松山東高校、松山北高校寄贈『山部宿祢赤人至伊予温泉』歌

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松山東高校蔵
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松山北高校蔵

沢田大暁は松山東高校に15年(昭和26-41年)、

松山北高校に10年(昭和41-50年)勤めました。

その両校に、同じ長歌が収蔵されております。

松山東高校では明教館横の資料室、松山北高校では80周年記念館階段にあります。

この歌について少しご紹介します。

※口語訳については松山市ホームページの物を使いました。

【原文】
皇神祖之 神乃御言<乃> 敷座 國之盡 湯者霜 左波尓雖在 嶋山之 宣國跡 極此<疑> 伊豫能高嶺乃 射狭庭乃 崗尓立而 歌思 辞思為師 三湯之上乃 樹村乎見者 臣木毛 生継尓家里 鳴鳥之 音毛不更 遐代尓 神左備将徃 行幸處

【訓読】
すめろきの 神の命(みこと)の 敷きませる 国のことごと 湯はしも さはにあれども 島山の 宣しき国と こごしかも 伊予の高嶺の 射狭庭の 岡に立たして 歌思ひ 辞(こと)思はしし み湯の上の 木群(こむら)を見れば 臣(おみ)の木も 生ひ継ぎにけり 鳴く鳥の 声も変らず 遠き代に 神さびゆかむ 幸(いでま)しところ

【口語訳】
歴代の天皇がお治めになってきた 日本の国のあちこちに温泉はたくさんあるけれども、その中でも伊予の温泉は、瀬戸内の島々のうるわしいところにあるというので、昔、聖徳太子が来られ、けわしい伊予の高嶺続きの伊佐庭の岡(現在の道後公園)にお立ちになって、歌をお作りになり、碑文の文章をお考えになったことがある。
その温泉付近の森や木立ちを見ると、かつて舒明天皇じょめいてんのうが行幸された時の話に伝えられるモミの木は、生い継いで今も茂っている。
また鵤いかるがや此米鳥しめが鳴いていて、昔に変わらない景色である。
このように、たびたび皇族が来られたこの温泉は、このまま遠い後の世までも神々しい土地がらとして栄えるであろう

.

「すめろき」で思い出しましたが

万葉集くらいの頃は、「天皇」と書いて

「おほきみ」とか「すめらみこと」と読みますよね。

大王(おほきみ)はどちらかというと政治的な印象で、

「すめらみこと」の方がちょっと神聖化している印象があります。

(↑個人の感想です)

「みこと」というのが宣言することを指すという説があり

世の中を統べて(すめる)物事を決定する(みこと)というのが

「すめらみこと」なのかなと私は考えています。(これは諸説あります)

同様に「のり」というのも「言う、宣言する」という意味なので、

「みことのり」とか「のりと」とかも

神道で出てくる宣言に関する言葉なのかなと思います。

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うっかり話が逸れました。

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そんなこんなで山部赤人の道後温泉について歌った長歌です。

「いさにわ(いざにわ)」の岡から温泉を見下ろして詠んだ歌です。

伊佐爾波神社の階段の上から下を見降ろすと、

確かにずーっと向こうの方まで見えますよね。

ちなみに、今の椿神社の「椿」の由来として

「津脇(つわき)」からきているという説があります。(伊豫豆比古命神社ホームページより)

津の脇、つまり、椿神社の辺りまで

昔は海だったかもしれないという説です。

そうしたら、高い建物の無いこの当時なら

伊佐爾波神社のところから海まで一望できていたんじゃないかな、と

なんだかすごくロマンを感じました。

.

