川之江高等学校正門

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こちらは愛媛県立川之江高校です。

商店街からわりと近いところに学校がありました。

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じわっと近寄ってみます。

うーん、まだよく分かりませんね。

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思いっきり近くによって撮影しました。

分かりますでしょうか、この文字が…!!

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石に浮き彫りで書かれてある正門でした。

よーく見ると、確かに大暁の文字です。

見えやすいとは言えませんが、

「愛」の右払いや「学」のはねの部分などは大暁の特徴が見えると思います。

.

ところで筆文字の場合は特に、横書きで書くのが難しいです。

それはそもそも漢字もひらがなも縦書きだったため

縦書きに適応した形をしていることが原因です。

普通に書くだけでも難しいのに、

「良い感じに味を出しつつ」

「上品で」

「教育現場にふさわしい」

「筆文字」

「横書きで書く」

という至難の業!!

いやこれほんと想像しているより数倍難しいと思いますよ。

やったことないけど笑

自分の好きに書けばいいってわけじゃないのは

キツい面があるんじゃないかと思います。

商業書家のみなさんは大変なご苦労があることだろう、と

なぜかそんなところにまで思いを馳せてしまいました。

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松山大学御幸キャンパス(1985(昭和60)年)

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松山大学は、キャンパスの北側にグラウンドやテニスコート、体育館があります。

来年が100周年ということで、最近クラブハウスが移転してきて

とてもきれいに整備されています。

プールや体育館のある御幸キャンパスの入り口にある石碑を

大暁が書いています。

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毎日松山大学の職員さんがこの芝生をお掃除してくださっているので

とてもきれいでした。

大暁の作品の中ではわりと最近のものです。

とはいえもう37年経ちます。(そう見えないくらい綺麗ですよね!)

松山大学の正門(1965(昭和40)年6月)のところでも書きましたが

大暁は『松山商科大学』という名称だった頃から

松山大学の正門の文字を書いてきました。

『松山商科大学』という名前がスタートしたのが1949(昭和24)年です。

この時、大暁はまだ愛媛大学で助教授をしていた時代ですので、

おそらくはそこで、同じく大学教授だった田中忠夫先生と

繋がったのではないかと私個人としては想像しています。

ただ実際どうだったのかについては調べる術がない状況です。

そもそも田中忠夫先生は1947(昭和22)年占領政策の教員適格条項に触れ

当時の松山経済専門学校(現:松山大学)校長を辞任しているので

正門の依頼をするような時期に松山大学と関わりあったのかどうか、

その辺も分かりません。

ただ、その後また松山商科大学教授として復活しているところを見ると、

やはり大暁が愛媛師範学校女子部(現:愛媛大学)の助教授をしていた頃に

どこかで知り合って、依頼したのではないかと思うのです。

.

それから、1950(昭和25)年に愛媛大学を退職した後も、

松山大学とも、田中忠夫先生とも長いお付き合いになったのですから、

人との出会いというのは不思議なものですよね。

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松山大学『三恩人』の胸像(1963(昭和38)年8月)

松山大学の正門(1965(昭和40)年6月)

松山大学御幸キャンパス『彰廉館』門標(1997(平成9)年3月)

澤田大暁著 句集『汲淦』(1983(昭和58)年5月20日)

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競書雑誌『習字』を購読されている方にはお馴染みの

澤田大暁句集『汲淦』です。

私はながらく「きゅうきん」と呼んでいましたが

淦に「キン」という読みは無いみたいです。

(「コン」か「カン」ならあるようです)

この本のタイトルは『淦(あか)を汲(く)む』という訓読だったのでは、

と今は思っています。

(※2022/5/31追記

 読み方について筒井先生から教えて頂きました!

 「キュウカン」が正しいそうです!謎が解けて嬉しいです。)

わが身の勉強の足らなさぶりが恥ずかしいです。

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この写真もお馴染みですよね。

記録によれば、この写真は佐伯先生が撮影して下さったようです。

撮り直ししたり、白黒の写真を指定したり

けっこうこだわって撮ったようです。

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この本をお持ちの方はご存知でしょうが

本を開くと突然小池邦夫先生のお手紙が目に飛び込みます。

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表と裏とにまたがって書かれてあります。

これは、そもそもは瀧井孝作先生に序文をお願いしていて、

ご自宅まで伺って依頼をしていたのですが、

先生の体調がお悪くて実現できなかったという経緯があります。

(瀧井先生は翌年1984(昭和59)年にお亡くなりになっています。)

