『子規遺墨』書籍編を推す(愛媛新聞1975(昭和50)年11月8日)

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『子規遺墨』は、山上次郎氏が監修した

全三編(書跡編・絵画編・書簡編)の正岡子規の遺墨集です。

山上次郎氏は愛媛県出身の歌人、文筆家で

愛媛県議会議員も務めておられた方のようです。

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大暁はご本人と友人関係にあったわけではなく、

愛媛新聞文化部の方から推薦文を頼まれてこの文章を書いたそうです。

日記によれば、大暁原稿で14枚書いたとか。

あ。

大暁原稿って知ってる人にしか通じないですよね。

200字詰めの原稿用紙で、左下に沢田大暁原稿って書いてあるんです。

うちにまだあります。

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頼まれてから山上次郎さんの本をたくさん読み始めた様子で、

原稿が終わってからも本を買ってきては読んでいたようです。

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【追記】大暁原稿の写真も載せておきます!↓

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愛媛大学教育学部附属中学校内『行く河』像裏書き(1981(昭和56)年11月)

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愛媛大学教育学部附属中学校の中庭に

『行く河』という像がたっています。

この像は(おそらく「行く河」の文字も??)、彫刻家の伊藤五百亀さんが作ったものです。

現在の西条市出身であった伊藤五百亀さんの作品は、

西条市の鉄道歴史パーク in SAIJOにある十河信二像、

松山東高校にある安倍能成像や、

松山市立子規記念博物館にある正岡子規像でも見ることができます。

そして、以前ご紹介しました

松山大学『三恩人』の胸像(1963(昭和38)年8月)

加藤拓川像を制作されたのも伊藤五百亀さんです。(背面にサインがあります)

少なくとも昭和38年から大暁とも手紙のやり取りでお付き合いがあったようで

そう思うと長いお付き合いですよね。

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さて、そんなわけでこの『行く河』像の裏書を大暁が書いています。

「行く河」という正面の文字は大暁のものではなさそうですので

もしかしたら伊藤先生がお書きになったのかもしれません。(不明です)

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↑この背面から見たところにあるプレートです。

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プレートを拡大したところがこちら↑です。

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ちょうどこの時の附属中学校の校長先生が洋画家の小泉政孝先生で、

県展座談会(愛媛新聞1967(昭和42)年5月4日)でご紹介したように

県展でもよく会う間柄でしたので

11月の除幕式の際は前日の夜から前夜祭と称して飲んでいたようでした。

楽しそうなやり取りが伝わってきますね。

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附属中学校のあった場所は昔、今は愛媛大学に統合されている

旧制松山高等学校がありました。

現在の場所に附属中学校ができたのが昭和38年のことで、

現会長の大星が小学6年生の頃だったそうです。

ご存知の方も多いと思いますが大暁の家はこの学校のすぐ近くにありましたので

大星は中学校が近いところにやってきた!と喜んで

附属中学校に入学したと言っていました。

しかも当時は幼・小・中学校をぐるりと囲う鉄の柵は生垣だったので…(以下自粛)

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現在でもとてもよく見える所に立つこの像が

残って見守られていることを嬉しく思いました。

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松山大学『三恩人』の胸像(1963(昭和38)年8月)

県展座談会(愛媛新聞1967(昭和42)年5月4日)

【失われたシリーズ②】愛媛大学教育学部附属中学校門標

松山北高校門標(1975(昭和50)年6月)

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愛媛県立松山北高校です。

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前にこちらに伺った時から、

この門標の文字には見覚えがある気がするぞ、と思っていました。

どう見てもこれは大暁の筆跡だと思うなと思っていたところ、

それらしい記述を発見しました。

1975(昭和50)年4月2日
学校の門標文字をたくさん書く。
二時半まで書く。たくさんの中から4、5点選出しておく。

いつもなら「○○学校」と学校名を書くのに学校名がないので

これでまさかのここじゃなかったらショックなのですが、

1975(昭和50)年6月12日
松山北高校第5教棟が完成したので今日は式典があった。小生が門標を書いておいたがそれが出来たので写真を撮りに行く。鋳造は立派に出来ていた。

この記述を読んで、これは北高校の門標のことだと確信しました。

あー、発見できて良かったです。

これで、松山北高校は中島分校と両方の正門の門標を揮毫していることがわかりました。

最近は門標もフォントが増えましたけど、

鋳造の昔ながらの門標って良いですよね。

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松山北高校文芸誌『たぎり』第24号(1966(昭和41)年) 

松山北高校70周年記念誌『回顧と展望』(1970(昭和45)年)

松山北高校剣道部「妙機」(1966(昭和41)年10月)

愛媛県立松山北高校中島分校正門(1973(昭和43)年3月)

松山北高校『閑吟』(1969(昭和44)年7月)

松山北高校生徒会誌『北斗』第15号(1969(昭和44)年)

松山北高校弓道場『正射必中』額(1974(昭和49)年2月)

松山北高校グループ旗(1967(昭和42)年~1990(平成2)年)

松山東高校、松山北高校寄贈『山部宿祢赤人至伊予温泉』歌

松山大学御幸キャンパス『彰廉館』門標(1997(平成9)年3月)

