西条高校蔵『緑葵昌』扁額(1965(昭和40)年3月) でご紹介した
『緑葵昌』の作品と、
松山北高校『閑吟』(1969(昭和44)年7月)でご紹介した
『閑吟』の作品には同じ落款が捺してあります。
白文の方が『澤田茂印』で、朱文が『大暁道人』ですね。
この落款については、沢田大暁作品集に掲載がありました。
日頃から好きで篆刻をたくさんしていた大暁ですので
てっきり自分で刻した落款かと思っていましたら
違っていて逆にビックリしたので備忘録として掲載しました。
生活の中に生きる 書
西条高校蔵『緑葵昌』扁額(1965(昭和40)年3月) でご紹介した
『緑葵昌』の作品と、
松山北高校『閑吟』(1969(昭和44)年7月)でご紹介した
『閑吟』の作品には同じ落款が捺してあります。
白文の方が『澤田茂印』で、朱文が『大暁道人』ですね。
この落款については、沢田大暁作品集に掲載がありました。
日頃から好きで篆刻をたくさんしていた大暁ですので
てっきり自分で刻した落款かと思っていましたら
違っていて逆にビックリしたので備忘録として掲載しました。
福良英雄先生は、澤田大暁の高等小学校時代の恩師です。
福良先生からこの本を手紙と共に贈られた、と
記録に残しています。
奥書を読むとこの本はなんと非売品のため、
愛媛県内の図書館の横断検索では県立図書館にしか蔵書がありませんでした。
読むことが出来て良かったです。
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…と思っていたら!
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家に帰ると本棚にひょっこりいるんですよね。
「えーさっきまでいなかったじゃん!」と
なんか脱力しました。(あるあるですよね)
でも中に福良先生からのお手紙が挟まっていたので
そんな脱力などさっとどこかへ消えていきました。やった!
この本の中に、大暁に宛てて作った福良先生の漢詩が掲載されています。
(下記ページ右側です。)
記録には、
「恐縮至極である。
書聖とは恐れ入ったが、先生らしい迫力(剣道達人)が伺える。」
と書いてありました。
.
元々大暁は二男で、長兄の忠雄は松山中学(現在の松山東高校)へ進学していたため、
本人は松山高等小学校を卒業したら丁稚奉公でもして就職するつもりだったそうです。
しかし、師範学校が全寮制でしかも生活費が支給されると知り、
二学期から猛勉強をして師範学校を受験することにしたと書いていました。
そしてその際、級友や先生にはたくさん質問をして本当にお世話になった、と
振り返って『習字』誌内の「おもかげ」の随筆に書いています。
(『習字』平成6年12月号「おもかげ 22」、平成7年1月号「おもかげ 23」より)
おそらく福良先生にもいろいろと質問をしたり、
勉強を教えてもらったりしていたのだと思います。
大暁の日記の中には、この本の時以外にも福良先生に関する話題が出てきますので
多分、かなりお世話になったか、励ましてもらったかしたのかなと
勝手な想像を働かせています。
逆に福良先生としても、まさかこんなに頑張って師範学校に受かり、
その後書道の道を志すとは、と
きっと嬉しかったのではないかなと思います。
頂いたお手紙は掲載しても良いものか分からなかったので概略だけお話すると、
知り合いとの雑談の中でたまたま書道の話になり、
その知り合いが「澤田大暁は素晴らしい!」と褒めたので嬉しくなって
今年もらった年賀状を出して自慢してやった、という話でした。
なんだかこちらまで嬉しくなりました。
大暁が松山北高校に転任した1966(昭和41)年6月、
さっそく文芸部から原稿依頼を受けて寄稿しています。
「瀧井孝作先生を訪ねて」という題で原稿をまとめたものが
この文芸誌の巻頭に掲載されています。
(左から順番に読んでください。)
この時、龍眠会特集の『墨美』159号(1966(昭和41)年6月)が
ちょうど出たところだったので、
その時の大暁の頭の中は龍眠会や碧梧桐や瀧井先生でいっぱいだったのだなと
文章を読んでいるだけで感じます。
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今は中村不折の書道博物館があったり、
