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松山市立子規記念博物館『第3回特別企画展 碧梧桐 自在への句と書』(1982(昭和57)年4月)
松山市立子規記念博物館で開催された碧梧桐の特別企画展にて
作成された冊子の中に大暁が寄稿しております。
右側の画像からご覧ください。
インタビュー形式での記事のようです。
こちらの子規記念博物館の前の道後公園の入り口には子規の石碑があり、
その裏側の文字を大暁が書いています。
↑こちらに詳細があります。
そういう繋がりもあり、依頼されたのではないかと思います。
また詳細について分かりましたら追記します。
『愛媛』「碧梧桐の書と書論」(1964(昭和39)年9月、11月)
河東碧梧桐特集の『墨美』164号(1966(昭和41)年12月)
愛媛新聞『碧梧桐座談会』(1967(昭和42)年4月30日)
河東碧梧桐『三千里』上下巻、『続三千里』上巻(1973(昭和48)年~)
『碧梧桐の書の変遷』(愛媛新聞1973(昭和48)年12月25、26日)
『河東碧梧桐 ―俳句と書―』(1982(昭和57)年1月) (※2022/6/5追記あり)
今月号の『習字』誌の大暁の足跡記事が好評でして。
『習字』12月号において
の記事を掲載しましたところ、
「面白かった」「知らなかった」と
ご好評をいただいております。
ありがとうございます!
このホームページだけでなく雑誌という媒体でも
周知できることを嬉しく思います。
調べないとなかなか分からないことも多いですし
調べるのも古くて分からないことが多くしんどい時もあるので、
有難いコメントをいただけて私のモチベーションが爆上がりしました!
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今後とも頑張ります!
小池邦夫先生の訃報に接して
小池邦夫先生が亡くなられたニュースを今日拝読して
昨年本当にお世話になったことに今また感謝しています。
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私が記念誌を作成しようと決めて小池先生にご連絡した際、
実はすでに先生は御病気で闘病しておられました。
「公表はしてないんだけど、もうかなり悪いんだよ」
とおっしゃっておられましたが
写真のようにお手紙もくださいましたし、
お電話もくださって励まして頂きました。
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今年になってからお送りしたお手紙に返信がなかったので
お悪いのではないかと心配していました。
昨年の70周年記念誌がなければこんなご縁もなかったと
今改めて行動して良かったと思っています。
ご本人の口からお話を伺えた事は宝だと思います。
これからお聞きすることができないのは本当に残念で寂しいですが
励ましてくださったお手紙の言葉はずっと残ります。
ありがとうございました。
謹んでご冥福をお祈り申し上げます。
【失われたシリーズ⑥】中山高校へ寄贈「凌雲」(1977(昭和52)年)
ここに一枚の写真があります。
旧中山高校へ卒業生が寄贈した大暁の作品です。
これは、昭和52年の日記に挟んであった写真です。
おそらくカラー写真だと思うのですが、
色が褪せすぎていてカラーなのかどうか分かりませんね。
.
現在、旧中山高校は未来高等学校の中山キャンパスとして利用されています。
この作品がどうなったのかを問い合わせてみたところ、
現在も本館にかかっているというご返答を頂きましたので
ありがたく写真を撮影させて頂くことになりました。
こちらが現在の本館の入り口です。
うっすらと校章と学校名が見えますね。
こちらの詳細については
【失われたシリーズ①】愛媛県立中山高等学校題字(1976(昭和51)年1月)
↑こちらの記事をご参照ください。
この建物に入ってすぐ左手の壁に、作品はかかっていました。
外からはこんなにガラスがカラフルだなんて思っていませんでしたよね。
中から外を見てみるととても明るくきれいでした。
そこに、今もこの作品が飾ってありました。
近寄ると、しっかりプレートに名前もあり、落款も大暁のものです。
どこからどう見ても写真と一致していて、
それだけで嬉しかったです。
この作品はこの寄贈のための作品というわけではなくて
元々は東京での展覧会に出した作品だったそうです。
これからこの作品がどうなるのか分かりませんけれど、
四十年以上ここにずっと飾っていただけたことは
とてもありがたく、嬉しいことだと思います。
松山東高校生徒会誌『青柳』創刊号(1965(昭和40)年3月)
松山東高校には同窓会誌『明教』『関東明教』のほかに、
生徒会誌『青柳』があります。
この創刊号の表紙を大暁が書いていたので見せて頂きましたら
中に文章も寄稿していました!