永遠に栄えるであろうとここ伊予の地を称賛した長歌を

自分に縁のある、思い入れのある学校に寄贈することは

学校の繁栄を願ったステキな贈り物だなと思います。

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松山東高校内『明教館』にある『六曲屏風』(1952(昭和27)年)

松山北高校剣道部「妙機」(1966(昭和41)年10月)

松山北高校『閑吟』(1969(昭和44)年7月)

松山北高校生徒会誌『北斗』第15号(1969(昭和44)年)

松山北高校門標(1975(昭和50)年6月)

松山北高校グループ旗(1967(昭和42)年~1990(平成2)年)

松山北高校70周年記念誌『回顧と展望』(1970(昭和45)年)

【失われたシリーズ④】愛媛県立松山東高等学校門標

松山東高校生徒会誌『青柳』創刊号(1965(昭和40)年3月)

清水公民館第三区分館門札(1963(昭和38)年3月)

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松山市木屋町一丁目に今もある清水公民館第三区分館の

門札を沢田大暁が書いています。

この写真では見えにくいので少し近づいてみます。

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扉の左側にある二つの木の門札のうち、

左側のより読みにくい方がそれです。

さらに近づいてみます。

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この距離ですら微妙っていう感じですね。

来年で60年経つようなので、

それもそうかな、という気がします。

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ここまで近づいてやっとなんとか読めるかなというところですね。

よーく見ると、たしかに大暁の筆跡です。

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この清水公民館第三区分館は、

1963(昭和38)年3月26日に落成しているそうです。(※)

(※清水公民館へ問い合わせて教えて頂きました。ありがとうございました!)

大暁の記録によれば、

3月12日に豊田鉄工所の豊田さんという方が持田の家へ木の看板を持って来て、

この清水公民館第三区分館の文字を書いて欲しいと依頼したそうです。

そしてその翌日に看板を仕上げた、と書いてあります。

宝塔寺の扁額西条高校の門札もそうですが、

直接書いて雨ざらしになる木の看板や門札は

時間の経過とともに読みづらくなってしまうのが残念ですね。

ある意味『味が出る』のですけれど、

標識としての意味もある看板の場合には

その存在意義が薄れてしまうのが痛いです。

『読みやすくて』『センスが良くて』『美しくて』『オリジナリティがあって』

さらに『技術もあって』良い字なのに

読みづらいというただ一点だけで用をなさなくなってしまうのは

なんだかもったいないですよね。

今ならもうちょっと長持ちさせる技術はあると思うので、

現状のものをどうにかする方法もないものかなぁと思ってしまいます。

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松山北高校グループ旗(1967(昭和42)年~1990(平成2)年)

松山北高校には、「飛龍」「青雲」「銀河」「北斗」という

4つのグループがあります。

運動会やリレーカーニバルなどのイベントの時に

これら4つのグループに分かれて勝負を行います。

1990(平成2)年に劣化のため刷新され現在は違う旗に変わりましたが、

初代のグループ旗の文字を大暁が書いていました。

(元北高で教鞭を取られていたY先生にご協力いただきました。
 ありがとうございました!!)

.

愛媛県立松山北高校に4つのグループが誕生したのは1967(昭和42)年のことです。

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「北高100周年記念誌」より

逆にそれまでクラスごとでやっていたということが

まずすごいなと言わざるを得ませんよね。

昭和42年といえば、ちょうど団塊の世代最終年が高校生くらいの年代でしょうか。

(※参考:(団塊の世代とは)1947年−1949年に生まれた世代をいう(コトバンクより))

生徒の数は多かったはずですので

一クラスの人数も多くて可能だったのかもしれません。

ちなみにこの時代の大暁の記録には

「卒業生約600人分の卒業証書が完成した」とか書いてあるので

現在の倍近くの生徒がいたと思われます。

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さて、その大暁が書いたグループ旗なのですが、

見つけて頂けたのはこの北高70周年記念誌に残る写真でした。

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「北高70周年記念誌」より

大暁本人の記録では

   1967(昭和42)年9月11日(月)

   運動会に使用するグループ旗(画仙紙全紙四枚の大きさ)