”不折流”のデビューと言われる「龍眠帖」など龍眠という名前にも覚えがあったり
龍眠会や中村不折、河東碧梧桐について研究する方も多くありますが
やはりこの1966(昭和41)年の時点では
あまり研究する人がなかったように書かれてあります。
それだけにやりがいを感じていたのかもしれませんし、
応援してくれる瀧井先生にはすごく力をもらっていたのだと
この文章を読んで改めて思いました。
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この時の自分のことを書き残してくれていて
とてもありがたいと思います。
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松山北高校70周年記念誌『回顧と展望』(1970(昭和45)年)
河東碧梧桐特集の『墨美』164号(1966(昭和41)年12月)
松山北高校生徒会誌『北斗』第15号(1969(昭和44)年)
秋田忠俊先生とは、
『愛媛の文学散歩』『続 愛媛の文学散歩』に続き、
『伊予の文学地図』の題字も大暁が揮毫しています。
(画像一番下の段左端に名前があります)
『愛媛の文学散歩』は4巻までありますが、
この『伊予の文学地図』は書籍化されていないのか見つけられませんでした。
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この新聞がえらく黄色いのは、
大暁本人のスクラップブックにあったものをスキャンしたからです。
(これまでのは県立図書館のマイクロフィルムのコピーでした)
この記事はずっとスクラップブックに綴じていたので
この最終回以外にもいろいろあったのですが、
これには記事のタイトル一覧が載っていたので選びました。
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イラストは野村彰史先生が描かれています。
野村先生は私が高校の時に美術教諭としておられた先生です。
私は音楽選択だったこともあり
野村先生と接点はほとんどありませんでしたけど、
この名前は見覚えがあり、久しぶりに卒業アルバムを開きました。
後になって気づくご縁もあるものなのですね。
このところ、ご縁というものを実感することが多く、
『世間が狭い』のではなくて『ご縁がある』ということなのでは、
と思っています。
家にあったものなので、
澤田の蔵書印が捺してありますが気にしないでください。
実は中身も結構瀧井先生の言葉に赤えんぴつで線が引いてあります。
特に気に入ったところだったのかなと思います。
この対談は小池邦夫先生と小木太法先生とが企画してくださったものです。
この話が最初にあったのは、
1971(昭和46)年2月20日で、
小池先生が持田の家に来て大暁に企画を持ちかけて下さいました。
そして実現したのがその年の7月8日。
赤坂の山の茶屋というところだったそうです。
大暁の記録によれば、
「家の周囲は樹木が生い茂り、山へ来た感じがする。」
と書いてありました。
瀧井孝作先生とは1965(昭和40)年森田子龍先生の御紹介にて
お会いして以来のお付き合いで、
上京するたびにご挨拶に伺ったり、
碧梧桐の話や作品の写真をみせたりして
滝井先生には「息子の様に思う」と仰って頂いていたということです。
(この件は龍眠会特集の『墨美』159号(1966(昭和41)年6月)にも載せています)
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この冊子は全部で10ページ程の薄いものですが
中身はとても濃く、そしてなにより参加している三人が皆楽しそうなのが印象的です。
話は漢時代の石碑のことから始まり、
碧梧桐について、また顔真卿についてや副島蒼海、志賀直哉など
皆の思いつくままに多岐にわたります。
こういう話ができる仲間と自分の考えを話して議論することは
それ自体楽しいことですよね。大暁も
「心の通った相手だけに、話は自然に進む…
和やかな晩餐だった。瀧井先生と二時間程話し合った」
と書き残しており、楽しい会であったことが伺えます。
県展の15周年を記念して行われた『県展座談会』の様子です。
参加したのは、
