五禾書房『書道』より中島司有「沢田大暁書作展に思う」(「習字」1976(昭和51)年9月号)

※クリックすると大きくなります

『習字』誌、昭和51年9月号です。

この中の記事で中島司有先生の文章を見つけ、

五禾書房の『書道』の該当雑誌を探したのですが、

自宅でみつけた10冊ほどの中には見つけられませんでした。

現在は発行されておらずネット上で古本屋を巡っても見つからないので

こちらの記事だけ先に掲載することにしました。

※クリックすると大きくなります

中島司有先生の個展の際にも大暁が作品集にコメントを寄せるなど

交流があったようです。

日記の中にも、

社中を超えて小生にコメントを頼むなどしてくれるのは中島氏くらいで

こういう器の大きさが素晴らしく、

書を通じた大きな付き合いができるところに心が暖まる

というようなことを書いていました。

.

中島先生もこのような文章を送って下さっていて、

二人の間には似た志があったのかもしれないなと感じます。

※2022/11/22

ついに五禾書房の雑誌を見つけました。

中島司有「沢田大暁書作展に思う」(五禾書房『書道』第21巻7号(1975(昭和50)年7月))

↑こちらよりご覧ください

競書雑誌「習字」まとめに戻る

沢田大暁の足跡一覧にもどる

中島司有「沢田大暁書作展に思う」(五禾書房『書道』第21巻7号(1975(昭和50)年7月))

『中島司有書作展』推薦文(1974(昭和49)年1月)

西古市集会所へ贈った漢詩(1974(昭和49)年12月)

東温市にある西古市集会所です。

この集会所の中に、大暁の半切作品が現在も飾られているという話を伺いまして、

さっそく撮影するべく行ってまいりました!

※クリックすると大きくなります

東温市の歴史民俗資料館の方、西古市集会所の方に大変お世話になりました。

ありがとうございました。

.

この作品は大暁が西古市の集会所を建て替える際に

東高時代の教え子であった元県議会議員の梅﨑雪男氏(現在は故人)から頼まれ、

西古市のために自作の漢詩を作って贈ったものです。

その後二度集会所は建て替えられたそうなのですが

現在の集会所にも変わらず掛けていただきありがたいです。

内容は、

「青山如旧友

 心髄野水清

 夕陽聞鳥語

 欣会西古市 大暁」

と書いてあります。

私の適当な漢文の翻訳では、

「青い山々は古くからの友人のようだ。
 野に湧く水の清いことが心の最も中心にある。
 夕暮れ時に鳥の語るのを聞く。
 西古市で会うことができて嬉しい。」

みたいな感じではないかと思うのですが間違っていたらすみません。

とにかく「自然が豊かで心も豊かになる西古市で会えて喜ばしい」

というような意味ではないかと思います。

.

伺った際に、梅﨑氏の奥様にもお会いすることができました。

玄関に大暁の作品を飾って下さっていてとても嬉しかったです。

ありがとうございました!

沢田大暁の足跡一覧にもどる

『森市太郎翁頌徳碑』(五柱神社)(1963(昭和38)年4月)

我が家の古い本② 『思想と文化』安倍能成 1924(大正13)年6月

※クリックすると大きくなります

我が家にある古い本シリーズ。

安倍能成さんといえば、

松山東高校正門入ってすぐ左側(正門から見て西側)に胸像がある、

元文部大臣の方ですよね。

戦後に仮名遣いを今と同じにした方ということで知られています。

.

さて、この本…

※クリックすると大きくなります

大正13年の本でした。

いやー、古い本だとは思っていましたが本当に古かったです。

ところで、見えるでしょうか。

著者のところにハンコが捺してあるのですよ。

え、これは本物なのでしょうか??そんなことある?

しかも、 『東京市』なところに時代を感じますね。

著者本人の住所を本に書くという感覚が

今は不思議な感じです。

.

中身は当然ですが、繁体字に旧仮名遣いです。

※クリックすると大きくなります

こんな感じの文章ですので多少は読みにくいですけれど、

慣れたら普通です。

普通じゃないといえば昭和18年~20年頃の本がいちばん違和感あるかもしれません。

書道の本なのに『序』のところでいかに愛国心に溢れているかをアピールする文章を見たことがあるんですが、

その本がどれだったのか分からなくなってしまったので

今またそれも探しているところです。

あー、整理したいです。

会員ログインページのIDとパスワードを変更しました☆

夏休みが始まり、まさに夏まっさかりといった感じですね。

お手元に8月号が届いていますでしょうか?