   の文字を書く。四枚。

   大字であるため気合をかけながら書いた。面白い。

とあります。

確かにこの写真で見ても旗はかなり大きいように思います。

原寸大で書いていたとは、と拡大していたわけじゃない点に

感心してすごいなと思いましたが

よく考えたらこの時代に拡大コピーなどというものが

現代みたいに簡単にできないことに思い至りました。

昔の看板や幟なども全部原寸大で書かれてあったということですよね。

見えていたのに気づいていませんでした。

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この旗を見ると、

確かにすべて気合が入ってそうな線質に見えますよね。

今の旗も書体がいろいろでかっこいいですけれど、

この初代の旗もベーシックでかっこいいと思います。

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松山東高校、松山北高校寄贈『山部宿祢赤人至伊予温泉』歌

松山北高校剣道部「妙機」(1966(昭和41)年10月)

松山北高校『閑吟』(1969(昭和44)年7月)

松山北高校生徒会誌『北斗』第15号(1969(昭和44)年)

松山北高校70周年記念誌『回顧と展望』(1970(昭和45)年)

松山北高校門標(1975(昭和50)年6月)

道後小学校正門(1969(昭和44)年1月)

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道後小学校は松山市石手にあります。

石手寺のすぐ近くなのですがちょっと入り組んでいるので

多分地元の方以外は見かけることはないかもしれません。

こちらの文字も沢田大暁が書いています。

正門の文字は多いので皆さんもだいぶ筆跡に慣れてきましたか?

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大暁は昭和10年3月に愛媛県師範学校本科を卒業して、

半年の軍事教練の後最初に赴任したのが湯築高等小学校(現在の道後小学校)でした。

愛媛県師範学校の助教授となるまでの八年間ここに勤めました。

ここで新任早々習字の担当に指名されたことが

大暁の人生の転機となりました。

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昭和44年1月、当時道後小学校で校長先生をしていた吉金先生から

勤め先の松山北高校に電話があり、

「道後小学校の教師であった貴君のことだから

 是非校門の文字を書いて欲しい」

と言われたそうです。

その後の自分の人生を決めたといっても過言ではない

思い出の学校の校門の文字を書くのは

「心に残るものがある」と書いています。

優しくて温かみのある文字ですよね。

丸いのに芯がある、技術的にも高い揮毫だと思います。

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道後小学校跡の石碑(1976(昭和51)年2月)

松山北高校『閑吟』(1969(昭和44)年7月)

※2013年 松山北高校にて
澤田大星会長、明佳副会長

松山北高校の応接室には『閑吟』という作品が飾られています。

この作品は1969(昭和44)年7月、

大暁が当時勤めていた松山北高校に寄贈したものです。

この『閑吟』という作品は、寄贈の前年(昭和43年)の毎日書道展において

準大賞を受賞した作品です。

毎日書道展準大賞受賞(『習字』1968(昭和43)年9月号)

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昭和44年の3月2日、NHKの教育テレビ(今のEテレ)の

『書道講座』という午後2時から放映していた番組内で

この作品は紹介されたことがあります。

この時、伊東参州先生、鈴木天城先生、白井竹舟先生が

格別に褒めてくださったと書いてありました。

映像を見てみたかったのですが、

この当時は一般家庭において録画という概念がまだなく、

また放送局でも法律で録画を渡すということができないため

私がこの映像をみることはできませんでした。残念。

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その後、『閑吟』という作品は表具をし直して北高校へ寄贈されました。

7月の校長会の時に会場で披露されたのことで

大暁はこのことをとても誇らしく思っていたようです。

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勤めていた松山東高校、松山北高校、愛光学園には

大暁は複数の作品を残しています。

今もあるものも、劣化などの理由により残念ながらもうないものもありますが、

勤めていた記録として受け入れてくださった学校の方々に感謝したいと思います。

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松山東高校、松山北高校寄贈『山部宿祢赤人至伊予温泉』歌

松山北高校剣道部「妙機」(1966(昭和41)年10月)

松山北高校生徒会誌『北斗』第15号(1969(昭和44)年)

松山北高校グループ旗(1967(昭和42)年~1990(平成2)年)

松山北高校70周年記念誌『回顧と展望』(1970(昭和45)年)

松山北高校門標(1975(昭和50)年6月)

【ちょっと小咄】『大暁道人』の落款

ベルギー国主催・右卿とその一門展(1969(昭和44)年9月)