びっくりする表紙の裏ですが、

逆に「なんだなんだ??」って読みたくなりますよね。

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そして本文のすぐ前に、上の一文が書かれてあります。

私の祖母である輝子は

私が生まれるよりも前、というか

両親が結婚するよりも前に亡くなりました。

1978(昭和53)年のことです。

そのため私自身は会ったことがありません。

記録の中に出てくる祖母はとても働き者で、

家事だけでなく大暁の仕事も手伝ったり、

趣味のコーラスに勤しんだり、

友達と旅行に行ったり、

3人の子どもたちについて大暁と相談したり、心配したり、

大暁の視点から見た妻はいつも生き生きしています。

この句集にはそんな妻をはじめ、

家族のことも沢山書かれてあって、

なんだか日常を垣間見るような感じがします。

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どこを例として載せようかな、と思った挙句

せっかくなので私が載っているところにしてみました。

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最後に、小池先生が代筆して下さった瀧井先生の批評と、

大暁のあとがきが並んでいます。

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瀧井先生の言葉が優しくて暖かくてなんだか泣けます。

あとがきからも分かるように、大暁は1962(昭和37)年から日記を書いています。

そのお陰で今、私がその日記を追うことができます。

何の因果か、私も一昨年から日記を書いていて、

書くこと、残すことの大切さを実感しています。

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余談ですが、おまけとして奥付を。

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発行日が、5月20日です。

5月20日といえば、大暁の誕生日です。

思い入れのある本だったということが、

こんなところにも隠されていますね。

※2022/6/7追記

澤田大暁作品集ではこんなページになっています。

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新聞記事が一緒にあったためこちらも掲載しておきます。

これをみると…

「きゅう・・・・きん・・・???」

となりました。

前述の通り「淦」に「きん」という読み方は無く

「きゅうかん」が正解のようなので

何かの手違いだったのか、間違えて教えてしまったのか

いずれにしてもここに出てしまったので

みんな勘違いしちゃったのかもしれませんね。

私は…まだ幼児(むしろ乳児)なので文字は読めてないと思います。

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『河東碧梧桐 ―俳句と書―』(1982(昭和57)年1月) 

西条高校蔵『緑葵昌』扁額(1965(昭和40)年3月)

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先日、西条高校に収蔵されている扁額をみせていただきました。

受付で検温して、リストに名前を書いて、

初めての高校にこんな感じで入ることができて、少し緊張しました。

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お目当てはこちらの扁額です。

額の色と作品とがよく似合っていますよね。

淡墨を使って明るさを出しながら

かといってところどころにある直線によって

作品が軽くなりすぎない印象になっています。

こちらの作品は、1965(昭和40)年に当時の西島校長先生に依頼されて

道場に飾るために、と贈った作品だそうですが

現在は道場ではなく学校内に保存してくださっているようです。

名前が大きいのは道場で遠くから観るためだったのかな、と

なんとなく想像しました。

この翌年西条高校表大看板(1966(昭和41)年10月)を依頼されているので

西島先生とはお付き合いがあったのかもしれません。

大暁自身愛媛師範学校を卒業していることから

学校の先生方は学生時代に繋がりのあった同級生や先輩、後輩が多かったようです。

昭和初期までの師範学校というのは、

学費がかからないだけでなく生活が保障された全寮制の学校だったので、

四六時中一緒にいた、いわば「同じ釜の飯を食った」仲間が

県内にたくさんいたのかなと想像しています。

しかし今となっては大暁と西島先生がどのような繋がりだったのか

調べる術もなく残念に思います。

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西条高校表大看板(1966(昭和41)年10月)

【ちょっと小咄】『大暁道人』の落款

愛媛新聞『碧梧桐座談会』(1967(昭和42)年4月30日)

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瀧井孝作先生が愛媛にこられた時、

『太陽』10月号-No.52(1967(昭和42)年9月)

の随筆を書かれたことはすでにご紹介しました。

実はこの時途中で愛媛新聞社に寄り、

対談をしていました。

この年、河東碧梧桐の展覧会を開くということで、

碧梧桐の弟子だった瀧井孝作先生と、碧梧桐研究をしていた大暁と、

俳人の阿部里雪さん、愛媛新聞社の高橋士さんの4人で対談をしています。

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碧梧桐が欧州旅行でミケランジェロの未完成に影響を受けた話をしていますが、

