秋田忠俊著『愛媛の文学散歩』(1967(昭和42)年4月)

※クリックすると大きくなります

秋田忠俊著『愛媛の文学散歩』です。

この本はもともと愛媛新聞の中の記事で、

第1回の記事はこんな感じでした。

※クリックすると大きくなります
昭和42年4月8日

見ての通り、フォントを使ったロゴを使用していました。

それが!

第3回からはこちらになりました!

※クリックすると大きくなります
昭和42年4月22日

なぜか図書館のマイクロフィルムをコピーしたら反転してしまいましたが、

ロゴが筆文字に変わっているのがお分かりでしょうか。

この文字を大暁が書いています。

早速この日には富田道徳氏から題字が良かったと電話を頂いたようです。

たしかに、フォントが筆文字になっただけで

なんだか格調高くなったような感じがしますよね。

.

また、その3年後の1970(昭和45)年の10月6日、

秋田氏からこの本を贈呈していただいたそうです。(このページ一番上の画像)

『すっぱりした装幀であるし、表紙の文字も引立って良い』

と書いてありました。

違う文字を新たに書いたようですよね。

シンプルで良いですね。

この続きの、背景が写真のものも良いと思います。

沢田大暁の足跡一覧にもどる

秋田忠俊『伊予の文学地図』愛媛新聞(1974(昭和49)年2月~1975(昭和50)年3月)

愛媛新聞『愛媛人新地図』(1970(昭和45)年1月7日)

※クリックすると大きくなります

こちらは本人の実績、というわけではないかもしれませんが

大暁の人となりや『習字』誌の理念についてよく分かるため

ご紹介したいと思います。

.

この記事は愛媛の書の世界を紹介する記事で、

愛媛県習字教育研究会主宰として出ています。

この中で、愛習研での書について大暁は以下のように言っています。


『書を書きたいという気持ちをつくることが大切。』


書は生活に根付いた文化です。

伝統文化として保護されているものではなく

ひとりひとりの生活と寄り添って息づいているものです。

書教育をする者たちにとって一番大切なことは、

学ぼうとしている人に対してその面白さ、楽しさを伝えることだと思います。

それは上手か下手かというだけの話ではなく

表現する手段としての書の面白さ、楽しさであると思います。

沢田大暁の足跡一覧にもどる

『河東碧梧桐 ―俳句と書―』(1982(昭和57)年1月)

※クリックすると大きくなります

ついにこの著書を出す時が来ました。

東京堂出版から刊行された『河東碧梧桐―俳句と書―』です。

この本は沢田大暁の代表作ですよね。

この中には、長年大暁が集めた碧梧桐の作品の写真が

二百点以上、本当にたくさん収められています。

私が県外出身の初めてお会いした方から

「僕の卒論は碧梧桐だったので、この本には本当にお世話になりました」と

声をかけられたのも『河東碧梧桐―俳句と書―』でした。

※クリックすると大きくなります
『澤田大暁作品集』より

出版しないかという話を最初に頂いたのは、

1978(昭和53)年8月のことでした。

筒井茂徳先生からお電話にて話を受けたと書いてありました。

そこから四年の月日を経て、出版に至ることになったようです。

(話を受けてから出版するまでの間のことについてはまだ調査が半ばなので、

 分かり次第追記いたします。)

.

この中に入っている写真を一つ一つ自ら撮影しに行ったというのが

なによりすごい点です。

碧梧桐は1906(明治39)年に全国俳句行脚をしているらしく

作品は愛媛県内だけでなく全国にあります。

それらを一つ一つ撮影しに行ってまとめたことは

現代の碧梧桐研究の財産であると思っています。

.

そもそも碧梧桐は1937(昭和12)年までご存命でしたので、

亡くなった時大暁はすでに22歳でした。

つまり、現在の感覚では碧梧桐は当然研究対象となりますが、

その当時『研究対象』というほど過去の人物ではなかったかもしれないと思っています。

(姪御さんがご存命であったという点からも推察されます)

よくそこで残そうと思い立ってフットワーク軽く集めたものです。

自分が見たかったから、ということもあるかもしれませんけれど。

.

そうして出来上がったこの『河東碧梧桐―俳句と書―』ですので

現代の、そして未来の碧梧桐研究においても

お役に立ってくれれば良いなと思っています。

.