1952年に手島右卿先生によって発足した独立書人団という公益財団法人があります。

澤田大暁略歴にもある通り、大暁もその団体に所属して活動をしていました。

昭和44年、独立書人団は「外務省第1回訪欧使節団」として訪欧し、

「ベルギー国主催・右卿とその一門展」という展覧会を開いた事がありました。

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愛媛新聞(昭和44年9月7日)

この展覧会は、外務省主催展としてベルギーを皮切りに

欧州各国を2年かけて巡回するという展覧会でした。

この愛媛新聞によると、当時愛大におられた浅海先生は

9月10日から二か月間渡欧したようですよね。

めっちゃ良いですよねえぇぇ(完全に個人的な意見です)。

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そしてこの時、大暁は「焼」という字を発表したと

記録に残しています。

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「澤田大暁作品集」より

「習字」誌を購読の皆様には

大暁の一字書は表紙でおなじみですよね。

この「焼」は爆発や火柱が上がるような雰囲気で書いてあります。

墨色は濃い部分と薄い部分とが混在し、

また潤っている部分とかすれとも混在させています。

この技法によって爆発の激しさと熱い空気感を

観るものに想起させる作品になっていると思います。

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私の個人的な印象では大暁はアジアに行くことが多かったように思います。

昭和30年代にはすでに大阪や京都、東海地方、東京へ年に何度も足を運んでいますし、

瀬戸大橋すら無かった時代によくこんなにフットワークが軽いものだと

本当に感心します。

1970(昭和45)年には「書道代表フランス親善使節団」として自ら渡欧もしています。

これについてはまた機会があればご紹介しますね。

それ以外でも、中国やインド等アジアへはよく行っていた気がします。

それで今も我が家には曼荼羅とか、なんかのお面とかが鎮座しています。

旅が好きなのは、大暁も、大星も、私も同じなようです。

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※2022/5/1追記

大星・明佳先生に聞いたところ、

この作品は金粉を練りこんだ墨で書かれているのだそうです。

そのため、この作品が作られたばかりの頃は

作品の左上の濃い墨の飛び散っている部分などは金粉が散って、

あたかも火の粉のようだったということです。

それはすごい!

新たな発見です。

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厳島神社(怒和島)の幟(1984(昭和59)年)

松山市の沖合に「怒和島(ぬわじま)」という島があります。

この怒和島には神社が三社あります。

氏神神社 宮の浦 若宮八幡神社

崇敬神社 元怒和 厳島神社

     上怒和 天満神社

以上の三社です。(神社名をクリックすると愛媛県神社庁のページに飛びます)

厳島神社の例祭で出す幟の字を沢田大暁が書いています。

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厳島神社では10月の体育の日の前の日曜日に例祭が行われており、

その時にこの幟が立つそうです。

そのことはこちらの資料で知りました↓

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これは、現会長の澤田大星が怒和島に指導に行っていた時に

当時宮司の三好さんから頂いたものです。

手作りの冊子なのですが、

怒和島全般に関する歴史が細かく書かれていて、

今回この記事を書くにあたり本当に助かりました。

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↑こちらの右ページに書いてくださっています。

このほかにも、怒和島についてや島に伝わる昔話、

凱旋松の話、島の歴史など本当にいろいろなことについて

丁寧に調べて書いてあります。

この冊子はいずれすごく貴重な資料になるのではないかと思っていますし、

その一端に大暁の名前が出てくることが誇らしいです。

※2022/5/7追記

1984(昭和59)年の『習字』誌の表紙や、

この幟についての俳句を見つけたので掲載しておきます。

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『習字』1984(昭和59)年12月号
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『習字』1984(昭和59)年12月号

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愛媛県警表彰(1963(昭和38)年7月)

沢田大暁が長い間愛媛県警の筆跡鑑定をしていたことはご存知でしょうか。

1963(昭和38)年7月1日、13年間鑑識課の筆跡鑑定に協力した功労に対して、

愛媛県警察本部から感謝状が贈られました。

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愛媛新聞(1963(昭和38)年7月2日)

