森田子龍先生の墨美300号記念「1980年の書」です。
この中の112、113ページに沢田大暁が掲載されています。
(左側の作品写真の右側の文字のところに
思いきり住所と電話番号が掲載されていたので
今のご時世では問題となる個人情報は消しました。)
この書(画像左側の作品)について、
大暁は「捨心」というタイトルで隣のページに随筆を寄稿しています。
(上の画像の随筆部分を文字に起こしました)
—以下引用—
感情の律動的表現を如何に書の上に表現し得るか、と私は生活の中に一体化しようとしている。その為、日常の喜怒哀楽の感動が、深浅はあっても、書に結びついている。それで私は、純粋な人間への希求を祈っている。世間の人たちの一面がよく見えるからである。
現代の書を見ると、技術的には高いものがあるが、あまり魅力を感じない。それは格調が乏しいからであろう。また一定の技巧・方法が癖になって、独創性や新味を欠くからであろう。
私は自然を愛し、人を愛し、自己をつとめて愛そうとしている。昨日の自分でないものを、今日見出そうとしているためである。過去を捨てて、現代に生きようとしているのは、その底流は古典を自己の感情の律動性に植えて、そうして多数字を書き、前衛書も書き、今は少字数を書いている。その少字数も変化しつつある。その中間報告が今回の朗嘯である。
—ここまで—
大暁の随筆を読んでいると、
初見のはずなのに考え方が私とよく似ていると思うところがあります。
筆遣いのテクニックを見せる、
画面構成の面白さを追求する、
派手さを求めるなど、
そういったことはもちろん日頃の鍛錬の成果ではありますけれども、
まず最初に自分の感動があって、それを表現するための手段でなければ
ほかの人を感動させるような作品はできない、ということだと思います。
主と従が逆転している作品が増えてきていると
昭和56年時点で憂えている様子が見て取れます。
.
60代にしてまだまだ変化していこうというこの姿勢を
自分が60代になった時にも持てているかな、と
ちょっと心に留めておこうと思いました。
変化を恐れず変わる自分を楽しみたいものですね。