『観魚』(1970(昭和45)年2月)

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よーく見るとエンボス加工になった「観魚」の文字が見えます

伊藤観魚という俳人がいました。

(※名前をクリックするとウィキペディアに飛びます)

中村不折・河東碧梧桐が設立した「龍眠会」の設立に参画していたことから

大暁の碧梧桐研究の中で手紙などを通した交流があったようです。

この本は、伊藤観魚翁が亡くなった遺作集として出版されました。

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1969(昭和44)年9月16日に、

大暁宛で京都の立命館大学教授だった赤井達郎先生から原稿依頼が来た、

と記述があります。

その手紙の文章がとても親切で感激した様子が書かれてあります。

さっそく原稿として28日に送ったようです。

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本の中では瀧井先生の次に掲載されていました↓

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この文章は、以前紹介しました

龍眠会特集の『墨美』159号(1966(昭和41)年6月)にあるものです。

手前味噌ではありますが、

この時の龍眠会についての文章はよく調べてここまで書いたものだと

感心する出来栄えです。

この墨美が出来た時、瀧井先生からお電話を頂き

大変褒めて頂いたと大暁の記録にも残っていましたが

設立に関わった一人一人についてちゃんと作風や履歴を調べ

自分なりの考察も交えたすごい文章だと思います。

その中の伊藤観魚翁の部分の抜粋です。

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この遺作集は実は2冊あって、

どちらもハードカバーの立派な本です。

大暁の文章はこの観魚翁が逝去された翌年に出版された方に掲載されています。

この後、1981(昭和56)年にも、改めて遺作集が出版されています。

このことからも分かるように、観魚翁について残したいと思う

周りの方々の熱意を感じます。

あとがきからも伝わりましたので最後にご紹介します。

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こんな風に慕ってもらえる弟子たちがいるのってすごいですよね。

どんな方だったんでしょうね。

大暁の文章からはけっこう尖った人っぽい印象を受けたので興味があります。

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『愛媛』(1964(昭和39)年9月、11月)

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『愛媛』という冊子をご存知でしょうか。

私はこの調査を始めるまで全く知りませんでした。

愛媛県立図書館の詳細検索で調べても出てこないような

かなりレアな冊子のようです。

どちらかというと本というよりは新聞に近いような形状でした。

これはどうやって写真を撮ったのかというと、

愛媛県立図書館へ行ってカウンターで直接聞いてみたら、

ピンク色をした普通の紙のファイルに綴じられた

この『愛媛』を出してきてくださった、というわけです。

図書館の皆様、ありがとうございました。

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さて、この『愛媛』ですが、

最初に寄稿の依頼がありましたのは、

1963(昭和38)年2月、星加宗一先生からでした。

しかしこの時は「本を書いているのでことわった」とあります。

ここでいう『本』とは、『書道』(1963(昭和38)年5月)のことです。

そして翌年8月に、

「『愛媛』への原稿碧梧桐の書と書論について第一回を仕上げる」

とあり、9月に掲載されたようです。

まさか表紙になっているとは思っていなかったので

今回初めて見てみてびっくりしました。

そしてこの後、11月にも続きが掲載されています。

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この『愛媛』という冊子は、愛媛の文化について研究や調査をしたものを

色々な方が掲載しているようで、

どちらかというと論文に近いようなものが多いと思いました。

出典や注釈などがないのでちょっと違うかもしれませんが、

どちらかというと堅い内容のようです。

星加宗一先生とは、大学教授をした後愛媛に戻って

愛媛の高校の校長先生を歴任した方のようです。

元々が教授だったことから、こういった冊子を作成したのかもしれませんね。

愛媛の文化について調査・研究している人に

後世に愛媛の文化について書き残すものとして作っていたのかなと

そんな風に思いました。

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清水公民館第三区分館門札(1963(昭和38)年3月)

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松山市木屋町一丁目に今もある清水公民館第三区分館の

門札を沢田大暁が書いています。

この写真では見えにくいので少し近づいてみます。

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扉の左側にある二つの木の門札のうち、

左側のより読みにくい方がそれです。

さらに近づいてみます。

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この距離ですら微妙っていう感じですね。

来年で60年経つようなので、

それもそうかな、という気がします。

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ここまで近づいてやっとなんとか読めるかなというところですね。

よーく見ると、たしかに大暁の筆跡です。

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この清水公民館第三区分館は、

1963(昭和38)年3月26日に落成しているそうです。(※)

(※清水公民館へ問い合わせて教えて頂きました。ありがとうございました!)

