柴田薫先生頌徳碑(1978(昭和53)年1月)

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四国中央市川滝公民館分室に「柴田薫先生頌徳(しょうとく)碑」があります。

こちらも「澤田大暁作品集」(昭和60年)で見つけたので

今日、ようやく撮影しに行くことができました。

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↑こちらが作品集に掲載されていたページです。

事前に川滝公民館へ電話をして、

国道192号線沿いにある健康トレーニングセンターにあると聞きました。

が!

ナビに健康トレーニングセンターが出なくて、

お聞きした住所も出なくて、

「詰んだ…」ってなりました。

駐在所のお巡りさんに教えて頂いてなんとか到着することができました。

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碑の表面はこんな感じです。

優しい字ですよね。

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さて、この柴田薫先生について私は存じ上げなかったので

行く前に調べようと思ってネットで調べたのですが出てこず。

そうしたら、裏面にしっかり書かれてありました。

とても素晴らしい方でしたのでご紹介します。

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 柴田先生は昭和二十二年二月より昭和五十一年一月のご逝去まで実に二十九年間当地椿堂にて医療に専念従事されました又学校医として児童の健康管理に尽くされ川滝公民館運営審議委員会議長小中学校のPTA会長川之江市教育委員会等教育にもご貢献いただきました
 先生は性無欲恬淡誰彼の別なく患者に接せられ施療は親切丁寧昼夜を問わず風雨を厭わず単車で山野を走り往診をして下さいました晩年は病身を案ずる夫人に「医者としての責任」の話を残し仁術の道を実践されました
 ここに長年にわたる先生のご慈愛を感謝する遠近住民の協力によりこの日を建てご遺徳を永久に伝えようと思うものです
      昭和五十三年一月二十九日
          撰文   川滝公民館長 石村寛逸
          書    松山市持田町 澤田大暁
          世話人  川 滝 壮 年 会

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昭和52年12月20日、

公民館長の石村寛逸さんと、元愛媛大学教授の大喜多秀先生とがいらして

川之江市(当時)に顕彰碑を建立するので書いて欲しいという依頼があったそうです。

そしてその席で大暁はすぐに引き受けるとお返事をしたようです。

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『習字』誌70周年ということで調べ始めた大暁の足跡ですが、

それをきっかけにして今まで知らなかった素晴らしい方を新たに知ることができて、

そういう点でもとても意義のある調査だなと思っています。

そして急な電話や来訪であったにも関わらず快く対応してくださった

川滝公民館の方と駐在所のお巡りさんに心から感謝しております。

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愛媛の書五十五人展(1977(昭和52)年9月)

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1977(昭和52)年9月20日から25日まで、

松山三越三階特設会場で愛媛の書五十五人展が開かれ、

その時に作られたのがこの冊子です。

こういう書道展の冊子を全部ご紹介するのはさすがに無理があるのですが

こちらの冊子にはコメントが掲載されていたので

ちょっと特別にご紹介することにしました。

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コメントを読むのって楽しくて好きなんですよね。

その時の気持ちとか、考えとかが垣間見える気がするんです。

あと、ちょっとした言い回しとかに性格が出ちゃうところも。

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さて、この「愛媛の書五十五人展」の開展の際の事を

大暁は細かく書き残しています。

この日は朝から天気がとてもよく、

持田の家から三越まで歩いて出かけたそうです。

開会のあいさつでは愛媛新聞社社長が東京出張だったため

中村専務取締役が行い、県知事の代読を乗松愛媛県美術館長が行い、

そしてその後、満を持して(?)

書家を代表して大暁が挨拶をしたのだそうです。

それからその三人で開展のテープカットを行ったとか。

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これだけ細かく書いているということは、

きっと忘れたくない嬉しい記憶だったのかなと思います。

書いてはいないけれどうっすら見える嬉しい気持ちが伝わります。

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さて、この冊子の大暁のコメントがこちらです↓

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—-コメントここから—-

 広い無限の空間の中に生きている証(あかし)として、また人生の表象として「心」の素材を選んだ。
 心には複雑な内容があり、働きがある。この心を素材としての表象はなかなかむつかしい。ただ私は、人生を深めようとする努力の道程標のつもりであった。
 日常生活の中に、また自然との対話の中に、感動の渦(うず)が拡がり、その執念の深まりを長く温存して来たものであった。もちろん素材は何であってもよかったが、「心」が最も良い素材となったに過ぎない。
 不器用な私の技術では、如何(いかん)ともしがたいものがあって、白と黒の親和や、力の調和がかもし出されているかどうかなどが疑問である。しかしそれは、時間解決してくれるだろう。

