足跡には入らないけれど…

仕事の足跡としてご紹介はできないのですが、

玄関の門札と墓石の依頼はかなり多いです。

もちろん「澤田家之墓」も大暁が書いていますが

それだけでなく頼まれては書いています。

門札の方は依頼があったけれど取りに来ていないのか?

いくつか書いた札がそのまま家にあります。

お墓も、例えば田中忠夫先生のお墓など書いていますけれど

人のお墓の写真を勝手に撮るのもなと思いますし

玄関先の札を撮ったとしてもご紹介となるとちょっとなー…ってことで

事実はあれどもご紹介はできずです。

.

今となっては自分の家の墓石を誰が書いたかなんて

知らない方も多いかもしれませんけれど、

フォントの文字じゃないという場合は

誰がいつ頼んだのかなど気にしてみると

そこから家族の歴史が垣間見えて来て面白いかもしれません。

吉野義子著「鶴舞」(中央公論社)(1976(昭和51)年7月)

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吉野義子さんの句集『鶴舞』です。

吉野義子著「はつあらし」(中央公論社)(1971(昭和46)年9月)に続き、

こちらでもタイトル文字を書いています。

表面がザラっとした銀色の装丁が綺麗ですね。

シンプルながらお洒落な雰囲気です。

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前の『はつあらし』の文字より

個人的にはこっちの文字の方が好きです。

容赦なく愛媛県立図書館蔵書の印が捺されちゃってますけど笑

前回の赤い紙と違ってこちらは白い紙だからかもしれませんが、

この作品はなんだか本自体に高級感をあたえている気がします。

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吉野義子著「はつあらし」(中央公論社)(1971(昭和46)年9月)

『続 愛媛の文学散歩』(愛媛新聞 1973(昭和48)年7月16日)

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読めるでしょうか…心配です。

以前ご紹介した

秋田忠俊著『愛媛の文学散歩』(1967(昭和42)年4月)

の続編である『続 愛媛の文学散歩』です。

こちらのタイトル文字も大暁が書いているのですが

それだけでなく今回は紙面に登場しているのでこちらをご紹介します。

この中にある『翁草』の部分は

『太陽』10月号-No.52(1967(昭和42)年9月)

でご紹介した「松山の三つの寺」の文章です。

この『太陽』の文章は『翁草』という本の中に入っているということで

タイトルの下部分に『太陽』からの文章を転載しているようです。

この記事の中には、

松山北高校文芸誌『たぎり』第24号(1966(昭和41)年) 

の話や、

龍眠会特集の『墨美』159号(1966(昭和41)年6月)

愛媛新聞『碧梧桐座談会』(1967(昭和42)年4月30日)

などの話が出てきます。

こう見ると瀧井先生とのご縁は碧梧桐を通してとはいえ

とても深いように感じられます。

個人的にはこの記事に二人のツーショットが載っていることが

なにより嬉しいところでした。

背景の松山城と桜がとてもきれいですね。

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吉野義子著「はつあらし」(中央公論社)(1971(昭和46)年9月)

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タイトルの「はつあらし」(初嵐)とは秋に吹く風のことでもありますが、

同時に椿の一種にも「初嵐(はつあらし)」という

秋から冬にかけて咲く白い花があります。

表紙の絵から、この本は後者の椿を指しているようです。

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銀色のシンプルな表紙を開けるとすぐにこの真っ赤なページが目に入ります。

色遣いがとても素敵ですね。

タイトル文字だけかと思いましたらこんな風に使っていただけており

おおっ、と思いました。

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この吉野さんとは、

大暁が1966(昭和41)年吉野内科の出入り口の戸の文字を書いていたことや

かつて義子さんご本人が書を習いに来ていた関係で

本のタイトルなどを書くことになったそうです。

もう一冊タイトルを書いている本がありますので

そちらもまたご紹介します。

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吉野義子著「鶴舞」(中央公論社)(1976(昭和51)年7月)

松山第五尋常小学校の門跡(松山市立新玉小学校)

先日松山市立新玉小学校へ

松山市立新玉小学校体育館『玉』額(1971(昭和46)年)

を見せていただきに参りました際に、

第五尋常小学校の門がまだあると校長先生がご厚意で案内して下さいました。

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大暁が松山第五尋常小学校を卒業したのは、

昭和3年3月のことです。

その翌年(昭和4年4月)には「新玉尋常小学校」と校名が変更されました。

新玉小学校は昭和11年に火事で校舎が消失したり、

松山大空襲(昭和20年7月26日)で焼失したりしたのですが、

校門だけは残ったと、新玉小学校の校庭の隅に移築してありました。

レンガ造りの立派な門で、歴史の重みを感じました。

実際に大暁が通った頃にもこの同じ門があり、

戦火(戦禍というべきか)も潜り抜けてきたのだと思うと

この門を置いておいてくださったことに感謝したい気持ちになりました。

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松山市立新玉小学校体育館『玉』額(1971(昭和46)年)

第23回いろどりの書作展が開催されます!