大暁の記録によれば、

3月12日に豊田鉄工所の豊田さんという方が持田の家へ木の看板を持って来て、

この清水公民館第三区分館の文字を書いて欲しいと依頼したそうです。

そしてその翌日に看板を仕上げた、と書いてあります。

宝塔寺の扁額西条高校の門札もそうですが、

直接書いて雨ざらしになる木の看板や門札は

時間の経過とともに読みづらくなってしまうのが残念ですね。

ある意味『味が出る』のですけれど、

標識としての意味もある看板の場合には

その存在意義が薄れてしまうのが痛いです。

『読みやすくて』『センスが良くて』『美しくて』『オリジナリティがあって』

さらに『技術もあって』良い字なのに

読みづらいというただ一点だけで用をなさなくなってしまうのは

なんだかもったいないですよね。

今ならもうちょっと長持ちさせる技術はあると思うので、

現状のものをどうにかする方法もないものかなぁと思ってしまいます。

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伊予の書(1974(昭和49)年1月)

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実物を見てびっくりしたんですが、

この本、かなり大きくて、そして立派です。

まさに『豪華』という感じでした。

この表紙の文字は村上三島先生による揮毫です。

そういえば大三島にある村上三島記念館にも

大暁の作品がありますよね。(急に思い出した)

いつか機会があれば是非観に行ってください。

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さて、この本ができた経緯についてはあとがきにありましたので

あとがきを先にご紹介します↓

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つまり、昭和51年に愛媛新聞社が創刊100周年にあたることから

それを記念して『伊予の書』が作られ、

その編集委員として大暁も名を連ねている、ということのようです。

こちらの中に大暁の文字作品があるわけではありませんので

中身のご紹介ができないのが残念ですが

碧梧桐の書などがあるのでその辺りに関わったのかなという感じがします。

また別途調査が進みましたら追記としてご紹介します。

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『大暁の足跡』コーナーもどんどん充実してきました。

それに伴って追記も増えてきててんやわんやです。

ここらでちゃんと整理もしないとなと思っていますが

私自身の体力的にも『ぼちぼち』というスタンスで

息の長いものとして続けていきたいと思います。

お付き合いよろしくお願いいたします!

※2022/5/17追記

瀧井孝作先生の「伊予の書」に関する文章を見つけましたので

追記して掲載いたします。

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(瀧井孝作全集第11巻P.431-432)

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松山北高校グループ旗(1967(昭和42)年~1990(平成2)年)

松山北高校には、「飛龍」「青雲」「銀河」「北斗」という

4つのグループがあります。

運動会やリレーカーニバルなどのイベントの時に

これら4つのグループに分かれて勝負を行います。

1990(平成2)年に劣化のため刷新され現在は違う旗に変わりましたが、

初代のグループ旗の文字を大暁が書いていました。

(元北高で教鞭を取られていたY先生にご協力いただきました。
 ありがとうございました!!)

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愛媛県立松山北高校に4つのグループが誕生したのは1967(昭和42)年のことです。

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「北高100周年記念誌」より

逆にそれまでクラスごとでやっていたということが

まずすごいなと言わざるを得ませんよね。

昭和42年といえば、ちょうど団塊の世代最終年が高校生くらいの年代でしょうか。

(※参考:(団塊の世代とは)1947年−1949年に生まれた世代をいう(コトバンクより))

生徒の数は多かったはずですので

一クラスの人数も多くて可能だったのかもしれません。

ちなみにこの時代の大暁の記録には

「卒業生約600人分の卒業証書が完成した」とか書いてあるので

現在の倍近くの生徒がいたと思われます。

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さて、その大暁が書いたグループ旗なのですが、

見つけて頂けたのはこの北高70周年記念誌に残る写真でした。

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「北高70周年記念誌」より

大暁本人の記録では

   1967(昭和42)年9月11日(月)