—-ここまで—-

確かに難しそうな素材を選んでますよね。

というか話がめちゃくちゃ壮大ですよね。

大げさで壮大なように思える

そういう作品作りができるって面白いだろうなと思いますし

きっとそういう気分で他の人の作品とも対峙していたんだろうなと思います。

素直に、そして純粋にその作品と対峙するって

実はかなり難しいことだと思うのですよ。

特に大人にはね。

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この「心」は濃すぎず、薄すぎない墨色で、

だんだんと右上がりになるように書いているように思えます。

そして薄いにじみが広くあって、ところどころに濃い色があります。

拡がりのある配置に濃淡で深みを出しているところに

波のうねりのような印象を受けました。

濃い部分が渦の底で、うねりの中にいくつもの渦があるところに

人間の複雑性を思わせるようなそんな感じがします。

これは私の勝手な解釈ですが、皆さんの解釈はどうですか?

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あ、最後に、

この展覧会は毎日千人以上の来場者があり、大成功に終わったそうです。

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道後小学校正門(1969(昭和44)年1月)

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道後小学校は松山市石手にあります。

石手寺のすぐ近くなのですがちょっと入り組んでいるので

多分地元の方以外は見かけることはないかもしれません。

こちらの文字も沢田大暁が書いています。

正門の文字は多いので皆さんもだいぶ筆跡に慣れてきましたか?

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大暁は昭和10年3月に愛媛県師範学校本科を卒業して、

半年の軍事教練の後最初に赴任したのが湯築高等小学校(現在の道後小学校)でした。

愛媛県師範学校の助教授となるまでの八年間ここに勤めました。

ここで新任早々習字の担当に指名されたことが

大暁の人生の転機となりました。

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昭和44年1月、当時道後小学校で校長先生をしていた吉金先生から

勤め先の松山北高校に電話があり、

「道後小学校の教師であった貴君のことだから

 是非校門の文字を書いて欲しい」

と言われたそうです。

その後の自分の人生を決めたといっても過言ではない

思い出の学校の校門の文字を書くのは

「心に残るものがある」と書いています。

優しくて温かみのある文字ですよね。

丸いのに芯がある、技術的にも高い揮毫だと思います。

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道後小学校跡の石碑(1976(昭和51)年2月)

松山北高校『閑吟』(1969(昭和44)年7月)

※2013年 松山北高校にて
澤田大星会長、明佳副会長

松山北高校の応接室には『閑吟』という作品が飾られています。

この作品は1969(昭和44)年7月、

大暁が当時勤めていた松山北高校に寄贈したものです。

この『閑吟』という作品は、寄贈の前年(昭和43年)の毎日書道展において

準大賞を受賞した作品です。

毎日書道展準大賞受賞(『習字』1968(昭和43)年9月号)

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昭和44年の3月2日、NHKの教育テレビ(今のEテレ)の

『書道講座』という午後2時から放映していた番組内で

この作品は紹介されたことがあります。

この時、伊東参州先生、鈴木天城先生、白井竹舟先生が

格別に褒めてくださったと書いてありました。

映像を見てみたかったのですが、

この当時は一般家庭において録画という概念がまだなく、

また放送局でも法律で録画を渡すということができないため

私がこの映像をみることはできませんでした。残念。

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その後、『閑吟』という作品は表具をし直して北高校へ寄贈されました。

7月の校長会の時に会場で披露されたのことで

大暁はこのことをとても誇らしく思っていたようです。

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勤めていた松山東高校、松山北高校、愛光学園には

大暁は複数の作品を残しています。

今もあるものも、劣化などの理由により残念ながらもうないものもありますが、

勤めていた記録として受け入れてくださった学校の方々に感謝したいと思います。

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松山東高校、松山北高校寄贈『山部宿祢赤人至伊予温泉』歌

松山北高校剣道部「妙機」(1966(昭和41)年10月)

松山北高校生徒会誌『北斗』第15号(1969(昭和44)年)

松山北高校グループ旗(1967(昭和42)年~1990(平成2)年)

松山北高校70周年記念誌『回顧と展望』(1970(昭和45)年)

松山北高校門標(1975(昭和50)年6月)