ので、棚からぼた餅というかひょうたんから駒というか
思いがけない幸運でした。(やっぱり『たなぼた』ですね)
こちらが目次です。目次に「題字 澤田大暁」とあります。
そして右ページにあるように、本誌134ページに
『碧梧桐の書と書論』というタイトルで書いています。
というか左ページの寄稿者たちがめっちゃ豪華ですよね。
正門入って左側に鎮座しておられる胸像でおなじみの阿部能成さんや
俳人の松根東洋城さん、
新田高校の校長も務められた佐伯秀雄先生など
いろいろな方面で活躍されご縁のある方々が寄稿されています。
創刊号ってやっぱり熱量がすごいですよね。
無から有を創り出すのには相当な熱量が必要なのだと
この一年いろいろな調査をしてきて思います。
国語科と芸術科と両方に写真が載っていました。
そんなこともアリだったのですね…ほ、ほぅ。
こちらが碧梧桐について書いたページです。
碧梧桐の書と書論について、以下のように書いています。
ここに本校の先輩碧梧桐の書についてとりあげた所以は、俳人としての碧梧桐は、虚子とともに、子規門下の二巨星と仰がれているにもかかわらず、書作家としての碧梧桐の陰は薄い。そこで、私の見識のとどく限りにおいて鑑賞してみたいと思ったからである。
現代の書道界の傾向からみれば、碧梧桐の書は風変りでもなく、また絵のような字だと非難された当時のことがおかしい位である。先覚者は往々にしてその真価が認められず、葬られてしまうことが多いようだ。碧梧桐はそのよい例であったと思う。
碧梧桐の書論の中には、卓抜な意見を述べているが、それから類推して、現代の書道における先覚者だと言っても過言ではない。私自身現代の前衛的な書道を味わって来ている者において、痛切に感じている一人である。久米の米山翁については殆どその真価が問題にされていない。もっとも時代的にみて、当時は書法とか、精神修養のためだとかなかなかやかましい時代で、師法を重んじて、盲従していた頃だから、彼の書論が奇抜過ぎたのである。書家の中に西洋的な思潮を充分かみしめて書道にもとり入れようとする者がほとんどいなかったのであるし、唐以前の書法に眼をむける者が少なかったとも言える。もし居ても形骸をとどめるに過ぎなかった。それ故に書道史的にみて、明治大正のころは先駆者にとってみじめであった。少しかわった書でも書くものなら、書を冒涜する者だと排斥したものである。そのころにあって超然と独歩の書論を吐いていたのが碧梧桐である。逸早く六朝の書道に眼をむけたのだから卓見である。しかし初めから彼の書がそういう方向を指していたわけではない。最初の出発は師正岡子規の書をそのまま手に入れていた。やはり普通の出発であった。それが間もなく六朝書風に眼を向け出した。碧梧桐の芸術性が一場所にとどまることを許さないのである。後には洋画家の先駆者として有名な中村不折とともに六朝書道を鼓吹し、大正元年には不折等と龍眠会をおこし、会報「龍眠」を発刊した。当時の書風をみると全く中村不折と同傾向で、見分け難いものがある。不折と碧梧桐の芸術性は六朝書の上で共鳴していたと思われる。それから間もなく碧梧桐はまた独歩の歩みを続け始めた。一定の場にとどまることができない彼の姿を如実に表している。
明治四十二年八月二十六日の朝、越中の竹湍が訪ずれてきて六朝書の筆法を教えてくれ、というのに対して書論を述べているが、これが、「続一日一信」の中に収められている。もしこの書論が現代であれば、我々の世界において普通のことである。しかし明治四十二年に既に現代の代表的書作家が述べていることを言っているのであるから敬服させられる。