第23回いろどりの書作展

今年も、第23回いろどりの書作展が開催されますので

お知らせいたします。

■とき

2022年6月15日(水)~6月19日(日)

9:40~18:00(最終日は16:30迄)

■ところ

愛媛県美術館 新館 2階特別展示室

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今年も彩り豊かな作品がそろっています。

ご期待ください!

河東碧梧桐『三千里』上下巻、『続三千里』上巻(1973(昭和48)年~)

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講談社から出版された『三千里』シリーズに

大暁が関わっているのですがこれはあまり知られていないかもしれません。

『三千里』の上・下巻、『続 三千里』の上巻で脚注とルビを担当しています。

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こちらは『三千里』上巻の目次です。

本名の「茂雄」で校訂として登場しております。

これは1972(昭和47)年の12月に三千里への解説を頼みたい、と

東京から電話があり二つ返事で引き受けた、と書いてありました。

解説(たぶん脚注)と難読漢字へのルビをつけることが

今回頼まれた主な仕事だったそうです。

年が明けてからはひと月ほどずっとこの仕事にかかりきりで、

ことあるごとに「碧梧桐の語彙はすごい」と書いていました。

自分で好きに読む分には良いが、

人に見せるものとなると正しくなければならないので

辞書が手離せなかったそうです。

また、自分自身の勉強にもなるので大変ありがたいことだ、とも書いていました。

毎年1月には独立祭のため上京しているので、

その時に講談社で直接打ち合わせもしていました。

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ところで我が家に保管されてある初版本の『三千里 上』には

第二刷用に、かと思うのですがあれこれとメモが書いてあります。

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見えますでしょうか?

鉛筆であれこれとメモをしています。

たくさんのページ(体感だと三分の一くらい)にこのようなメモがあるので、

本が出てからも勉強を続けていたのだなと思います。

『続 三千里』の方は上巻だけ名前が載っているのですが

なぜ上巻だけなのかについてはまた追って調査してみたいと思っております。

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龍眠会特集の『墨美』159号(1966(昭和41)年6月)

河東碧梧桐特集の『墨美』164号(1966(昭和41)年12月)

『新潮』(1972(昭和47)年新年特大号)

瀧井孝作『俳人仲間』(1973(昭和48)年10月)

『河東碧梧桐 ―俳句と書―』(1982(昭和57)年1月)

喜多浦八幡大神神社(1985(昭和60)年)

実はこれについては日記の記録が無いのです。

昭和59年から60年にかけての日記を

多分3回通りくらいは読んだのですが

その中に出てこないのです。見落としてるだけでしょうか…

この石碑の存在を見つけたのは、一番上にあります俳句、

雑誌『習字』昭和61年12月号(P.19)でした。

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喜多浦八幡大神神社は、愛媛県今治市伯方島にある神社です。

この時は4月の終わりころだったのですが、

海が本当にめちゃくちゃきれいで感動しました。

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海の色がすごいですよね。

橋も含めて、瀬戸内海って美しいなと思いました。

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さて、神社です。

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神社の緑って他の緑より深いように感じるのですが気のせいでしょうか。

そして神社にはありがちの、階段です。

でも思ったよりは階段が多くなかったので大丈夫でした。

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奥に見えるのが本殿です。

この本殿に向かって右側に、石碑があります。

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これはもうどう見ても大暁の字ですね。

この石碑は、横に名前がありました。

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裏はこんな感じです。

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…ん?

今見ると、「竣工」が昭和六十年四月十四日と書いてありますね。

…と、いうことは、この除幕式はもっとずっと後ということですね…?

 

なんたること!!!

 

また調べ直して追記します。

よく見たら俳句も「秋」って書いているので

秋ごろを狙って探してみます。

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【お知らせ】「澤田大暁の足跡」を6月から不定期更新にします。

澤田大暁の足跡を全部出し終えたわけではまったくないのですが、

日記を読んでまとめて調べに行くペースと

ホームページを更新するペースとの折り合いがつかず、

最近体調に異変をきたしてきてしまったので不定期更新に変更します。

楽しみにしてくださっている方には申し訳ありません。

今後は一つ一つじっくり調べて満を持してご紹介したいと思います。

(今以上に文章長くする気か?!って感じですが)

.