今月もコメントの続きを掲載しております。

3か月続いた70周年記念コメントも

いよいよ今月が最後となりました。

ぜひご一読くださいね。

さて、会員ログインページのIDとパスワードを

8月号のものに変更しました!

ログインはこちらから↓

『教育広報』第72号(昭和49年)

※クリックすると大きくなります

そもそも『教育広報』という雑誌の存在を私は知らなかったので

調査してみて初めてこのような雑誌があったのかと驚きました。

昭和50年に退職した大暁にとって、

昭和49年というのは教員生活最後という

しめくくりの年だという意識があったように思います。

この雑誌に、以下のような随筆を寄せています。

※クリックすると大きくなります

1970(昭和45)年、金子鴎亭先生を団長とする日本代表書家訪欧団に参加し、

ヨーロッパを観て回った大暁は帰国後西洋美術についても調べ始めました。

スライドを作ったり、本を読んだり、

今でも家には画集などがたくさんあります。(大きい、そして重いのが!)

そういった刺激もまだまだ残っているような文章ですよね。

随筆というのは、まあ多少かっこつけているところはあるにしても、

考え方が分かって面白いです。

沢田大暁の足跡一覧にもどる

作品 松山大空襲「父爆死」(『習字』1995(平成7)年11月号)

※クリックすると大きくなります

.

1945(昭和20)年7月26日の深夜、松山市で大規模な空襲がありました。
その際、私の曾祖父(大暁の父)は亡くなりました。

もうすぐ空襲の日がやってくるので、この作品を取り上げることにしました。

この空襲について、大暁は「おもかげ」の最終回で以下の様に語っています。

「松山が全滅するような大空襲の日、いつものように雄郡小学校で落ち合う約束で、家族それぞれ大事な物を身につけて家を出た。私は最後に見回ってから家を出、中の川を越して小学校まで走った。ところが、いつまで待っても、先に出たはずの父親が来ない。その日の空襲は、とてもひどかったので父の安否を皆でとても心配していた。

後で避難してきた近所の人が、「お父さんは、国鉄の線路よりずっとこっちの、林の方でやられていたようなよ。」と教えてくれた。長い夜が明けるのを待ちかねて、父親を探しに行った。あたりは、ひどい有り様だった。探して、探して、中の川橋の所で父が死んでいるのを見つけた。橋のあたりで爆撃され、そのまま走って逃げれば命を落とさずにすんだかもしれないが、父は当時足を悪くしていたので、逃げることをせず、そこの石の下に隠れようとしたらしい。それを思うと涙が出た。父は、しっかりとした厳格な人で、私にとってはこわいとも思われる存在だったが、体を悪くしていた最期が悲しい。その時の思いを、後に、詩に詠み、屏風作品とした。私の心を打ち込んだ、今でも目頭の熱くなる作品である。

その松山大空襲で、長く住んでいた江戸町の家は焼けてしまった。私達は家を失い、父親を失った。

―完―

沢田大暁短歌

父爆死(松山大空襲)

いづれにか父やおはすと燃えさかる紅蓮中にもとめ迷ふかも

爆弾(たま)うけしわか父の血ぞ赤々と布団の外ににじみいでたる

あはれあはれ息たえにけり父ねむる布団のうへに日はのぼりつゝ

うつつなく荼毘の煙のあと追へば松田ケ池の面にみたるる 」

布団の外まで血が滲んでくるような状況で、
それでも次の空襲があるかもしれなくてゆっくり悲しみに浸ることもできない、
そんな日常だったことがありありと迫ってきます。

私が読む日記には、命を大切にしてほしいという気持ちが何度も出てきます。

生徒が事故を起こした時、自殺した時、
そのたびに心を痛めている様子の記述を残しています。

こんなつらい思いをした人が日本中のすべての地域に
たくさんいたことを忘れてはいけないし、
世界に目を向けると、
今まさにこのようなつらい思いをしている方がたくさんいることを
他人事にしてはいけないと思います。

競書雑誌「習字」まとめに戻る

沢田大暁の足跡一覧にもどる

 

