。

そして翌年8月に、

「『愛媛』への原稿碧梧桐の書と書論について第一回を仕上げる」

とあり、9月に掲載されたようです。

まさか表紙になっているとは思っていなかったので

今回初めて見てみてびっくりしました。

そしてこの後、11月にも続きが掲載されています。

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この『愛媛』という冊子は、愛媛の文化について研究や調査をしたものを

色々な方が掲載しているようで、

どちらかというと論文に近いようなものが多いと思いました。

出典や注釈などがないのでちょっと違うかもしれませんが、

どちらかというと堅い内容のようです。

星加宗一先生とは、大学教授をした後愛媛に戻って

愛媛の高校の校長先生を歴任した方のようです。

元々が教授だったことから、こういった冊子を作成したのかもしれませんね。

愛媛の文化について調査・研究している人に

後世に愛媛の文化について書き残すものとして作っていたのかなと

そんな風に思いました。

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清水公民館第三区分館門札(1963(昭和38)年3月)

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松山市木屋町一丁目に今もある清水公民館第三区分館の

門札を沢田大暁が書いています。

この写真では見えにくいので少し近づいてみます。

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扉の左側にある二つの木の門札のうち、

左側のより読みにくい方がそれです。

さらに近づいてみます。

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この距離ですら微妙っていう感じですね。

来年で60年経つようなので、

それもそうかな、という気がします。

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ここまで近づいてやっとなんとか読めるかなというところですね。

よーく見ると、たしかに大暁の筆跡です。

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この清水公民館第三区分館は、

1963(昭和38)年3月26日に落成しているそうです。(※)

(※清水公民館へ問い合わせて教えて頂きました。ありがとうございました!)

大暁の記録によれば、

3月12日に豊田鉄工所の豊田さんという方が持田の家へ木の看板を持って来て、

この清水公民館第三区分館の文字を書いて欲しいと依頼したそうです。

そしてその翌日に看板を仕上げた、と書いてあります。

宝塔寺の扁額西条高校の門札もそうですが、

直接書いて雨ざらしになる木の看板や門札は

時間の経過とともに読みづらくなってしまうのが残念ですね。

ある意味『味が出る』のですけれど、

標識としての意味もある看板の場合には

その存在意義が薄れてしまうのが痛いです。

『読みやすくて』『センスが良くて』『美しくて』『オリジナリティがあって』

さらに『技術もあって』良い字なのに

読みづらいというただ一点だけで用をなさなくなってしまうのは

なんだかもったいないですよね。

今ならもうちょっと長持ちさせる技術はあると思うので、

現状のものをどうにかする方法もないものかなぁと思ってしまいます。

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伊予の書(1974(昭和49)年1月)

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実物を見てびっくりしたんですが、

この本、かなり大きくて、そして立派です。

まさに『豪華』という感じでした。

この表紙の文字は村上三島先生による揮毫です。

そういえば大三島にある村上三島記念館にも

大暁の作品がありますよね。(急に思い出した)

いつか機会があれば是非観に行ってください。

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さて、この本ができた経緯についてはあとがきにありましたので

あとがきを先にご紹介します↓

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つまり、昭和51年に愛媛新聞社が創刊100周年にあたることから

それを記念して『伊予の書』が作られ、

その編集委員として大暁も名を連ねている、ということのようです。

こちらの中に大暁の文字作品があるわけではありませんので

中身のご紹介ができないのが残念ですが

碧梧桐の書などがあるのでその辺りに関わったのかなという感じがします。

また別途調査が進みましたら追記としてご紹介します。

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『大暁の足跡』コーナーもどんどん充実してきました。

それに伴って追記も増えてきててんやわんやです。

ここらでちゃんと整理もしないとなと思っていますが

私自身の体力的にも『ぼちぼち』というスタンスで

息の長いものとして続けていきたいと思います。

お付き合いよろしくお願いいたします!

※2022/5/17追記

瀧井孝作先生の「伊予の書」に関する文章を見つけましたので

追記して掲載いたします。

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(瀧井孝作全集第11巻P.431-432)

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