足跡内でリンクや追記が多いことでもお分かりかと思いますが

記事の中からまた新たな謎が出たり、

逆に調べるうちに以前の謎が解けてきたり、

やりながら調査が複雑に絡み合って進んでいくのです。

もっとちゃんと調べてからご紹介したいのになと

以前からじわじわ思い始めていました。

70周年記念特別号の『習字』6月号が出るこのタイミングで、

いったんペースを落としてみたいと思っています。

その分、ブログとして蛇足をご紹介したり、

進捗状況をご紹介したり、

一つ一つの記事について丁寧に詳細にお伝えしていきます。

.

というわけで、

『澤田大暁の足跡』の一覧に入るような記事は不定期更新になりますが

ブログなどの更新は続けるつもりですので

今後ともよろしくお願いいたします!

松山市立新玉小学校体育館『玉』額(1971(昭和46)年)

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松山市総合コミュニティセンターの道を挟んだ西側、

正確にはプールの西側でこども館の北側に、

松山市立新玉小学校があります。

この新玉小学校は大暁の母校で、

1928(昭和3)年に当時の第五尋常小学校を卒業しました。

『習字』1994(平成6)年10月号の大暁の随筆『おもかげ』によると、

「現在の新玉小学校はコミュニティーセンターの隣にあるが、当時は左図の場所のあたりにあった。学校のすぐ裏には伊予鉄の線路があり、現在の電車ではなく汽車が走っていた。二年生には、桂、花、雪という三つの組があった。私は桂組だった。」(『おもかげ』20より)

『習字』誌上での左図
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とありました。

二年生とあるのは、大暁の父が警察官であり愛媛県内を転々としていて、

この年に退職をして今治から松山に引越ししてきたためです。

そのためその頃はわりと貧乏で、

「小学校の頃、わたしは二つのアルバイトをしていた。ひとつは伊予絣の糸巻きの仕事、もうひとつは新聞配達である。当時は、それほど裕福ではなかったし、小遣いかせぎのつもりでやっていた。」(『おもかげ』21(『習字』1994(平成6)年11月号より))

と語っています。

四畳半の部屋に兄、弟、妹の兄弟4人で寝ていたそうですので

いくら小学生だといってもたしかに狭そうに思えます。

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そんな小学生時代を送った大暁ですが、

その後、新玉小学校の校長に愛媛師範学校時代の同級生が就き、

新玉小学校へ『玉』の作品を頼まれました。

これが1971(昭和46)年の3月の事です。

卒業してから43年の月日が流れていました。

当時の日記には、

「小生にとって母校であるので、小生の気持ちとしては心の暖まる思いである。小生の書が講堂に掲げられるのは名誉なことである。妻と相談して額も全部寄付することにする。」

と書かれてあります。

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現在、『講堂』という名前のものなど公立小学校にあるのだろうかと

心配しつつも新玉小学校に連絡してみましたら、

なんと!現在も体育館に飾って下さっているというありがたいお返事が!

さっそく撮影しに行ってまいりました。

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この、校章の真上に飾られている大きな額をご覧ください。

この額こそが、大暁が寄贈した『玉』の額です。

現在では違う校訓がありますが、

昭和46年当時は『玉』が校訓だったのだそうです。

一文字だと逆に想像力たくましくなって、

「玉のよう」というと宝石を指しますから、

一人一人が宝石だという意味だったのか、

あるいは玉といえば球状ですから、

角が無い、丸い、和という意味だったのか、

いろいろと考えてしまいます。

きっといろいろ考えたその全てが正解なのだろうと思います。

…いや、やっぱり山上憶良かな。(まだ考えてる)

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額を真下から見上げると、かなり遠く思えます。

小さく見えますがおそらく縦は額を入れると1メートルほどあるそうです。

よーく落款を見ると…

持っているカメラを最大限ズームにしてみましたが小さかったので

残念ながらクリックしても大きくなりません。

でも、一応「澤田茂印」と書いてあるのが分かります。

澤田大暁作品集より伏見忠敬刻の落款
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この上側の落款です!

学校に寄贈しているものではこの落款が多い感じがしますね。

たまたまでしょうか?

うーん、また新たな謎が出て来てしまいました。

.

最後になりましたが新玉小学校では校長先生、教頭先生に大変お世話になりました。

本当にありがとうございました。

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※同じ落款を捺している作品↓

松山北高校『閑吟』(1969(昭和44)年7月)

西条高校蔵『緑葵昌』扁額(1965(昭和40)年3月)