このコンテンツはアクセスが制限されています。閲覧するには以下にパスワードを入力してください。
【会員限定】条幅指南2022年9月号
愛媛県高等学校教育研究会研究集録第8巻(1970(昭和45)年)

またしても、「こんな雑誌あったのね」というやつです。
これは、書いたことだけ日記にあって、どこに載せたのかわからなかったのですが
図書館で探していてたまたま見つけました。
図書館も宝探し状態です笑
図書館のバーコードを消すために左下が怪しい感じになってしまいました。
※クリックすると大きくなります(左から順番に見てください)
実をいうと大暁の調査をし始めてから初めて
河東碧梧桐がヨーロッパに行っていたことを知りました。
冒頭に、瀧井先生から「欧州紀行」という本をお借りしたと書いてあったので
「欧州紀行」という本を探してみたのですが見つけられませんでした。
今度、碧梧桐全集を紐解いてみたいと思っています。
三千里もまだ読めていないのでそっちが先かもしれません。
今、完全に「積ん読」状態です。
やりたいこととできる時間の差がありすぎる!
いでよ時間!!
.
そんなわけで、家にはミケランジェロなど西洋美術に関する本や図録があるのですが
なるほどこういうときに使っていたのだと納得した次第です。
.
芸術全般はどこかしらつながる部分があって、
書道と西洋美術は一見全然似ていないように見えて
通じるものがあるのだなと思います。
何かを見て「美しいな」「すてきだな」と思う心に
国境はないのだと思いました。
五禾書房『書道』より中島司有「沢田大暁書作展に思う」(「習字」1976(昭和51)年9月号)

『習字』誌、昭和51年9月号です。
この中の記事で中島司有先生の文章を見つけ、
五禾書房の『書道』の該当雑誌を探したのですが、
自宅でみつけた10冊ほどの中には見つけられませんでした。
現在は発行されておらずネット上で古本屋を巡っても見つからないので
こちらの記事だけ先に掲載することにしました。

中島司有先生の個展の際にも大暁が作品集にコメントを寄せるなど
交流があったようです。
日記の中にも、
社中を超えて小生にコメントを頼むなどしてくれるのは中島氏くらいで
こういう器の大きさが素晴らしく、
書を通じた大きな付き合いができるところに心が暖まる
というようなことを書いていました。
.
中島先生もこのような文章を送って下さっていて、
二人の間には似た志があったのかもしれないなと感じます。
※2022/11/22
ついに五禾書房の雑誌を見つけました。
中島司有「沢田大暁書作展に思う」(五禾書房『書道』第21巻7号(1975(昭和50)年7月))
↑こちらよりご覧ください
西古市集会所へ贈った漢詩(1974(昭和49)年12月)

東温市にある西古市集会所です。
この集会所の中に、大暁の半切作品が現在も飾られているという話を伺いまして、
さっそく撮影するべく行ってまいりました!

東温市の歴史民俗資料館の方、西古市集会所の方に大変お世話になりました。
ありがとうございました。
.
この作品は大暁が西古市の集会所を建て替える際に
東高時代の教え子であった元県議会議員の梅﨑雪男氏(現在は故人)から頼まれ、
西古市のために自作の漢詩を作って贈ったものです。
その後二度集会所は建て替えられたそうなのですが
現在の集会所にも変わらず掛けていただきありがたいです。
内容は、
「青山如旧友
心髄野水清
夕陽聞鳥語
欣会西古市 大暁」
と書いてあります。
私の適当な漢文の翻訳では、
「青い山々は古くからの友人のようだ。
野に湧く水の清いことが心の最も中心にある。
夕暮れ時に鳥の語るのを聞く。
西古市で会うことができて嬉しい。」
みたいな感じではないかと思うのですが間違っていたらすみません。
とにかく「自然が豊かで心も豊かになる西古市で会えて喜ばしい」
というような意味ではないかと思います。
.
伺った際に、梅﨑氏の奥様にもお会いすることができました。
玄関に大暁の作品を飾って下さっていてとても嬉しかったです。
ありがとうございました!
我が家の古い本② 『思想と文化』安倍能成 1924(大正13)年6月

我が家にある古い本シリーズ。
安倍能成さんといえば、
松山東高校正門入ってすぐ左側(正門から見て西側)に胸像がある、
元文部大臣の方ですよね。
戦後に仮名遣いを今と同じにした方ということで知られています。
.
さて、この本…