【ちょっと小咄】『大暁道人』の落款

ベルギー国主催・右卿とその一門展(1969(昭和44)年9月)

1952年に手島右卿先生によって発足した独立書人団という公益財団法人があります。

澤田大暁略歴にもある通り、大暁もその団体に所属して活動をしていました。

昭和44年、独立書人団は「外務省第1回訪欧使節団」として訪欧し、

「ベルギー国主催・右卿とその一門展」という展覧会を開いた事がありました。

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愛媛新聞(昭和44年9月7日)

この展覧会は、外務省主催展としてベルギーを皮切りに

欧州各国を2年かけて巡回するという展覧会でした。

この愛媛新聞によると、当時愛大におられた浅海先生は

9月10日から二か月間渡欧したようですよね。

めっちゃ良いですよねえぇぇ(完全に個人的な意見です)。

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そしてこの時、大暁は「焼」という字を発表したと

記録に残しています。

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「澤田大暁作品集」より

「習字」誌を購読の皆様には

大暁の一字書は表紙でおなじみですよね。

この「焼」は爆発や火柱が上がるような雰囲気で書いてあります。

墨色は濃い部分と薄い部分とが混在し、

また潤っている部分とかすれとも混在させています。

この技法によって爆発の激しさと熱い空気感を

観るものに想起させる作品になっていると思います。

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私の個人的な印象では大暁はアジアに行くことが多かったように思います。

昭和30年代にはすでに大阪や京都、東海地方、東京へ年に何度も足を運んでいますし、

瀬戸大橋すら無かった時代によくこんなにフットワークが軽いものだと

本当に感心します。

1970(昭和45)年には「書道代表フランス親善使節団」として自ら渡欧もしています。

これについてはまた機会があればご紹介しますね。

それ以外でも、中国やインド等アジアへはよく行っていた気がします。

それで今も我が家には曼荼羅とか、なんかのお面とかが鎮座しています。

旅が好きなのは、大暁も、大星も、私も同じなようです。

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※2022/5/1追記

大星・明佳先生に聞いたところ、

この作品は金粉を練りこんだ墨で書かれているのだそうです。

そのため、この作品が作られたばかりの頃は

作品の左上の濃い墨の飛び散っている部分などは金粉が散って、

あたかも火の粉のようだったということです。

それはすごい!

新たな発見です。

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厳島神社(怒和島)の幟(1984(昭和59)年)

松山市の沖合に「怒和島(ぬわじま)」という島があります。

この怒和島には神社が三社あります。

氏神神社 宮の浦 若宮八幡神社

崇敬神社 元怒和 厳島神社

     上怒和 天満神社

以上の三社です。(神社名をクリックすると愛媛県神社庁のページに飛びます)

厳島神社の例祭で出す幟の字を沢田大暁が書いています。

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厳島神社では10月の体育の日の前の日曜日に例祭が行われており、

その時にこの幟が立つそうです。

そのことはこちらの資料で知りました↓

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これは、現会長の澤田大星が怒和島に指導に行っていた時に

当時宮司の三好さんから頂いたものです。

手作りの冊子なのですが、

怒和島全般に関する歴史が細かく書かれていて、

今回この記事を書くにあたり本当に助かりました。

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↑こちらの右ページに書いてくださっています。

このほかにも、怒和島についてや島に伝わる昔話、

凱旋松の話、島の歴史など本当にいろいろなことについて

丁寧に調べて書いてあります。

この冊子はいずれすごく貴重な資料になるのではないかと思っていますし、

その一端に大暁の名前が出てくることが誇らしいです。

※2022/5/7追記

1984(昭和59)年の『習字』誌の表紙や、

この幟についての俳句を見つけたので掲載しておきます。

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『習字』1984(昭和59)年12月号
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『習字』1984(昭和59)年12月号

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愛媛県警表彰(1963(昭和38)年7月)

沢田大暁が長い間愛媛県警の筆跡鑑定をしていたことはご存知でしょうか。

1963(昭和38)年7月1日、13年間鑑識課の筆跡鑑定に協力した功労に対して、

愛媛県警察本部から感謝状が贈られました。

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愛媛新聞(1963(昭和38)年7月2日)

この時は警察本部長から表彰され、

テレビやラジオの地方ニュースでもとりあげられたそうです。

ところでこの新聞記事は図書館のマイクロフィルムから取ってきたものですが、

一行目一番左の段落から大暁のことが掲載されているのに

肝心の部分が白くなってしまってよく読めません。残念です。

.