続一日一信の書論をあげながら私見を述べることにする。「所謂俳諧に門戸なしで、書道にも筆法という一定の門戸はない、要するに趣味(芸術性と解すべきか)の高い俗気の無い力の張った書をさえ為し得れば、それで目的は達せられておる」筆法に門戸は無いと道破しているのである。これは当時として怪異にさえ感じられることである。流儀というものに重きがおかれていた時代であるし、現在でもややもすると、貴殿は何流ですかと問われることがある。実際筆法なんて本人が持っているものが即ちその人の筆法であって、私が極論すればその人の個性が即ちその人の筆法である。要するに趣味の高いと言っている言葉は、人間性そのものを述べていると思われる。即ち情緒豊かな芸術性に富んだ人間でなければ駄目で、名声や技術だけでは書が書けるものではない。と言い切っているのである。これはすばらしい見識といわなければなるまい。現代的な言葉でいうなれば、芸術的センスの問題で、インスピレーションの湧かない人間では高次的な書はできないのである。碧梧桐にとって当時書かれている美しい書などは眼中になかった。これだけのことが当時言えたのは何といってもすばらしい。その反面碧梧桐の書道に対する態度がある程度確立していたとみてよい。俳句においても自由律の定昇の火口は切られ、四囲の芸術界を卓観していた頃である。碧梧桐が多芸多能であったことは、彼の芸術性の赴くままに表現が可能であったのではなかろうか。「俗気の無い力の張った書をさえ為し得れば、それで目的は達せられておる。」と述べているが、俗気の無いのは人間の問題である。俗人は俗人の書しか書けるものではない。高僧は自らにして立派な書を残している。良寛の書のすばらしさは良寛の人物が打ち出されているからである。俗人から逃避するため芸術家の中には酒に浸る者が多い。私もその一人かも知れない。酒によって俗塵を洗い、夜中の静かな時に書に打ち込むことが多い。結局心の俗気を酒によって洗うのである。要するに人間性の深度によって書の本質は異って来るものである。地位や名誉で書を書いている者が居るが、考え方によるとこれは噴飯物である。明治の偉人はよくわきまえたもので、伊藤博文は春畝とか、ただ博文と書いている。総理大臣などの肩書は書いていない。西郷隆盛は南洲と書いているだけである。それで見事なもので、南洲の精神躍如たるものがある。次に力の張ったと言っているが、これは技術の世界で、いくら芸術的センスがあり、人間的に情操が豊かであっても技術のともなわないものは結局書としての価値がない。筆力は用筆の根本的な問題で、柔毛であろうが、剛毛の筆であろうが、筆力を出すことにおいては変りがない。筆力はその人の鍛錬過程の表現であるとみてよい。更に技術的な面を述べているが、私たちの試みている新しいことを既に明治四十二年に謡っている。『筆を右に臥かす「側筆」前即ち筆者の身の方に倒す「偃(えん)筆」、筆を左側に臥かす「逆筆」、「偃筆」の反対の方向に倒す「倒筆」の四つがある。これを四則という』と述べているが、これは当時としては意外であったろう。邪道として非難されるのも当然のことで、懸腕直筆でなければ書はできないとされていたことのことである。現在私たちが筆を倒すことによって種々な線質を出して、書の線は唯の線ではなく面であることを自覚しているのである。ただの線の集合は書としての価値はないと思っている。それだけに碧梧桐のこの書論はすばらしい。なお、「懸腕直筆に馴れた人は、これを奇怪のこととするけれども、それは自己が久しい間ある巣中に沈淪(ちんりん)してをったことを忘れた観察に基くと思う。月並みの調子に馴れた頭に我らの句が生硬に響くのと同じ趣で、さる攻撃や冷笑は言うまでもなく無価値である」当時の書家連中を睥睨(へいげい)していて、痛快この上ない。碧梧桐の書の中には複雑な要素を含んでいるのを凡人は見落しているのである。筆の自由自在は、人間の自由性に通じ、あらゆる方向へ延びてゆく要素ともなる。ところがこれほど追求している技術を、彼は一面では否定しているのである。書の本質は品位にあることを第一義としていたからであろう。「書は単に技術ではない。筆法に精通し習熟さえすればそれで書が大成するとは言えぬ。究極の問題は趣味(芸術性)である。人格である。頭である。頭がしっかりせず、人格が修練されず、趣味が解されないで、書を作す所以はない。筆法の如き遂に些々たる末枝である。」あれほど、卓抜たる技法を述べながらなおそれは末枝であると言い切っている。人格修養のために書道を習練するのだと、そのころ言っていたが、それは倫理感に結びついていることが多くて、ここにいう人格修養とはほど遠いものである。宇宙大自然と一体になり得る人格であり、小さく言えば、美的対象に対して、鋭い感性によって抱擁する世界がそれである。