※2022/6/5追記

作品集に載っていた愛媛新聞(昭和57年1月21日)の記事を調べてきましたので

こちらでご紹介します。

※クリックすると大きくなります

『沢田大暁の足跡』のページの写真とポーズは同じですが、

後ろにある碧梧桐のお軸の内容が違うようです。

なんかほぼ同じに見えるんですけどね笑

沢田大暁の足跡一覧にもどる

澤田大暁著 句集『汲淦』(1983(昭和58)年5月20日)

『観魚』(1970(昭和45)年2月)

※クリックすると大きくなります
よーく見るとエンボス加工になった「観魚」の文字が見えます

伊藤観魚という俳人がいました。

(※名前をクリックするとウィキペディアに飛びます)

中村不折・河東碧梧桐が設立した「龍眠会」の設立に参画していたことから

大暁の碧梧桐研究の中で手紙などを通した交流があったようです。

この本は、伊藤観魚翁が亡くなった遺作集として出版されました。

.

1969(昭和44)年9月16日に、

大暁宛で京都の立命館大学教授だった赤井達郎先生から原稿依頼が来た、

と記述があります。

その手紙の文章がとても親切で感激した様子が書かれてあります。

さっそく原稿として28日に送ったようです。

.

本の中では瀧井先生の次に掲載されていました↓

※クリックすると大きくなります
※クリックすると大きくなります

この文章は、以前紹介しました

龍眠会特集の『墨美』159号(1966(昭和41)年6月)にあるものです。

手前味噌ではありますが、

この時の龍眠会についての文章はよく調べてここまで書いたものだと

感心する出来栄えです。

この墨美が出来た時、瀧井先生からお電話を頂き

大変褒めて頂いたと大暁の記録にも残っていましたが

設立に関わった一人一人についてちゃんと作風や履歴を調べ

自分なりの考察も交えたすごい文章だと思います。

その中の伊藤観魚翁の部分の抜粋です。

.

この遺作集は実は2冊あって、

どちらもハードカバーの立派な本です。

大暁の文章はこの観魚翁が逝去された翌年に出版された方に掲載されています。

この後、1981(昭和56)年にも、改めて遺作集が出版されています。

このことからも分かるように、観魚翁について残したいと思う

周りの方々の熱意を感じます。

あとがきからも伝わりましたので最後にご紹介します。

※クリックすると大きくなります

こんな風に慕ってもらえる弟子たちがいるのってすごいですよね。

どんな方だったんでしょうね。

大暁の文章からはけっこう尖った人っぽい印象を受けたので興味があります。

沢田大暁の足跡一覧にもどる

『愛媛』(1964(昭和39)年9月、11月)

※クリックすると大きくなります
※クリックすると大きくなります

『愛媛』という冊子をご存知でしょうか。

私はこの調査を始めるまで全く知りませんでした。

愛媛県立図書館の詳細検索で調べても出てこないような

かなりレアな冊子のようです。

どちらかというと本というよりは新聞に近いような形状でした。

これはどうやって写真を撮ったのかというと、

愛媛県立図書館へ行ってカウンターで直接聞いてみたら、

ピンク色をした普通の紙のファイルに綴じられた

この『愛媛』を出してきてくださった、というわけです。

図書館の皆様、ありがとうございました。

.

さて、この『愛媛』ですが、

最初に寄稿の依頼がありましたのは、

1963(昭和38)年2月、星加宗一先生からでした。

しかしこの時は「本を書いているのでことわった」とあります。

ここでいう『本』とは、『書道』(1963(昭和38)年5月)のことです。

そして翌年8月に、

「『愛媛』への原稿碧梧桐の書と書論について第一回を仕上げる」

とあり、9月に掲載されたようです。

まさか表紙になっているとは思っていなかったので

今回初めて見てみてびっくりしました。

そしてこの後、11月にも続きが掲載されています。

※クリックすると大きくなります
※クリックすると大きくなります
※クリックすると大きくなります

この『愛媛』という冊子は、愛媛の文化について研究や調査をしたものを

色々な方が掲載しているようで、

どちらかというと論文に近いようなものが多いと思いました。

出典や注釈などがないのでちょっと違うかもしれませんが、

どちらかというと堅い内容のようです。

星加宗一先生とは、大学教授をした後愛媛に戻って

愛媛の高校の校長先生を歴任した方のようです。

元々が教授だったことから、こういった冊子を作成したのかもしれませんね。

愛媛の文化について調査・研究している人に

後世に愛媛の文化について書き残すものとして作っていたのかなと

そんな風に思いました。

.