ちなみにこれで鑑識課との仕事が終わったというわけではなく

その後も筆跡鑑定の仕事は続けていたようです。

ただ、極秘情報が多くあまりおおっぴらに人に言えないため

コツコツと鑑定をしていたようです。

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愛媛新聞に掲載されたさらにその翌日、

朝日新聞の地方版にて写真付きで大きく取り上げられています。

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朝日新聞(1963(昭和38)年7月3日)

こういう筆跡鑑定というのは今はそこまでないかもしれませんが

人の文字をじっくり見てその特徴を捉える、クセを見抜く、という点は

臨書に通じるところがあるなと思います。

こういうことがあるからか、持田の家には本物かどうか見て欲しい、という

骨董好きの方がときどき訪れていました。

そういう時、大暁は一つ一つについて

これは本人、これは偽物、と鑑定していたようです。

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また、この筆跡鑑定はなかなかにストレスも溜まるらしく、

何件かたまると落ち着かない、と書いています。

早くやらないと事件の解決が遠のくような感じがするようです。

そりゃそうだよね、と共感します。

責任が重い仕事ですし、

筆跡鑑定の根拠について裁判所で証人として話すこともあったようですから

被告人の人生を左右することになるかもしれないという

恐怖のような気持もあったのだと思います。

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松山大学『三恩人』の胸像(1963(昭和38)年8月)

松山大学には三恩人と呼ばれる、

大学(当時の松山高等商業学校)設立に尽力した三人の先駆者がいます。

三恩人についてはここから松山大学のホームページをご覧ください)

特に説明を受けるというわけでもないと思うので、

在校生でも知らない方は多いかもしれませんが、

キャンパス内には三人の胸像があります。

建立されている場所に赤い丸を付けてみました。

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正門から入ってすぐが新田温山の胸像です
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大学構内三号館前から正門を向くと
手前が加藤彰廉、奥が加藤拓川です。

ここで、毎日学生たちを見守っています。

この胸像の名前と、それぞれの胸像の碑文を沢田大暁が書いています。

ではまず、新田温山翁からです。

新田温山翁は実業家の方で、松山大学だけでなく味生小学校の設立にも

財政的に援助しています。

そして新田高校を創立した新田仲太郎の叔父でもあります。

(新田仲太郎の父の弟が新田温山です)

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この像は正門を入ってすぐにあるのですが、

周りの緑に映えてまさかここに60年も建っているとは思えない程きれいな像でした。

左の写真を撮った時に撰文も大暁だと思っていなくて碑文を撮り忘れたため

再度行くと左の写真では咲いていなかったツツジが咲いていました笑

撰文を撮り忘れてガックリきていましたが、

結果的に満開のツツジに会えたので良かったです。(ポジティブ)

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さて、次は加藤拓川翁です。

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この方は正岡子規の叔父にあたりますし

第五代松山市長も務められた方なのでご存知の方もおられるでしょう。

この方が、新田温山翁と加藤彰廉翁をつないだといわれています。

こちらの碑文は文字が薄く、もうはっきりとは読めませんでした。

彫ってある部分だけ色を塗ってくれないかな、

塗ってくれれば読めるのに…!と思いました。

(松山大学関係者の方もし見ていたら宜しくお願いします!)

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さて、最後に初代校長の加藤彰廉先生です。

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この像の前にはベンチがあるので、

知らず知らず見ている学生さんもたくさんおられるはずと思います。

衆議院議員、北予高校(現在の松山北高校)の校長を務めた後、

亡くなるまでずっと松山高等商業学校(現在の松山大学)校長を務めました。

現在の校訓「三実」を作った方と言われています。

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碑文の方は読みづらくて比較できませんが、

銘の方は比較することができました。

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こうやって並べてみると面白いですね。

「加藤」さんがお二人いますがそれぞれ書体を変えていることが分かります。

また、左のふたつは「翁」なのに、「加藤彰廉先生」になっています。

私見ですが、加藤彰廉先生は「教育者」という側面が強かったのかなと思っています。

それに、初代学長を務めておられたということもあると思います。

年齢的には新田温山翁より少し年下ですし

それ以外に思いつかないのですが、いかがでしょうか。

依頼は同時期だったのでこの三つは一緒に書いたと思います。

ということは、書体も、敬称もわざと変えて書いたはずです。

三つの胸像の真ん中だけ少し変えている、というのが

ちょっと面白いですよね。

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松山大学の正門(1965(昭和40)年6月)