大暁自身もこの数年後欧州旅行へ行って欧州の美術に影響を受け、

興味を持っていろいろ本を読んだり美術史を調べたりスライドにまとめたりしていました。

大暁の欧州旅行については実は別で日記を書いていたようなのですが

大変残念なことにその日記が現在行方不明です。

あるのは日程表や渡航メンバーの名簿と、渡航前後の日記のみです。

あ、あとパリで行った席書(いや、どちらかというとパフォーマンス?)の写真はありますので、

これらをまたご紹介したいと思っています。

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秋田忠俊著『愛媛の文学散歩』(1967(昭和42)年4月)

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秋田忠俊著『愛媛の文学散歩』です。

この本はもともと愛媛新聞の中の記事で、

第1回の記事はこんな感じでした。

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昭和42年4月8日

見ての通り、フォントを使ったロゴを使用していました。

それが!

第3回からはこちらになりました!

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昭和42年4月22日

なぜか図書館のマイクロフィルムをコピーしたら反転してしまいましたが、

ロゴが筆文字に変わっているのがお分かりでしょうか。

この文字を大暁が書いています。

早速この日には富田道徳氏から題字が良かったと電話を頂いたようです。

たしかに、フォントが筆文字になっただけで

なんだか格調高くなったような感じがしますよね。

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また、その3年後の1970(昭和45)年の10月6日、

秋田氏からこの本を贈呈していただいたそうです。(このページ一番上の画像)

『すっぱりした装幀であるし、表紙の文字も引立って良い』

と書いてありました。

違う文字を新たに書いたようですよね。

シンプルで良いですね。

この続きの、背景が写真のものも良いと思います。

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秋田忠俊『伊予の文学地図』愛媛新聞(1974(昭和49)年2月~1975(昭和50)年3月)

愛光学園二期生『にぎわい』リレーマラソン(1986(昭和61)年10月)、(『習字』1986(昭和61)年12月号)

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こちらは愛光学園の校報誌『インテルノス』創刊号です。

愛光学園ができた当初は、当然ですが同窓会がなく、

有志が集まって飲み会をするというだけだったようです。

1984(昭和59)年8月、

京都府の天橋立で二期生の大規模な同窓会が開催され、

大暁も招待されて白石教頭先生(当時)と、松山に住む二期生数名と共に

松山観光港から船に乗って同窓会に出かけました。

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観光港から大阪までの間も夜中まで大部屋でお酒を飲みながら尽きない話をして、

大阪からは同窓生の迎えの車に乗り込んでみんなで天橋立に向かい、

その日の夜、全国各地から到着した同窓生たちと一緒になって

楽しい夜を過ごしたそうです。

そこで、二期生たち、自称「にぎ(二期)わい会」メンバーで

松山から東京まで週末リレーでつなぎ、

各地にいる同窓生たちに声をかけてリレーの選手交代のポイントごとに

その近くにいる同窓生たちと集まって飲み会を開く、という

企画を立てたのだそうです。

(40歳越えてからこんなに走りまくる企画を立てるアイデアがすごいです)

で、そうやって同窓会名簿を作ったとかいう話だそうです。

.

この様子は愛媛新聞にもとりあげられていましたのでご紹介します。

まずは出発前から↓

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で、どうしてこの大暁の足跡コーナーにこの話題がでているのかと申しますと…

見えますでしょうか、新聞紙上のこの車の文字が。

そう、「にぎわい」の文字を大暁が書いているわけです。

伴走車にも、揃いのTシャツにも染め抜かれ、

たすき代わりの鉢巻きの文字は手書きで書かれていたそうです。

(はちまきと伴走車について愛光学園に問い合わせましたが

 今はもう無いということでした。残念です…)

.