松山大学御幸キャンパスの門標については以前お話ししました。

↑こちらの門標です

そのキャンパスの一番奥に、武道場である『彰廉館』があります。

「あります」とか堂々と書いていますが実はキャンパス内のどこか分からなくて

御幸キャンパス内の守衛さんに聞きました…その節はありがとうございました。

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行った日にちょうど曇っていたので空が白いですが

晴れた日だとすごくきれいです。

この武道場の向かって左側にある文字を大暁が書いています。

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この頃のことは日記がないため詳細は分かりませんが、

両親によりますと自宅まで依頼があったという記憶があるそうです。

また、詳しい落成日について松山大学に問い合わせたところ、

1997(平成9)年3月12日の落成だと分かりました。

81歳の時の書ということになります。(誕生日が5月なので)

年齢を重ねると、人生が出るというか若い時とはまた違った魅力がありますよね。

味わいのある字だと思います。

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松山大学『三恩人』の胸像(1963(昭和38)年8月)

松山大学の正門(1965(昭和40)年6月)

松山大学御幸キャンパス(1985(昭和60)年)

愛媛県高等学校教育研究会研究集録第8巻(1970(昭和45)年)

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またしても、「こんな雑誌あったのね」というやつです。

これは、書いたことだけ日記にあって、どこに載せたのかわからなかったのですが

図書館で探していてたまたま見つけました。

図書館も宝探し状態です笑

図書館のバーコードを消すために左下が怪しい感じになってしまいました。

※クリックすると大きくなります(左から順番に見てください)

実をいうと大暁の調査をし始めてから初めて

河東碧梧桐がヨーロッパに行っていたことを知りました。

冒頭に、瀧井先生から「欧州紀行」という本をお借りしたと書いてあったので

「欧州紀行」という本を探してみたのですが見つけられませんでした。

今度、碧梧桐全集を紐解いてみたいと思っています。

三千里もまだ読めていないのでそっちが先かもしれません。

今、完全に「積ん読」状態です。

やりたいこととできる時間の差がありすぎる!

いでよ時間!!

そんなわけで、家にはミケランジェロなど西洋美術に関する本や図録があるのですが

なるほどこういうときに使っていたのだと納得した次第です。

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芸術全般はどこかしらつながる部分があって、

書道と西洋美術は一見全然似ていないように見えて

通じるものがあるのだなと思います。

何かを見て「美しいな」「すてきだな」と思う心に

国境はないのだと思いました。

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五禾書房『書道』より中島司有「沢田大暁書作展に思う」(「習字」1976(昭和51)年9月号)

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『習字』誌、昭和51年9月号です。

この中の記事で中島司有先生の文章を見つけ、

五禾書房の『書道』の該当雑誌を探したのですが、

自宅でみつけた10冊ほどの中には見つけられませんでした。

現在は発行されておらずネット上で古本屋を巡っても見つからないので

こちらの記事だけ先に掲載することにしました。

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中島司有先生の個展の際にも大暁が作品集にコメントを寄せるなど

交流があったようです。

日記の中にも、

社中を超えて小生にコメントを頼むなどしてくれるのは中島氏くらいで

こういう器の大きさが素晴らしく、

書を通じた大きな付き合いができるところに心が暖まる

というようなことを書いていました。

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中島先生もこのような文章を送って下さっていて、

二人の間には似た志があったのかもしれないなと感じます。

※2022/11/22

ついに五禾書房の雑誌を見つけました。

中島司有「沢田大暁書作展に思う」(五禾書房『書道』第21巻7号(1975(昭和50)年7月))

↑こちらよりご覧ください

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中島司有「沢田大暁書作展に思う」(五禾書房『書道』第21巻7号(1975(昭和50)年7月))

『中島司有書作展』推薦文(1974(昭和49)年1月)

西古市集会所へ贈った漢詩(1974(昭和49)年12月)

東温市にある西古市集会所です。

この集会所の中に、大暁の半切作品が現在も飾られているという話を伺いまして、

さっそく撮影するべく行ってまいりました!

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東温市の歴史民俗資料館の方、西古市集会所の方に大変お世話になりました。

ありがとうございました。

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この作品は大暁が西古市の集会所を建て替える際に

東高時代の教え子であった元県議会議員の梅﨑雪男氏(現在は故人)から頼まれ、

西古市のために自作の漢詩を作って贈ったものです。

その後二度集会所は建て替えられたそうなのですが

現在の集会所にも変わらず掛けていただきありがたいです。

内容は、

「青山如旧友

 心髄野水清

 夕陽聞鳥語

 欣会西古市 大暁」

と書いてあります。

私の適当な漢文の翻訳では、

「青い山々は古くからの友人のようだ。
 野に湧く水の清いことが心の最も中心にある。
 夕暮れ時に鳥の語るのを聞く。
 西古市で会うことができて嬉しい。」

みたいな感じではないかと思うのですが間違っていたらすみません。

とにかく「自然が豊かで心も豊かになる西古市で会えて喜ばしい」

というような意味ではないかと思います。

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伺った際に、梅﨑氏の奥様にもお会いすることができました。

玄関に大暁の作品を飾って下さっていてとても嬉しかったです。

ありがとうございました!