松山大学御幸キャンパス(1985(昭和60)年)

松山大学御幸キャンパス『彰廉館』門標(1997(平成9)年3月)

『太陽』10月号-No.52(1967(昭和42)年9月)

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月刊『太陽』10月号です。

こちらは、先日小池邦夫先生からお電話を頂いた際に

おすすめしてくださった雑誌です。

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この左ページにある「松山の三つの寺」という瀧井孝作先生の記事です。

私もこの随筆に大暁が掲載されていることは知っていたのですが

家の中にこの号が見当たらず、ちょうど古本を注文したところでした。

小池先生はお電話口にて

「二人の関係性が良く出ていて僕は本当にこれは良い記事だと思う」

とおっしゃっていたので、届くのを心待ちにしていました。

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カラーが美しい誌面ですよね。

石手寺だと思いますが、今より両脇がすっきりしているような気がします。

※右から順に読んでください
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このほかにもお寺のカラー写真が豊富にあり充実した誌面でしたが

今回はそちらは割愛しておきます。

文章だけでも松山に行きたくなる盛りだくさんな記事ですね。

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この時のことは大暁も日記に書いていて、

照らし合わせてみても同じことが書いてありました。

瀧井先生は二人(大暁と妻)とのやりとりをそう長く書いているわけではないのに

二人のしぐさを具体的に書いておられるのでなんとなく空気感というか

距離感が伝わりますよね。

最初に「知己」と書いておられるところもなんだかほっこりします。

ちなみに大暁の日記の方は紙面の都合上行き先などメモしていた感じでしたが

「瀧井孝作先生来る!」と日記のタイトル文字をめっちゃ大きくしていたところに

期待感というか喜びを感じられる日記でした。

(多分、大暁本人をご存知の方なら「わかるー」ってなるやつです)

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碧梧桐という自分と相手の共通に好きなもの(人)について

心ゆくまで語り合うことができるのは、

年齢に関わらず近しい間柄になれるのだと思いました。

一種の友情かもしれません。同志だったのかもしれません。

師弟関係というわけでもないですし、

ともかく特別な関係だったのかなと想像します。

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ところで、この来松の際には愛媛新聞社において座談会が行われ

後日(昭和42年4月30日)の愛媛新聞に掲載されました。

そちらもまたご紹介しますね。

※2022/6/11追記

『習字』1967(昭和42)年6月号に来松の際の随筆がありました。

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(1)とか書いてますがこの1回きりで終わりでした…

こういうのわりとあるんですよね。

最後まで書いて欲しかったー!

新聞に載ってた松山城の写真がありましたが、

この中ではまだ松山城まで行きついてないんですよね。

桜満開の松山城を背景にした写真は

一体誰に撮ってもらったんでしょうか?

通りすがりの人だったのでしょうか?

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愛媛新聞『碧梧桐座談会』(1967(昭和42)年4月30日)

『新潮』(1972(昭和47)年新年特大号)

『続 愛媛の文学散歩』(愛媛新聞 1973(昭和48)年7月16日)

瀧井孝作『俳人仲間』(1973(昭和48)年10月)

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愛光学園内『日野荘氏 顕彰碑』(昭和53年3月)

愛光学園内に『日野荘氏 顕彰碑』があります。

この『澤田大暁作品集』(昭和60年 正能商会)内では後ろ側がグラウンドですが、現在は

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上のような感じで新校舎の前に建っています。

裏はこんな感じです↓

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読んでいただくと分かるように、

愛光学園がここに移転してくる時に

それまでここ衣山の土地を所有し整備した日野荘氏の功績を讃え

碑を建立したようです。

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昭和50年代は大暁の石碑が多くあります。

昭和50年に高校の教員を退職したので、

時間的にも余裕ができたのかもしれません。

石碑はだいたい外に置いてありますし、

劣化しづらく長く残るので、

今調べるにはやりやすくて良いです。

字が薄くなっている場合もありますけれど、

あれは上から黒いペンキ?を塗れば大丈夫だったはず。

物があってすぐに見られるのはありがたいことです。

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愛光学園正門

愛光学園生誕地の石碑(1978(昭和53)年3月)

愛光学園二期生『にぎわい』リレーマラソン(1986(昭和61)年10月)、(『習字』1986(昭和61)年12月号)