   運動会に使用するグループ旗(画仙紙全紙四枚の大きさ)

   の文字を書く。四枚。

   大字であるため気合をかけながら書いた。面白い。

とあります。

確かにこの写真で見ても旗はかなり大きいように思います。

原寸大で書いていたとは、と拡大していたわけじゃない点に

感心してすごいなと思いましたが

よく考えたらこの時代に拡大コピーなどというものが

現代みたいに簡単にできないことに思い至りました。

昔の看板や幟なども全部原寸大で書かれてあったということですよね。

見えていたのに気づいていませんでした。

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この旗を見ると、

確かにすべて気合が入ってそうな線質に見えますよね。

今の旗も書体がいろいろでかっこいいですけれど、

この初代の旗もベーシックでかっこいいと思います。

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松山東高校、松山北高校寄贈『山部宿祢赤人至伊予温泉』歌

松山北高校剣道部「妙機」(1966(昭和41)年10月)

松山北高校『閑吟』(1969(昭和44)年7月)

松山北高校生徒会誌『北斗』第15号(1969(昭和44)年)

松山北高校70周年記念誌『回顧と展望』(1970(昭和45)年)

松山北高校門標(1975(昭和50)年6月)

柴田薫先生頌徳碑(1978(昭和53)年1月)

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四国中央市川滝公民館分室に「柴田薫先生頌徳(しょうとく)碑」があります。

こちらも「澤田大暁作品集」(昭和60年)で見つけたので

今日、ようやく撮影しに行くことができました。

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↑こちらが作品集に掲載されていたページです。

事前に川滝公民館へ電話をして、

国道192号線沿いにある健康トレーニングセンターにあると聞きました。

が!

ナビに健康トレーニングセンターが出なくて、

お聞きした住所も出なくて、

「詰んだ…」ってなりました。

駐在所のお巡りさんに教えて頂いてなんとか到着することができました。

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碑の表面はこんな感じです。

優しい字ですよね。

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さて、この柴田薫先生について私は存じ上げなかったので

行く前に調べようと思ってネットで調べたのですが出てこず。

そうしたら、裏面にしっかり書かれてありました。

とても素晴らしい方でしたのでご紹介します。

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 柴田先生は昭和二十二年二月より昭和五十一年一月のご逝去まで実に二十九年間当地椿堂にて医療に専念従事されました又学校医として児童の健康管理に尽くされ川滝公民館運営審議委員会議長小中学校のPTA会長川之江市教育委員会等教育にもご貢献いただきました
 先生は性無欲恬淡誰彼の別なく患者に接せられ施療は親切丁寧昼夜を問わず風雨を厭わず単車で山野を走り往診をして下さいました晩年は病身を案ずる夫人に「医者としての責任」の話を残し仁術の道を実践されました
 ここに長年にわたる先生のご慈愛を感謝する遠近住民の協力によりこの日を建てご遺徳を永久に伝えようと思うものです
      昭和五十三年一月二十九日
          撰文   川滝公民館長 石村寛逸
          書    松山市持田町 澤田大暁
          世話人  川 滝 壮 年 会

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昭和52年12月20日、

公民館長の石村寛逸さんと、元愛媛大学教授の大喜多秀先生とがいらして

川之江市(当時)に顕彰碑を建立するので書いて欲しいという依頼があったそうです。

そしてその席で大暁はすぐに引き受けるとお返事をしたようです。

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『習字』誌70周年ということで調べ始めた大暁の足跡ですが、

それをきっかけにして今まで知らなかった素晴らしい方を新たに知ることができて、

そういう点でもとても意義のある調査だなと思っています。

そして急な電話や来訪であったにも関わらず快く対応してくださった

川滝公民館の方と駐在所のお巡りさんに心から感謝しております。

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愛媛の書五十五人展(1977(昭和52)年9月)