大正13年の本でした。
いやー、古い本だとは思っていましたが本当に古かったです。
ところで、見えるでしょうか。
著者のところにハンコが捺してあるのですよ。
え、これは本物なのでしょうか??そんなことある?
しかも、 『東京市』なところに時代を感じますね。
著者本人の住所を本に書くという感覚が
今は不思議な感じです。
.
中身は当然ですが、繁体字に旧仮名遣いです。

こんな感じの文章ですので多少は読みにくいですけれど、
慣れたら普通です。
普通じゃないといえば昭和18年~20年頃の本がいちばん違和感あるかもしれません。
書道の本なのに『序』のところでいかに愛国心に溢れているかをアピールする文章を見たことがあるんですが、
その本がどれだったのか分からなくなってしまったので
今またそれも探しているところです。
あー、整理したいです。
会員ログインページのIDとパスワードを変更しました☆
【会員限定】条幅指南2022年8月号
『教育広報』第72号(昭和49年)

そもそも『教育広報』という雑誌の存在を私は知らなかったので
調査してみて初めてこのような雑誌があったのかと驚きました。
昭和50年に退職した大暁にとって、
昭和49年というのは教員生活最後という
しめくくりの年だという意識があったように思います。
この雑誌に、以下のような随筆を寄せています。

1970(昭和45)年、金子鴎亭先生を団長とする日本代表書家訪欧団に参加し、
ヨーロッパを観て回った大暁は帰国後西洋美術についても調べ始めました。
スライドを作ったり、本を読んだり、
今でも家には画集などがたくさんあります。(大きい、そして重いのが!)
そういった刺激もまだまだ残っているような文章ですよね。
随筆というのは、まあ多少かっこつけているところはあるにしても、
考え方が分かって面白いです。
作品 松山大空襲「父爆死」(『習字』1995(平成7)年11月号)
.
1945(昭和20)年7月26日の深夜、松山市で大規模な空襲がありました。
その際、私の曾祖父(大暁の父)は亡くなりました。
もうすぐ空襲の日がやってくるので、この作品を取り上げることにしました。
この空襲について、大暁は「おもかげ」の最終回で以下の様に語っています。
「松山が全滅するような大空襲の日、いつものように雄郡小学校で落ち合う約束で、家族それぞれ大事な物を身につけて家を出た。私は最後に見回ってから家を出、中の川を越して小学校まで走った。ところが、いつまで待っても、先に出たはずの父親が来ない。その日の空襲は、とてもひどかったので父の安否を皆でとても心配していた。
後で避難してきた近所の人が、「お父さんは、国鉄の線路よりずっとこっちの、林の方でやられていたようなよ。」と教えてくれた。長い夜が明けるのを待ちかねて、父親を探しに行った。あたりは、ひどい有り様だった。探して、探して、中の川橋の所で父が死んでいるのを見つけた。橋のあたりで爆撃され、そのまま走って逃げれば命を落とさずにすんだかもしれないが、父は当時足を悪くしていたので、逃げることをせず、そこの石の下に隠れようとしたらしい。それを思うと涙が出た。父は、しっかりとした厳格な人で、私にとってはこわいとも思われる存在だったが、体を悪くしていた最期が悲しい。その時の思いを、後に、詩に詠み、屏風作品とした。私の心を打ち込んだ、今でも目頭の熱くなる作品である。
その松山大空襲で、長く住んでいた江戸町の家は焼けてしまった。私達は家を失い、父親を失った。
―完―
沢田大暁短歌
父爆死(松山大空襲)
いづれにか父やおはすと燃えさかる紅蓮中にもとめ迷ふかも
爆弾(たま)うけしわか父の血ぞ赤々と布団の外ににじみいでたる
あはれあはれ息たえにけり父ねむる布団のうへに日はのぼりつゝ
うつつなく荼毘の煙のあと追へば松田ケ池の面にみたるる 」
布団の外まで血が滲んでくるような状況で、
それでも次の空襲があるかもしれなくてゆっくり悲しみに浸ることもできない、
そんな日常だったことがありありと迫ってきます。
私が読む日記には、命を大切にしてほしいという気持ちが何度も出てきます。
生徒が事故を起こした時、自殺した時、
そのたびに心を痛めている様子の記述を残しています。
こんなつらい思いをした人が日本中のすべての地域に
たくさんいたことを忘れてはいけないし、
世界に目を向けると、
今まさにこのようなつらい思いをしている方がたくさんいることを
他人事にしてはいけないと思います。