要するに続一日一信の冒頭にかかげている、「書道にも筆法という一定の門戸はない。」の語は、書道の奥義を究めた者でなければわかるものではない。しかしそれかといって本質的なものを無視しているわけではない。「俳諧にゃかなの使い方と季題趣味の研究が必要である如く、六朝書を宗とする一二の書法、即ち筆の扱い方が無いでもない。」と述べているのでもわかる。本質的なものまで無視すれば一人よがりのものであって、俳諧にもならぬし、書でもないことを述べている。この本質的なものは、書の本質的なものから生まれるのであって、それを会得していなければ、書は書けるものではないと言っていると思われる。前述した通り、書道は唯精神修養のために使われたり、字が上手になるためのものであったり、当時は書が芸術の世界であることを嫌った傾向さえみられたのであった。書が速く封建的な社会から脱却して居れば、もっと書道は日の目をみていたかも知れない。
碧梧桐が欧州へ旅立って、身を以って西洋思想や芸術に触れ、偉大な芸術を感得して帰省してからは、がらりと独歩の書風を書きはじめたのである。すなわち大正十年頃のことである。微妙な線質に西洋的な造型性が加わり、シチリア島のモンレアーレ本寺南側に付属する廻廊にあるモザイク柱を思わせる。それは空間への柱の働きと、その柱そのものの華麗が、碧梧桐の書に似通うものを感ずるからである。(芸術科担任)
ちなみにこの作品のところに書いてある「二宮蒸一氏」とは、
碧梧桐の姪の息子さんという方で
日記にもたびたび作品を観せていただきにあがっているようです。
大暁は愛媛県内だけでなく日本中の碧梧桐の作品を
写真に撮りに行っていました。
このフットワークの軽さは見習うべきところだと思います。
やりたいことは後回しにせずとりあえず行動してみるように
私も心掛けていこうと思います。
南海放送『サンデー9』(1973(昭和48)年2月25日)
大暁は愛媛県の地元テレビ局南海放送に出演したことがあります。
昭和48年にはまだ家庭用録画機が普及しておらず、
(調べたところベータの登場は1975年、VHSが1976年のようです)
南海放送に問い合わせをしても今はもう保存していないという返答で
諦めておりましたが、
ある方がなんとその時の放送を写真に撮って下さっており、
それを頂くことができました!!
本当にありがとうございました。
.
1月22日(月)
南海放送の土居放送部長が訪ずれて来る。
来る2月26日(※原文ママ)の碧梧桐生誕記念日に一時間テレビに出て欲しいとのことで打合せに来る。
実際の放送は25日でしたが、この時日記にはこんな感じで書かれてありました。
ちなみに生放送ではなくて録画放送だったようです。
2月13日(火)
土居南海放送事業部長が来る。
来るサンデーナインに小生が出る件につき打合せがあった。碧梧桐を中心にして其の間に生徒の習字を入れる。
この日記をただ読んでいると「どういう番組??」となりますが、
一時間の長丁場となると
途中で目線を変えるものが必要だったのかなと思います。
2月21日(水)
午前中は俳句の選出に努力した。明日放送する(※原文ママ)碧梧桐の俳句について十句選ぶ。
なかなかむつかしい。時代時代の特徴をつかまないといけないので…
2月22日(木)
南海放送にて録映。
10名の生徒の習字とか作品批評とかが主で碧梧桐は時間が少いので自分としては不満であるが…
時間の配分についてのようですね。
今であれば編集でいろいろ時間の配分は変わる気がします。
当時はどうだったんでしょうね。
2月25日(日)
南海放送サンデーナインに出る。
午前九時から一時間南海放送にてサンディーナインの番組があり、それに小生が碧梧桐(明日が生誕百年)のことと、県下から集めた十名(東中南)の小中学生の画仙紙への書写、県下から集めた習字作品の陳列、小生の批評などを放送する。
よく出来ていたようだ。
ブラウン管のテレビが懐かしいですね。
左から一枚目は、以前ご紹介した
松山東高校内『明教館』にある『六曲屏風』(1951(昭和26)年)
です。
真ん中と右側は大暁の写真です。
番組の様子が分かりますね。
クリックするとちょっとだけ大きくなります。
2023/04/12追記
1枚追加で頂いたのでこちらもご紹介しておきます。