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『森市太郎翁頌徳碑』(五柱神社)(1963(昭和38)年4月)

『教育広報』第72号(昭和49年)

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そもそも『教育広報』という雑誌の存在を私は知らなかったので

調査してみて初めてこのような雑誌があったのかと驚きました。

昭和50年に退職した大暁にとって、

昭和49年というのは教員生活最後という

しめくくりの年だという意識があったように思います。

この雑誌に、以下のような随筆を寄せています。

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1970(昭和45)年、金子鴎亭先生を団長とする日本代表書家訪欧団に参加し、

ヨーロッパを観て回った大暁は帰国後西洋美術についても調べ始めました。

スライドを作ったり、本を読んだり、

今でも家には画集などがたくさんあります。(大きい、そして重いのが!)

そういった刺激もまだまだ残っているような文章ですよね。

随筆というのは、まあ多少かっこつけているところはあるにしても、

考え方が分かって面白いです。

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作品 松山大空襲「父爆死」(『習字』1995(平成7)年11月号)

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1945(昭和20)年7月26日の深夜、松山市で大規模な空襲がありました。
その際、私の曾祖父(大暁の父)は亡くなりました。

もうすぐ空襲の日がやってくるので、この作品を取り上げることにしました。

この空襲について、大暁は「おもかげ」の最終回で以下の様に語っています。

「松山が全滅するような大空襲の日、いつものように雄郡小学校で落ち合う約束で、家族それぞれ大事な物を身につけて家を出た。私は最後に見回ってから家を出、中の川を越して小学校まで走った。ところが、いつまで待っても、先に出たはずの父親が来ない。その日の空襲は、とてもひどかったので父の安否を皆でとても心配していた。

後で避難してきた近所の人が、「お父さんは、国鉄の線路よりずっとこっちの、林の方でやられていたようなよ。」と教えてくれた。長い夜が明けるのを待ちかねて、父親を探しに行った。あたりは、ひどい有り様だった。探して、探して、中の川橋の所で父が死んでいるのを見つけた。橋のあたりで爆撃され、そのまま走って逃げれば命を落とさずにすんだかもしれないが、父は当時足を悪くしていたので、逃げることをせず、そこの石の下に隠れようとしたらしい。それを思うと涙が出た。父は、しっかりとした厳格な人で、私にとってはこわいとも思われる存在だったが、体を悪くしていた最期が悲しい。その時の思いを、後に、詩に詠み、屏風作品とした。私の心を打ち込んだ、今でも目頭の熱くなる作品である。

その松山大空襲で、長く住んでいた江戸町の家は焼けてしまった。私達は家を失い、父親を失った。

―完―

沢田大暁短歌

父爆死(松山大空襲)

いづれにか父やおはすと燃えさかる紅蓮中にもとめ迷ふかも

爆弾(たま)うけしわか父の血ぞ赤々と布団の外ににじみいでたる

あはれあはれ息たえにけり父ねむる布団のうへに日はのぼりつゝ

うつつなく荼毘の煙のあと追へば松田ケ池の面にみたるる 」

布団の外まで血が滲んでくるような状況で、
それでも次の空襲があるかもしれなくてゆっくり悲しみに浸ることもできない、
そんな日常だったことがありありと迫ってきます。

私が読む日記には、命を大切にしてほしいという気持ちが何度も出てきます。

生徒が事故を起こした時、自殺した時、
そのたびに心を痛めている様子の記述を残しています。

こんなつらい思いをした人が日本中のすべての地域に
たくさんいたことを忘れてはいけないし、
世界に目を向けると、
今まさにこのようなつらい思いをしている方がたくさんいることを
他人事にしてはいけないと思います。

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愛媛県立松山北高校中島分校正門(1973(昭和43)年3月)

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松山北高校は松山市にある中島という島に分校があります。

(松山北高校中島分校のHPはこちら)

今は松山市ですが、『温泉郡中島町』という呼び名の方が

馴染みがあるという方もいるかもしれません。

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記録によればこの中島分校が建て変わるタイミングで、

正門の文字を書くことになったそうです。

3月20日の記録には

『中島分校の新校舎が出来、立派な門が出来ることになっている。その門に銅鋳ではめこむ書を作る。今日仕上げる。』

とあります。

中島分校は1948(昭和23)年の創立のようなので、

創立25年の時のようですね。

少子化により分校が閉校になることも多い中、

今も残ってくれているのが嬉しいです。

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松山東高校、松山北高校寄贈『山部宿祢赤人至伊予温泉』歌

松山北高校剣道部「妙機」(1966(昭和41)年10月)

松山北高校グループ旗(1967(昭和42)年~1990(平成2)年)

松山北高校『閑吟』(1969(昭和44)年7月)

松山北高校生徒会誌『北斗』第15号(1969(昭和44)年)

松山北高校70周年記念誌『回顧と展望』(1970(昭和45)年)

松山北高校弓道場『正射必中』額(1974(昭和49)年2月)

松山北高校門標(1975(昭和50)年6月)