愛習研オリジナルキャラクター「筆まめ小僧」オリジナルグッズの販売を始めました☆

.
え、フツーにかわいくないですか??
っていう感じのオリジナルグッズを販売開始いたしました!
.
.
↓↓ついでに、LINEスタンプもよろしくお願いいたします☆↓↓
愛媛県習字教育研究会のLINE スタンプ・絵文字一覧 | LINE STORE https://store.line.me/stickershop/author/2725951

独学で臨書を初めてする方へ

※クリックするとAmazonのサイトに飛びます

「習字」誌では毎月高校部、一般半紙部の方向けに

臨書のお手本を掲載しています。

そこには誰の何という法帖を書いているのかも載せています。

しかしながら、昨日締め切りの昇段昇級試験で

指定した法帖の臨書を提出するにあたり

「これは一冊ずつ本を買うのでしょうか?」

「どこに売っていますか?」

などのご質問をいただきましたので

今日は独学で勉強している方向けに一冊ご紹介します。

(回し者ではありませんよ念のため)

.

臨書、というのは昔の能書(上手な書)を真似て書くことです。

臨書をする時、過去の上手な書をお手本にするのですが

それにはいろいろな種類があり、それぞれにストーリーがあります。

みんな違って、みんな良いです。

自分が書きやすいと思うものも、

書きにくいと思うものもあるでしょう。

どちらを選んでも良いのです。

「習字」誌に掲載している「参考手本」を見て

練習して下さってももちろん構いませんし、

その場合はもし必要であれば原寸大手本(コピー)を

有料(330円)でお付けすることもできます。

ただ、自由にいろいろな法帖を見てみたいと思った場合

何がどうなのか、初めは分かりませんよね。

.

そんな時、当会では上にあるピンクの本をおすすめしています。

こちらからAmazonで購入することもできますし

電話かメールかLINEでご連絡下されば当会から郵送することもできます。

(郵送料は別途実費かかります。)

いろいろな種類の法帖が一度に見られることと、

その最初に簡単な説明があることが特徴です。

もう少し慣れてきたら詳しい説明が掲載されているものや

全臨できるように全部掲載された1冊ずつの本が良いかもしれませんが

最初は有名な法帖が一度にざっと見られて

少しずついろいろ練習できる本がおすすめかなと思っています。

.

法帖にはそれぞれストーリーがありますので

慣れて来てもし歴史が好きな方でしたらそういう切り口から選んでも

面白いかなと思います。

臨書って言われるがままに書いてしまって

自分が今何を書いているのか分からなかったり、

種類がたくさんありすぎてハードルが高いように感じてしまったりするのですが

実際のところは背景が面白かったり

歴史を感じられたりするワクワクするものなので、

その最初のきっかけとして使ってもらえると良いなと思います。

また、何か質問などあればいつでも聞いて下さればと思っています。

愛媛県立松山北高校中島分校正門(1973(昭和43)年3月)

※クリックすると大きくなります

松山北高校は松山市にある中島という島に分校があります。

(松山北高校中島分校のHPはこちら)

今は松山市ですが、『温泉郡中島町』という呼び名の方が

馴染みがあるという方もいるかもしれません。

.

記録によればこの中島分校が建て変わるタイミングで、

正門の文字を書くことになったそうです。

3月20日の記録には

『中島分校の新校舎が出来、立派な門が出来ることになっている。その門に銅鋳ではめこむ書を作る。今日仕上げる。』

とあります。

中島分校は1948(昭和23)年の創立のようなので、

創立25年の時のようですね。

少子化により分校が閉校になることも多い中、

今も残ってくれているのが嬉しいです。

沢田大暁の足跡一覧にもどる

松山東高校、松山北高校寄贈『山部宿祢赤人至伊予温泉』歌

松山北高校剣道部「妙機」(1966(昭和41)年10月)

松山北高校グループ旗(1967(昭和42)年~1990(平成2)年)

松山北高校『閑吟』(1969(昭和44)年7月)

松山北高校生徒会誌『北斗』第15号(1969(昭和44)年)

松山北高校70周年記念誌『回顧と展望』(1970(昭和45)年)

松山北高校弓道場『正射必中』額(1974(昭和49)年2月)

松山北高校門標(1975(昭和50)年6月)