沢田大暁の足跡一覧にもどる

伊予の書(1974(昭和49)年1月)

※クリックすると大きくなります

実物を見てびっくりしたんですが、

この本、かなり大きくて、そして立派です。

まさに『豪華』という感じでした。

この表紙の文字は村上三島先生による揮毫です。

そういえば大三島にある村上三島記念館にも

大暁の作品がありますよね。(急に思い出した)

いつか機会があれば是非観に行ってください。

.

さて、この本ができた経緯についてはあとがきにありましたので

あとがきを先にご紹介します↓

※クリックすると大きくなります

つまり、昭和51年に愛媛新聞社が創刊100周年にあたることから

それを記念して『伊予の書』が作られ、

その編集委員として大暁も名を連ねている、ということのようです。

こちらの中に大暁の文字作品があるわけではありませんので

中身のご紹介ができないのが残念ですが

碧梧桐の書などがあるのでその辺りに関わったのかなという感じがします。

また別途調査が進みましたら追記としてご紹介します。

.

『大暁の足跡』コーナーもどんどん充実してきました。

それに伴って追記も増えてきててんやわんやです。

ここらでちゃんと整理もしないとなと思っていますが

私自身の体力的にも『ぼちぼち』というスタンスで

息の長いものとして続けていきたいと思います。

お付き合いよろしくお願いいたします!

※2022/5/17追記

瀧井孝作先生の「伊予の書」に関する文章を見つけましたので

追記して掲載いたします。

※クリックすると大きくなります
(瀧井孝作全集第11巻P.431-432)

沢田大暁の足跡一覧にもどる

愛媛の書五十五人展(1977(昭和52)年9月)

※クリックすると大きくなります
※クリックすると大きくなります

1977(昭和52)年9月20日から25日まで、

松山三越三階特設会場で愛媛の書五十五人展が開かれ、

その時に作られたのがこの冊子です。

こういう書道展の冊子を全部ご紹介するのはさすがに無理があるのですが

こちらの冊子にはコメントが掲載されていたので

ちょっと特別にご紹介することにしました。

.

コメントを読むのって楽しくて好きなんですよね。

その時の気持ちとか、考えとかが垣間見える気がするんです。

あと、ちょっとした言い回しとかに性格が出ちゃうところも。

.

さて、この「愛媛の書五十五人展」の開展の際の事を

大暁は細かく書き残しています。

この日は朝から天気がとてもよく、

持田の家から三越まで歩いて出かけたそうです。

開会のあいさつでは愛媛新聞社社長が東京出張だったため

中村専務取締役が行い、県知事の代読を乗松愛媛県美術館長が行い、

そしてその後、満を持して(?)

書家を代表して大暁が挨拶をしたのだそうです。

それからその三人で開展のテープカットを行ったとか。

.

これだけ細かく書いているということは、

きっと忘れたくない嬉しい記憶だったのかなと思います。

書いてはいないけれどうっすら見える嬉しい気持ちが伝わります。

.

さて、この冊子の大暁のコメントがこちらです↓

※クリックすると大きくなります

—-コメントここから—-

 広い無限の空間の中に生きている証(あかし)として、また人生の表象として「心」の素材を選んだ。
 心には複雑な内容があり、働きがある。この心を素材としての表象はなかなかむつかしい。ただ私は、人生を深めようとする努力の道程標のつもりであった。
 日常生活の中に、また自然との対話の中に、感動の渦(うず)が拡がり、その執念の深まりを長く温存して来たものであった。もちろん素材は何であってもよかったが、「心」が最も良い素材となったに過ぎない。
 不器用な私の技術では、如何(いかん)ともしがたいものがあって、白と黒の親和や、力の調和がかもし出されているかどうかなどが疑問である。しかしそれは、時間解決してくれるだろう。

—-ここまで—-

確かに難しそうな素材を選んでますよね。

というか話がめちゃくちゃ壮大ですよね。

大げさで壮大なように思える

そういう作品作りができるって面白いだろうなと思いますし

きっとそういう気分で他の人の作品とも対峙していたんだろうなと思います。

素直に、そして純粋にその作品と対峙するって

実はかなり難しいことだと思うのですよ。

特に大人にはね。

.