松山北高校に寄贈した『閑吟』の作品のようです。
愛光学園内『田中忠夫先生像』(1982(昭和57)年11月3日)
愛光学園の正門から校舎に向かって歩く途中に
移設された田中忠夫先生像があります。
この像はもともとは古い正門の入ってすぐ左手にあったものですが、
正門をロータリーにするのに伴ってこちらに移動してきたそうです。
近づくとこんな感じです。
分かりやすく大暁の文字ですね。
そしてこの胸像は伊藤五百亀先生によって造られています。
この二人といえば、
愛媛大学教育学部附属中学校内『行く河』像裏書き(1981(昭和56)年11月)
↑こちらでご紹介した『行く河』の像と同じですね。
違うのは、この像では大暁が表面の文字も書いているところでしょうか。
像の方には背中に大きく伊藤先生のサインが入っていました。
下の文字は、ちょっと薄くなっていますが、ちゃんと読める状態でした。
拡大したものも掲載しておきますね。
書いてある文字を読んでみました↓
愛光百年の礎を確立した初代校長
田中忠夫先生の功績は至大である
創立三十周年に当り同窓生相集い
て先生を偲び遺徳を永く後世に伝
えんとするものである
昭和五十七年十一月三日
撰 文 門屋 方典
像作者 伊藤五百亀
書 澤田 茂雄
贈 愛光学園同窓会
大暁は田中先生と親しくしていただいておりましたので、
関連リンクが下部にあります通り愛光学園内にはたくさんの文字があります。
また、愛光学園だけでなく、松山大学にもたくさん残っています。
(田中先生が愛光学園の前に松山大学の学長をしていた為です)
二人の出会いについては資料が残っていませんが
今の松山大学に田中先生がおられた当時、大暁も今の愛媛大学の助教授でしたので
その辺の繋がりかな、と想像しています。
新校舎となっても生徒たちを見守っている像をみて
嬉しくなりました。
愛媛新聞『鐘はなる』(1976(昭和51)年4月13日)
結婚についての記事のはずなのに、
結婚にまつわる話は最後の五行だけという驚きの記事です。
.
この取材は同年4月1日に持田の家で行われました。
当時の日記には
『小生がしゃべりまくって一応まとめてしまう。
何かまともをはづれた感じである。』
とあって、「何をしゃべったんだ…?」と思っていたので
記事を見つけて納得しました。
ですが、名士夫婦のような憧れの対象として取材に来ていただけたことが
当時とても嬉しかった様子でした。
個人的には、
もうちょっと祖母について触れて欲しかったなと思いますが
この記事の内容と日記と大暁本人との思い出を考えると
取材のときの様子がなんとなく想像できるので
こうなるのも予想通りではありますよね。
.
こんな風に二人の写真を大きく出して記事にしてくださったことを
嬉しく思います。
.
『中島司有書作展』推薦文(1974(昭和49)年1月)
中島司有先生は何度か上野の森美術館で展覧会を開いていました。
この1974年、澤田大暁は作品集に推薦文を寄稿しています。
実は家で探したところ別の年の作品集しか見つけられず、
推薦文がどうしても読んでみたかったので
直接中島先生が創設した現代書道研究所に問い合わせをしました。
そうしましたら、現所長の佐伯司朗先生が直接お返事とこの画像をくださいました。
いろいろな方のお世話になっております。
本当にありがとうございます。
さて、この作品集の推薦文については、
この個展の2か月前、
11月12日に原稿用紙200字詰5枚にまとめて送ったという日記がありました。
この度ついにその内容をご紹介します。
どうですか。
しょっぱなからの「親友」呼びで驚きましたよね。
「あれ、こんなに近しい感じ?」
と個人的にはびっくりしました。
直接ご存知の方は当たり前なのかもしれないです。
私は面白いなと感心しました。
また、戦後すぐから認知していて、
昭和31年からのつながりだったことや、
中島先生が松山市にお住まいだったころに親しくなったことなど、
私の持っている日記の昭和37年よりも前の情報が手に入ったことが
とても有意義でした。
こんな風にまた別の原稿から
日記以前のことが分かる資料が発掘されてほしいと思います。
どこにあるかはまだ分かりませんが楽しみに調査を進めたいと思います。