この時は警察本部長から表彰され、

テレビやラジオの地方ニュースでもとりあげられたそうです。

ところでこの新聞記事は図書館のマイクロフィルムから取ってきたものですが、

一行目一番左の段落から大暁のことが掲載されているのに

肝心の部分が白くなってしまってよく読めません。残念です。

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ちなみにこれで鑑識課との仕事が終わったというわけではなく

その後も筆跡鑑定の仕事は続けていたようです。

ただ、極秘情報が多くあまりおおっぴらに人に言えないため

コツコツと鑑定をしていたようです。

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愛媛新聞に掲載されたさらにその翌日、

朝日新聞の地方版にて写真付きで大きく取り上げられています。

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朝日新聞(1963(昭和38)年7月3日)

こういう筆跡鑑定というのは今はそこまでないかもしれませんが

人の文字をじっくり見てその特徴を捉える、クセを見抜く、という点は

臨書に通じるところがあるなと思います。

こういうことがあるからか、持田の家には本物かどうか見て欲しい、という

骨董好きの方がときどき訪れていました。

そういう時、大暁は一つ一つについて

これは本人、これは偽物、と鑑定していたようです。

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また、この筆跡鑑定はなかなかにストレスも溜まるらしく、

何件かたまると落ち着かない、と書いています。

早くやらないと事件の解決が遠のくような感じがするようです。

そりゃそうだよね、と共感します。

責任が重い仕事ですし、

筆跡鑑定の根拠について裁判所で証人として話すこともあったようですから

被告人の人生を左右することになるかもしれないという

恐怖のような気持もあったのだと思います。

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松山市立桑原小学校(1970(昭和45)年7月)

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松山市桑原にある松山市立桑原小学校です。

門がピンクでかわいらしいですね。

校訓がこんなに大きいのも、二宮金次郎像もなかなか珍しい気がします。

そして、この門の文字も沢田大暁が書いています。

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頑張ってきれいに撮ろうと思っていたのですが、

残念ながら反射してしまってこの程度しか写りませんでした。

見えづらくてすみません。

偏にカメラマンの腕の問題です。

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桑原地区は、

沢田の本籍が正円寺にあるというのも繋がりとしてあるかなと思っています。

ただ大暁の父は警察官であり、転勤も多かったと話していましたので

小さい頃に住んだとかそういうことではないと思います。

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そしてここまで見てきて皆様もお思いだと思います。

学校にまつわるものがとにかく多いです。

あとまだ写真を撮りに行けてない校旗とか、額とかもあります。

写真を撮るだけでも結構大変なので、

ぼちぼちご紹介していきたいと思っております。

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『昭和三十一年書初會並びに書道講習會』 習字 (1955(昭和30)年12月号)

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競書雑誌『習字』昭和30年12月号です。

この年、『昭和三十一年書初會並びに書道講習會』が初めて開催されました。

その案内が下の画像のページにあります。

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御幸中学校というのは、昭和58年まであった中学校で、

今の松山市立東中学校です。

昭和58年に御幸中学と城東中学が合併して東中学校になりました。

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ところで蛇足ですが、城東中学といえば

今の二之丸庭園のところにあった学校ですよね。

跡地として今も石碑があったように思います。

で、実は1967(昭和42)年、沢田大暁は城東中学へ

『立志』という作品を寄贈しているのです。

今はどうなっているんでしょうね。

ダメ元で東中学校に聞くかどうか迷うところです。うーむ。

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さて、この書き初め会ですが、

形を少しづつ変えて、長く続くことになります。

この初回は午前が講習会、午後が書き初め会ですね。

そのうち午前に書き初め会、午後に審査と表彰、という

一日で完結するコンクールへと変わっていきます。

開催地も、小松小学校に固定となりました。

東予、中予の方は参加された方もおられるでしょう。

一日で審査結果が発表されるなんてすごいスピードですよね。

でも、書いたその日に自分の評価が聞けるなんて、

参加している子どもたちにとっては嬉しいことだったのではないかな、と思います。

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