出発式にも大暁は参加して、俳句を詠んでいます。

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こちらは『習字』誌昭和61年12月号(P.19)です。

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そして八か月後、約1000キロを走破して東京でゴールしました。

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愛媛新聞(1987(昭和62)年6月4日)

こちらの記事には『澤田大暁さん直筆の鉢巻き』と

書かれてありますね。

そしてこの後の1987(昭和62)年6月18日には愛媛新聞内で特集が組まれていました。

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ちなみに、写真中央上の田中先生の墓石銘も大暁が書いています。(写ってないですが)

すごい熱量が伝わってきますよね。

この記事の中にも大暁が『にぎわい』と揮毫した事が書かれてありますし、

Tシャツをみなさんが着てくださっているので

大暁の『にぎわい』の文字もたくさん写っています。

そしてこの写真の一番上の段の左端、よーく見て下さい。

※クリックしても元が小さいので大きくはなりません

こんなところにいます。

ちゃっかり写ってます。

めちゃくちゃ嬉しそうなのが良い写真ですよね。

この件については愛光学園40周年記念誌、50周年記念誌にも掲載されました。

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これだけのことをやってのけた人たちと一緒になって何かをするというのは

きっと楽しかったし誇らしかったと思います。

この記事を探す作業しかしていない私でさえ、とても楽しかったです。

ご協力いただいた愛光学園同窓会に感謝致します。

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愛光学園生誕地の石碑(1978(昭和53)年3月)

愛光学園内『日野荘氏 顕彰碑』(昭和53年3月)

愛光学園正門

松山東高校、松山北高校寄贈『山部宿祢赤人至伊予温泉』歌

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松山東高校蔵
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松山北高校蔵

沢田大暁は松山東高校に15年(昭和26-41年)、

松山北高校に10年(昭和41-50年)勤めました。

その両校に、同じ長歌が収蔵されております。

松山東高校では明教館横の資料室、松山北高校では80周年記念館階段にあります。

この歌について少しご紹介します。

※口語訳については松山市ホームページの物を使いました。

【原文】
皇神祖之 神乃御言<乃> 敷座 國之盡 湯者霜 左波尓雖在 嶋山之 宣國跡 極此<疑> 伊豫能高嶺乃 射狭庭乃 崗尓立而 歌思 辞思為師 三湯之上乃 樹村乎見者 臣木毛 生継尓家里 鳴鳥之 音毛不更 遐代尓 神左備将徃 行幸處

【訓読】
すめろきの 神の命(みこと)の 敷きませる 国のことごと 湯はしも さはにあれども 島山の 宣しき国と こごしかも 伊予の高嶺の 射狭庭の 岡に立たして 歌思ひ 辞(こと)思はしし み湯の上の 木群(こむら)を見れば 臣(おみ)の木も 生ひ継ぎにけり 鳴く鳥の 声も変らず 遠き代に 神さびゆかむ 幸(いでま)しところ

【口語訳】
歴代の天皇がお治めになってきた 日本の国のあちこちに温泉はたくさんあるけれども、その中でも伊予の温泉は、瀬戸内の島々のうるわしいところにあるというので、昔、聖徳太子が来られ、けわしい伊予の高嶺続きの伊佐庭の岡(現在の道後公園)にお立ちになって、歌をお作りになり、碑文の文章をお考えになったことがある。
その温泉付近の森や木立ちを見ると、かつて舒明天皇じょめいてんのうが行幸された時の話に伝えられるモミの木は、生い継いで今も茂っている。
また鵤いかるがや此米鳥しめが鳴いていて、昔に変わらない景色である。
このように、たびたび皇族が来られたこの温泉は、このまま遠い後の世までも神々しい土地がらとして栄えるであろう

.

「すめろき」で思い出しましたが

万葉集くらいの頃は、「天皇」と書いて

「おほきみ」とか「すめらみこと」と読みますよね。

大王(おほきみ)はどちらかというと政治的な印象で、

「すめらみこと」の方がちょっと神聖化している印象があります。

(↑個人の感想です)

「みこと」というのが宣言することを指すという説があり

世の中を統べて(すめる)物事を決定する(みこと)というのが

「すめらみこと」なのかなと私は考えています。(これは諸説あります)

同様に「のり」というのも「言う、宣言する」という意味なので、

「みことのり」とか「のりと」とかも

神道で出てくる宣言に関する言葉なのかなと思います。

.

うっかり話が逸れました。

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そんなこんなで山部赤人の道後温泉について歌った長歌です。

「いさにわ(いざにわ)」の岡から温泉を見下ろして詠んだ歌です。

伊佐爾波神社の階段の上から下を見降ろすと、

確かにずーっと向こうの方まで見えますよね。

ちなみに、今の椿神社の「椿」の由来として

「津脇(つわき)」からきているという説があります。(伊豫豆比古命神社ホームページより)

津の脇、つまり、椿神社の辺りまで

昔は海だったかもしれないという説です。

そうしたら、高い建物の無いこの当時なら

伊佐爾波神社のところから海まで一望できていたんじゃないかな、と

なんだかすごくロマンを感じました。

.