小泉政孝氏、古茂田次男氏、石井南放氏、富野慎一氏と、沢田大暁です。
ここでは誰がどの部分について話したのかが全く載っていないので
大暁の考えがどれなのかというのははっきりとは分かりません。
ただ、三段目の六行目からの部分
『が、芸術の世界には本来アマもプロもない。
楽しんで描く姿勢こそ大事。賞を目的とせず、
たくさんの作品の中で自分の作品がどういった位置にあるのか―――
そうした意味で思い切り前衛的な作品を出品する作家が書道部門などには多い。』
というあたりの意見は、
なんとなく大暁っぽいような感じがします。(個人の意見です)
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あとこの時点で美術館が無いという事実に驚きました。
現在の美術館南館が出来る前は県民館で県展の展示をしていたんですね。
というか県民館を覚えている方がどれだけおられるか…
今の美術館新館があったあたりに昔建っていたなんか丸っこい建物です。
(すごくあいまいな記憶ですがなんか丸かった印象でした)
中には郷土美術館もありましたよね。
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愛媛県の県展は、愛媛新聞社主催の愛媛アンデパンダン展を
引き継いだのが始まり、とあります。
もともとアンデパンダン展(出品した人が全員無審査で展示される)
というものが先にあったのだと分かり、
芸術を自由に楽しんで欲しいという主催者の意図が伝わりますし、
そこから現在に至るまで脈々とアンデパンダン方式が引き継がれていることは
自由に自分の世界を表現するうえでとても大切なことだと思います。
「審査員の目を意識する」ということは
良い時もありますし、そちらにばかり気を取られて
自分の世界を蔑ろにしてしまう危険性も孕んでいる気がします。
単純に「観客の目を意識する」だけの自由な表現を楽しむ機会というものは、
芸術として内面を表現するうえで必要なことだと思いました。
時々上に〇をつけたように追記をしていることがあります。
後になって資料が見つかったり、
書いていたことに修正があったりする時に追記しています。
.
なるべく分かるように後ろに書いていたのですが
もしかして分かりにくかったかもしれないので
改めてここで追記について記事としてあげました。
こちらは愛媛県立川之江高校です。
商店街からわりと近いところに学校がありました。
じわっと近寄ってみます。
うーん、まだよく分かりませんね。
思いっきり近くによって撮影しました。
分かりますでしょうか、この文字が…!!
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石に浮き彫りで書かれてある正門でした。
よーく見ると、確かに大暁の文字です。
見えやすいとは言えませんが、
「愛」の右払いや「学」のはねの部分などは大暁の特徴が見えると思います。
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ところで筆文字の場合は特に、横書きで書くのが難しいです。
それはそもそも漢字もひらがなも縦書きだったため
縦書きに適応した形をしていることが原因です。
普通に書くだけでも難しいのに、
「良い感じに味を出しつつ」
「上品で」
「教育現場にふさわしい」
「筆文字」
を
「横書きで書く」
という至難の業!!
いやこれほんと想像しているより数倍難しいと思いますよ。
やったことないけど笑
自分の好きに書けばいいってわけじゃないのは
キツい面があるんじゃないかと思います。
商業書家のみなさんは大変なご苦労があることだろう、と
なぜかそんなところにまで思いを馳せてしまいました。
松山大学は、キャンパスの北側にグラウンドやテニスコート、体育館があります。
来年が100周年ということで、最近クラブハウスが移転してきて
とてもきれいに整備されています。
プールや体育館のある御幸キャンパスの入り口にある石碑を
大暁が書いています。
毎日松山大学の職員さんがこの芝生をお掃除してくださっているので
とてもきれいでした。
大暁の作品の中ではわりと最近のものです。
とはいえもう37年経ちます。(そう見えないくらい綺麗ですよね!)