この「心」は濃すぎず、薄すぎない墨色で、

だんだんと右上がりになるように書いているように思えます。

そして薄いにじみが広くあって、ところどころに濃い色があります。

拡がりのある配置に濃淡で深みを出しているところに

波のうねりのような印象を受けました。

濃い部分が渦の底で、うねりの中にいくつもの渦があるところに

人間の複雑性を思わせるようなそんな感じがします。

これは私の勝手な解釈ですが、皆さんの解釈はどうですか?

.

あ、最後に、

この展覧会は毎日千人以上の来場者があり、大成功に終わったそうです。

.

沢田大暁の足跡一覧にもどる

『太陽』10月号-No.52(1967(昭和42)年9月)

※クリックすると大きくなります

月刊『太陽』10月号です。

こちらは、先日小池邦夫先生からお電話を頂いた際に

おすすめしてくださった雑誌です。

※クリックすると大きくなります

この左ページにある「松山の三つの寺」という瀧井孝作先生の記事です。

私もこの随筆に大暁が掲載されていることは知っていたのですが

家の中にこの号が見当たらず、ちょうど古本を注文したところでした。

小池先生はお電話口にて

「二人の関係性が良く出ていて僕は本当にこれは良い記事だと思う」

とおっしゃっていたので、届くのを心待ちにしていました。

※クリックすると大きくなります

カラーが美しい誌面ですよね。

石手寺だと思いますが、今より両脇がすっきりしているような気がします。

※右から順に読んでください
※クリックすると大きくなります

このほかにもお寺のカラー写真が豊富にあり充実した誌面でしたが

今回はそちらは割愛しておきます。

文章だけでも松山に行きたくなる盛りだくさんな記事ですね。

.

この時のことは大暁も日記に書いていて、

照らし合わせてみても同じことが書いてありました。

瀧井先生は二人(大暁と妻)とのやりとりをそう長く書いているわけではないのに

二人のしぐさを具体的に書いておられるのでなんとなく空気感というか

距離感が伝わりますよね。

最初に「知己」と書いておられるところもなんだかほっこりします。

ちなみに大暁の日記の方は紙面の都合上行き先などメモしていた感じでしたが

「瀧井孝作先生来る!」と日記のタイトル文字をめっちゃ大きくしていたところに

期待感というか喜びを感じられる日記でした。

(多分、大暁本人をご存知の方なら「わかるー」ってなるやつです)

.

碧梧桐という自分と相手の共通に好きなもの(人)について

心ゆくまで語り合うことができるのは、

年齢に関わらず近しい間柄になれるのだと思いました。

一種の友情かもしれません。同志だったのかもしれません。

師弟関係というわけでもないですし、

ともかく特別な関係だったのかなと想像します。

.

ところで、この来松の際には愛媛新聞社において座談会が行われ

後日(昭和42年4月30日)の愛媛新聞に掲載されました。

そちらもまたご紹介しますね。

※2022/6/11追記

『習字』1967(昭和42)年6月号に来松の際の随筆がありました。

※クリックすると大きくなります
※クリックすると大きくなります

(1)とか書いてますがこの1回きりで終わりでした…

こういうのわりとあるんですよね。

最後まで書いて欲しかったー!

新聞に載ってた松山城の写真がありましたが、

この中ではまだ松山城まで行きついてないんですよね。

桜満開の松山城を背景にした写真は

一体誰に撮ってもらったんでしょうか?

通りすがりの人だったのでしょうか?

沢田大暁の足跡一覧にもどる

愛媛新聞『碧梧桐座談会』(1967(昭和42)年4月30日)

『新潮』(1972(昭和47)年新年特大号)

『続 愛媛の文学散歩』(愛媛新聞 1973(昭和48)年7月16日)

瀧井孝作『俳人仲間』(1973(昭和48)年10月)

.