永遠に栄えるであろうとここ伊予の地を称賛した長歌を

自分に縁のある、思い入れのある学校に寄贈することは

学校の繁栄を願ったステキな贈り物だなと思います。

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松山東高校内『明教館』にある『六曲屏風』(1952(昭和27)年)

松山北高校剣道部「妙機」(1966(昭和41)年10月)

松山北高校『閑吟』(1969(昭和44)年7月)

松山北高校生徒会誌『北斗』第15号(1969(昭和44)年)

松山北高校門標(1975(昭和50)年6月)

松山北高校グループ旗(1967(昭和42)年~1990(平成2)年)

松山北高校70周年記念誌『回顧と展望』(1970(昭和45)年)

【失われたシリーズ④】愛媛県立松山東高等学校門標

松山東高校生徒会誌『青柳』創刊号(1965(昭和40)年3月)

愛媛新聞『愛媛人新地図』(1970(昭和45)年1月7日)

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こちらは本人の実績、というわけではないかもしれませんが

大暁の人となりや『習字』誌の理念についてよく分かるため

ご紹介したいと思います。

.

この記事は愛媛の書の世界を紹介する記事で、

愛媛県習字教育研究会主宰として出ています。

この中で、愛習研での書について大暁は以下のように言っています。


『書を書きたいという気持ちをつくることが大切。』


書は生活に根付いた文化です。

伝統文化として保護されているものではなく

ひとりひとりの生活と寄り添って息づいているものです。

書教育をする者たちにとって一番大切なことは、

学ぼうとしている人に対してその面白さ、楽しさを伝えることだと思います。

それは上手か下手かというだけの話ではなく

表現する手段としての書の面白さ、楽しさであると思います。

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『河東碧梧桐 ―俳句と書―』(1982(昭和57)年1月)

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ついにこの著書を出す時が来ました。

東京堂出版から刊行された『河東碧梧桐―俳句と書―』です。

この本は沢田大暁の代表作ですよね。

この中には、長年大暁が集めた碧梧桐の作品の写真が

二百点以上、本当にたくさん収められています。

私が県外出身の初めてお会いした方から

「僕の卒論は碧梧桐だったので、この本には本当にお世話になりました」と

声をかけられたのも『河東碧梧桐―俳句と書―』でした。

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『澤田大暁作品集』より

出版しないかという話を最初に頂いたのは、

1978(昭和53)年8月のことでした。

筒井茂徳先生からお電話にて話を受けたと書いてありました。

そこから四年の月日を経て、出版に至ることになったようです。

(話を受けてから出版するまでの間のことについてはまだ調査が半ばなので、

 分かり次第追記いたします。)

.

この中に入っている写真を一つ一つ自ら撮影しに行ったというのが

なによりすごい点です。

碧梧桐は1906(明治39)年に全国俳句行脚をしているらしく

作品は愛媛県内だけでなく全国にあります。

それらを一つ一つ撮影しに行ってまとめたことは

現代の碧梧桐研究の財産であると思っています。

.

そもそも碧梧桐は1937(昭和12)年までご存命でしたので、

亡くなった時大暁はすでに22歳でした。

つまり、現在の感覚では碧梧桐は当然研究対象となりますが、

その当時『研究対象』というほど過去の人物ではなかったかもしれないと思っています。

(姪御さんがご存命であったという点からも推察されます)

よくそこで残そうと思い立ってフットワーク軽く集めたものです。

自分が見たかったから、ということもあるかもしれませんけれど。

.

そうして出来上がったこの『河東碧梧桐―俳句と書―』ですので

現代の、そして未来の碧梧桐研究においても

お役に立ってくれれば良いなと思っています。

.

※2022/6/5追記

作品集に載っていた愛媛新聞(昭和57年1月21日)の記事を調べてきましたので

こちらでご紹介します。

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『沢田大暁の足跡』のページの写真とポーズは同じですが、

後ろにある碧梧桐のお軸の内容が違うようです。

なんかほぼ同じに見えるんですけどね笑

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澤田大暁著 句集『汲淦』(1983(昭和58)年5月20日)