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1977(昭和52)年9月20日から25日まで、

松山三越三階特設会場で愛媛の書五十五人展が開かれ、

その時に作られたのがこの冊子です。

こういう書道展の冊子を全部ご紹介するのはさすがに無理があるのですが

こちらの冊子にはコメントが掲載されていたので

ちょっと特別にご紹介することにしました。

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コメントを読むのって楽しくて好きなんですよね。

その時の気持ちとか、考えとかが垣間見える気がするんです。

あと、ちょっとした言い回しとかに性格が出ちゃうところも。

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さて、この「愛媛の書五十五人展」の開展の際の事を

大暁は細かく書き残しています。

この日は朝から天気がとてもよく、

持田の家から三越まで歩いて出かけたそうです。

開会のあいさつでは愛媛新聞社社長が東京出張だったため

中村専務取締役が行い、県知事の代読を乗松愛媛県美術館長が行い、

そしてその後、満を持して(?)

書家を代表して大暁が挨拶をしたのだそうです。

それからその三人で開展のテープカットを行ったとか。

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これだけ細かく書いているということは、

きっと忘れたくない嬉しい記憶だったのかなと思います。

書いてはいないけれどうっすら見える嬉しい気持ちが伝わります。

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さて、この冊子の大暁のコメントがこちらです↓

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—-コメントここから—-

 広い無限の空間の中に生きている証(あかし)として、また人生の表象として「心」の素材を選んだ。
 心には複雑な内容があり、働きがある。この心を素材としての表象はなかなかむつかしい。ただ私は、人生を深めようとする努力の道程標のつもりであった。
 日常生活の中に、また自然との対話の中に、感動の渦(うず)が拡がり、その執念の深まりを長く温存して来たものであった。もちろん素材は何であってもよかったが、「心」が最も良い素材となったに過ぎない。
 不器用な私の技術では、如何(いかん)ともしがたいものがあって、白と黒の親和や、力の調和がかもし出されているかどうかなどが疑問である。しかしそれは、時間解決してくれるだろう。

—-ここまで—-

確かに難しそうな素材を選んでますよね。

というか話がめちゃくちゃ壮大ですよね。

大げさで壮大なように思える

そういう作品作りができるって面白いだろうなと思いますし

きっとそういう気分で他の人の作品とも対峙していたんだろうなと思います。

素直に、そして純粋にその作品と対峙するって

実はかなり難しいことだと思うのですよ。

特に大人にはね。

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この「心」は濃すぎず、薄すぎない墨色で、

だんだんと右上がりになるように書いているように思えます。

そして薄いにじみが広くあって、ところどころに濃い色があります。

拡がりのある配置に濃淡で深みを出しているところに

波のうねりのような印象を受けました。

濃い部分が渦の底で、うねりの中にいくつもの渦があるところに

人間の複雑性を思わせるようなそんな感じがします。

これは私の勝手な解釈ですが、皆さんの解釈はどうですか?

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あ、最後に、

この展覧会は毎日千人以上の来場者があり、大成功に終わったそうです。

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道後小学校正門(1969(昭和44)年1月)

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道後小学校は松山市石手にあります。

石手寺のすぐ近くなのですがちょっと入り組んでいるので

多分地元の方以外は見かけることはないかもしれません。

こちらの文字も沢田大暁が書いています。

正門の文字は多いので皆さんもだいぶ筆跡に慣れてきましたか?

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大暁は昭和10年3月に愛媛県師範学校本科を卒業して、

半年の軍事教練の後最初に赴任したのが湯築高等小学校(現在の道後小学校)でした。

愛媛県師範学校の助教授となるまでの八年間ここに勤めました。

ここで新任早々習字の担当に指名されたことが

大暁の人生の転機となりました。

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昭和44年1月、当時道後小学校で校長先生をしていた吉金先生から

勤め先の松山北高校に電話があり、

「道後小学校の教師であった貴君のことだから

 是非校門の文字を書いて欲しい」

と言われたそうです。

その後の自分の人生を決めたといっても過言ではない

思い出の学校の校門の文字を書くのは

「心に残るものがある」と書いています。

優しくて温かみのある文字ですよね。

丸いのに芯がある、技術的にも高い揮毫だと思います。

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道後小学校跡の石碑(1976(昭和51)年2月)

松山北高校『閑吟』(1969(昭和44)年7月)