「墨美」第300号創刊30周年記念「1980年の書」(1981(昭和56)年8月)

※クリックすると大きくなります

森田子龍先生の墨美300号記念「1980年の書」です。

この中の112、113ページに沢田大暁が掲載されています。

(左側の作品写真の右側の文字のところに

 思いきり住所と電話番号が掲載されていたので

 今のご時世では問題となる個人情報は消しました。)

※クリックすると大きくなります
※クリックすると大きくなります

この書(画像左側の作品)について、

大暁は「捨心」というタイトルで隣のページに随筆を寄稿しています。

(上の画像の随筆部分を文字に起こしました)

—以下引用—

 感情の律動的表現を如何に書の上に表現し得るか、と私は生活の中に一体化しようとしている。その為、日常の喜怒哀楽の感動が、深浅はあっても、書に結びついている。それで私は、純粋な人間への希求を祈っている。世間の人たちの一面がよく見えるからである。
 現代の書を見ると、技術的には高いものがあるが、あまり魅力を感じない。それは格調が乏しいからであろう。また一定の技巧・方法が癖になって、独創性や新味を欠くからであろう。
 私は自然を愛し、人を愛し、自己をつとめて愛そうとしている。昨日の自分でないものを、今日見出そうとしているためである。過去を捨てて、現代に生きようとしているのは、その底流は古典を自己の感情の律動性に植えて、そうして多数字を書き、前衛書も書き、今は少字数を書いている。その少字数も変化しつつある。その中間報告が今回の朗嘯である。

—ここまで—

大暁の随筆を読んでいると、

初見のはずなのに考え方が私とよく似ていると思うところがあります。

筆遣いのテクニックを見せる、

画面構成の面白さを追求する、

派手さを求めるなど、

そういったことはもちろん日頃の鍛錬の成果ではありますけれども、

まず最初に自分の感動があって、それを表現するための手段でなければ

ほかの人を感動させるような作品はできない、ということだと思います。

主と従が逆転している作品が増えてきていると

昭和56年時点で憂えている様子が見て取れます。

.

60代にしてまだまだ変化していこうというこの姿勢を

自分が60代になった時にも持てているかな、と

ちょっと心に留めておこうと思いました。

変化を恐れず変わる自分を楽しみたいものですね。

沢田大暁の足跡一覧にもどる

『書道』(1963(昭和38)年5月)

※クリックすると大きくなります

この本のことをご知の方はおられるでしょうか。(※最後に追記あり)

昭和38年発行の沢田大暁著『書道』です。

※クリックすると大きくなります

この本は競書雑誌『習字』創刊号からの記事を加筆・修正し

本として発行したものです。

ちなみに創刊号は「鑑賞の仕方」について書いてあったので

順番なども本にするにあたって変えているようです。

本としてまとめたのが昭和38年なので

およそ10年分の記事がまとまっているということになるでしょう。

.

そういうわけでこの度、競書雑誌『習字』では、

2022年6月号からこの本の記事を

分割して掲載していくことが決定いたしました!!

.

本人が書いた文章をそのまま掲載する予定ですので、

文章からなんとなく大暁の感じがする記事になると思います笑

言い回しとか、言葉のチョイスとか、

そういうちょっとした部分に人柄って出ますよね。

もしかしたらこの頃の習字誌をご存知の方は

『見た事あるかも』とか『読んだことあるかも』と

懐かしく思っていただけるのではと期待しています。

.

文字の成り立ちから順を追ってゆっくり進むので、

書を知らない方にも分かりやすい内容だと思います。

鑑賞の仕方についてけっこう独特の表現をしているので

そのあたりもまた大暁らしいなと個人的には気に入っています。

ぜひぜひお楽しみに☆

.

(※2022/5/5追記)

当時在校生だった方からご指摘がありました。

この本は松山東高校の書道の授業の副教材として

書道を選択していた方には全員配られていたそうです。

副教材にして良いかの許可は愛媛県教育委員会へ取りに行っていたのですが

その後の記述が無く、そのままになっていたのかと思っていました。

記録を読み返してみると、1963(昭和38)年6月に

松山商業高校へ18冊、松山南高校へ50冊納めているようですし

少なくとも三校では副教材として使用されたようです。

教えて下さりありがとうございました。

沢田大暁の足跡一覧にもどる