松山大学の正門(1965(昭和40)年6月)のところでも書きましたが
大暁は『松山商科大学』という名称だった頃から
松山大学の正門の文字を書いてきました。
『松山商科大学』という名前がスタートしたのが1949(昭和24)年です。
この時、大暁はまだ愛媛大学で助教授をしていた時代ですので、
おそらくはそこで、同じく大学教授だった田中忠夫先生と
繋がったのではないかと私個人としては想像しています。
ただ実際どうだったのかについては調べる術がない状況です。
そもそも田中忠夫先生は1947(昭和22)年占領政策の教員適格条項に触れ
当時の松山経済専門学校(現:松山大学)校長を辞任しているので
正門の依頼をするような時期に松山大学と関わりあったのかどうか、
その辺も分かりません。
ただ、その後また松山商科大学教授として復活しているところを見ると、
やはり大暁が愛媛師範学校女子部(現:愛媛大学)の助教授をしていた頃に
どこかで知り合って、依頼したのではないかと思うのです。
.
それから、1950(昭和25)年に愛媛大学を退職した後も、
松山大学とも、田中忠夫先生とも長いお付き合いになったのですから、
人との出会いというのは不思議なものですよね。
競書雑誌『習字』を購読されている方にはお馴染みの
澤田大暁句集『汲淦』です。
私はながらく「きゅうきん」と呼んでいましたが
淦に「キン」という読みは無いみたいです。
(「コン」か「カン」ならあるようです)
この本のタイトルは『淦(あか)を汲(く)む』という訓読だったのでは、
と今は思っています。
(※2022/5/31追記
読み方について筒井先生から教えて頂きました!
「キュウカン」が正しいそうです!謎が解けて嬉しいです。)
わが身の勉強の足らなさぶりが恥ずかしいです。
この写真もお馴染みですよね。
記録によれば、この写真は佐伯先生が撮影して下さったようです。
撮り直ししたり、白黒の写真を指定したり
けっこうこだわって撮ったようです。
.
この本をお持ちの方はご存知でしょうが
本を開くと突然小池邦夫先生のお手紙が目に飛び込みます。
表と裏とにまたがって書かれてあります。
これは、そもそもは瀧井孝作先生に序文をお願いしていて、
ご自宅まで伺って依頼をしていたのですが、
先生の体調がお悪くて実現できなかったという経緯があります。
(瀧井先生は翌年1984(昭和59)年にお亡くなりになっています。)
びっくりする表紙の裏ですが、
逆に「なんだなんだ??」って読みたくなりますよね。
そして本文のすぐ前に、上の一文が書かれてあります。
私の祖母である輝子は
私が生まれるよりも前、というか
両親が結婚するよりも前に亡くなりました。
1978(昭和53)年のことです。
そのため私自身は会ったことがありません。
記録の中に出てくる祖母はとても働き者で、
家事だけでなく大暁の仕事も手伝ったり、
趣味のコーラスに勤しんだり、
友達と旅行に行ったり、
3人の子どもたちについて大暁と相談したり、心配したり、
大暁の視点から見た妻はいつも生き生きしています。
この句集にはそんな妻をはじめ、
家族のことも沢山書かれてあって、
なんだか日常を垣間見るような感じがします。
どこを例として載せようかな、と思った挙句
せっかくなので私が載っているところにしてみました。
.
最後に、小池先生が代筆して下さった瀧井先生の批評と、
大暁のあとがきが並んでいます。
瀧井先生の言葉が優しくて暖かくてなんだか泣けます。
あとがきからも分かるように、大暁は1962(昭和37)年から日記を書いています。
そのお陰で今、私がその日記を追うことができます。
何の因果か、私も一昨年から日記を書いていて、
書くこと、残すことの大切さを実感しています。
.
余談ですが、おまけとして奥付を。
発行日が、5月20日です。
5月20日といえば、大暁の誕生日です。
思い入れのある本だったということが、
こんなところにも隠されていますね。
※2022/6/7追記
澤田大暁作品集ではこんなページになっています。
新聞記事が一緒にあったためこちらも掲載しておきます。
これをみると…
「きゅう・・・・きん・・・???」
となりました。
前述の通り「淦」に「きん」という読み方は無く
「きゅうかん」が正解のようなので
何かの手違いだったのか、間違えて教えてしまったのか
いずれにしてもここに出てしまったので
みんな勘違いしちゃったのかもしれませんね。
私は…まだ幼児(むしろ乳児)なので文字は読めてないと思います。