※2013年 松山北高校にて
澤田大星会長、明佳副会長

松山北高校の応接室には『閑吟』という作品が飾られています。

この作品は1969(昭和44)年7月、

大暁が当時勤めていた松山北高校に寄贈したものです。

この『閑吟』という作品は、寄贈の前年(昭和43年)の毎日書道展において

準大賞を受賞した作品です。

毎日書道展準大賞受賞(『習字』1968(昭和43)年9月号)

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昭和44年の3月2日、NHKの教育テレビ(今のEテレ)の

『書道講座』という午後2時から放映していた番組内で

この作品は紹介されたことがあります。

この時、伊東参州先生、鈴木天城先生、白井竹舟先生が

格別に褒めてくださったと書いてありました。

映像を見てみたかったのですが、

この当時は一般家庭において録画という概念がまだなく、

また放送局でも法律で録画を渡すということができないため

私がこの映像をみることはできませんでした。残念。

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その後、『閑吟』という作品は表具をし直して北高校へ寄贈されました。

7月の校長会の時に会場で披露されたのことで

大暁はこのことをとても誇らしく思っていたようです。

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勤めていた松山東高校、松山北高校、愛光学園には

大暁は複数の作品を残しています。

今もあるものも、劣化などの理由により残念ながらもうないものもありますが、

勤めていた記録として受け入れてくださった学校の方々に感謝したいと思います。

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松山東高校、松山北高校寄贈『山部宿祢赤人至伊予温泉』歌

松山北高校剣道部「妙機」(1966(昭和41)年10月)

松山北高校生徒会誌『北斗』第15号(1969(昭和44)年)

松山北高校グループ旗(1967(昭和42)年~1990(平成2)年)

松山北高校70周年記念誌『回顧と展望』(1970(昭和45)年)

松山北高校門標(1975(昭和50)年6月)

【ちょっと小咄】『大暁道人』の落款

ベルギー国主催・右卿とその一門展(1969(昭和44)年9月)

1952年に手島右卿先生によって発足した独立書人団という公益財団法人があります。

澤田大暁略歴にもある通り、大暁もその団体に所属して活動をしていました。

昭和44年、独立書人団は「外務省第1回訪欧使節団」として訪欧し、

「ベルギー国主催・右卿とその一門展」という展覧会を開いた事がありました。

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愛媛新聞(昭和44年9月7日)

この展覧会は、外務省主催展としてベルギーを皮切りに

欧州各国を2年かけて巡回するという展覧会でした。

この愛媛新聞によると、当時愛大におられた浅海先生は

9月10日から二か月間渡欧したようですよね。

めっちゃ良いですよねえぇぇ(完全に個人的な意見です)。

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そしてこの時、大暁は「焼」という字を発表したと

記録に残しています。

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「澤田大暁作品集」より

「習字」誌を購読の皆様には

大暁の一字書は表紙でおなじみですよね。

この「焼」は爆発や火柱が上がるような雰囲気で書いてあります。

墨色は濃い部分と薄い部分とが混在し、

また潤っている部分とかすれとも混在させています。

この技法によって爆発の激しさと熱い空気感を

観るものに想起させる作品になっていると思います。

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私の個人的な印象では大暁はアジアに行くことが多かったように思います。

昭和30年代にはすでに大阪や京都、東海地方、東京へ年に何度も足を運んでいますし、

瀬戸大橋すら無かった時代によくこんなにフットワークが軽いものだと

本当に感心します。

1970(昭和45)年には「書道代表フランス親善使節団」として自ら渡欧もしています。

これについてはまた機会があればご紹介しますね。

それ以外でも、中国やインド等アジアへはよく行っていた気がします。

それで今も我が家には曼荼羅とか、なんかのお面とかが鎮座しています。

旅が好きなのは、大暁も、大星も、私も同じなようです。

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※2022/5/1追記

大星・明佳先生に聞いたところ、

この作品は金粉を練りこんだ墨で書かれているのだそうです。

そのため、この作品が作られたばかりの頃は

作品の左上の濃い墨の飛び散っている部分などは金粉が散って、

あたかも火の粉のようだったということです。

それはすごい!

新たな発見です。

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