今治明徳短期大学正門(1979(昭和54)年)

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愛媛県今治市に今治明徳短期大学があります。

この題字揮毫も澤田大暁作品集で知りました。

そうは言っても作品集に掲載されているのは一部なので

何もかもが記録として残っているわけではないのが

今調べていて難しいと感じているところです。

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こちらが現在の今治明徳短期大学の様子です。

作品集の白黒写真で見るよりずっと明るくてきれいですね!

詳細についてはまだ調査中のため、

この作品については分かり次第また追記します。

※2022/5/7

1978(昭和53)年12月20日に、

当時の学長であった宮本七郎氏が訪れて、

この門札の依頼をしたようです。

宮本先生の奥様が大暁の妻の友人で親友だったご縁だそうです。

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西条高校表大看板(1966(昭和41)年10月)

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愛媛県立西条高等学校といえば、

この一見お城かと見紛うほどの立派な正門ですよね。

そもそもお堀の中に学校があるというのが珍しいです。

ここと松山東雲女子中学・高等学校の正門は本当に良いと思います。

(↑個人の感想です)

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昭和41年10月21日(金)の記録に、

「西条高校の表大看板を書く。

 快心の作とはいかなくともかなりなものが仕上った。」

とありました。

どうやらお気に入りの作のようです。

おそらく

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↑この看板だと思います。

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もうすぐ60年経つのでだいぶ薄くなっていますが

これはこれで門の風合いと合っていて趣きがありますよね。

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実は私、たまたま数年前にこの門を観に行ったんですけど、

その時は大暁が書いたことを知らなかったのでスルーしちゃったんですよね。

知っていればもっとよく見ていたし周りにも宣伝しただろうに…と

今更思います。

後悔先に立たず。

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※2022/5/11追記

西条高校に収蔵してある大暁作品を観に行った時に

近くで写真を撮りました。

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近くって本当に接写です笑

「校」という文字のところです。

よく見ると、書いた文字の部分だけ少し盛り上がって見えますよね。

盛り上がるような物(墨に何か混ぜるとか?)とも想像しましたが、

大星先生や明佳先生にも見てもらって意見を聞きました結果、

これは板に直接墨で書いていて、

墨で書いた部分と書いていない部分とで木の瘦せ方が違ったのではないか

ということになりました。

だからこれは盛り上がっているのではなくて、

周りの木が痩せたのでそう見えるだけかもということでした。

なるほど。

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西条高校蔵『緑葵昌』扁額(1965(昭和40)年3月) 

愛光学園正門(1972(昭和47)年)

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『澤田大暁作品集』(p.137 昭和60年 正能商会)でこの写真を見つけたので、

写真を撮りに行ってきました。

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ら、

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正門付近は現在工事中でした。

(画面中央付近にある黒っぽい横長の長方形部分が揮毫した石です)

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新校舎ができるにあたり、旧校舎を取り壊しているようです。

OBに聞いたところ、グラウンドだったところが校舎になって

校舎だったところがグラウンドになる感じだと思う、とのことです。

なるほど…でもなんだか解体されている姿ってちょっと切ないですね。

そして図書館を心配されている皆様、

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図書館は健在でした。

校舎と繋がっていた気がするので一体向こう側がどうなっているのか分かりませんが

解体工事が終わったころに別の石碑を撮影しに行く予定があるので

(↑事務の方に許可を得ました)

その時見たいと思います。乞うご期待。

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題字部分も健在でした。

今後も正門が正門のままなのかどうか分かりませんけれど

少なくとも今ここにあるうちに撮影できて良かったです。

参考までに、ありし日の正門の様子も掲載しておきますね。

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個人的にはこういう正門って唯一無二の書体で書かれてあると

自分たちだけのもの感が出て良いんじゃないかと思っているので

この揮毫した文字はどうにか残ってほしいなあと思っています。

※2022/5/20追記

1972(昭和47)年9月19日の朝、

田中忠夫先生が大暁に「愛光学園」の文字と「定礎」の文字を

頼みに来た、と記録がありました。

最初、大暁は田中先生が書くのが一番良い、と

手本を書いて渡したそうなのですが、

結局後世に残った場合字そのものの善し悪しが問題になるから、と

大暁が書くことになった、とありました。

その後、11月3日、田中校長が県文化功労章を受けてから愛光学園に戻ってきて、

愛光学園同窓会二十周年記念が行われ、その時に出来上がった門標を見た、

と書いてありました。

その会の時に、大暁は壇上で田中先生へ差し上げる六曲屏風を

その場で揮毫しました。内容は以下の通りです。

「賦謹呈田中忠夫先生  沢田大暁
 碩学鶴身絶俗塵 其仁如水智彬々
 孳々鞠育二十戴 煌々愛光鳳暦新」

という自作の漢詩を書いたそうです。

2023/3/17追記

この2月末に工事が完了したというので正門の様子を見て来ました。

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大変残念なことに、もとの正門は跡形もなくなっておりました。

当然門標も違います。

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諸行無常ですね。

残念な気持ちはもちろんありますが、

逆に、前回のあのタイミングで門標を撮影することができていて

本当に良かったと思いました。

おかげで写真として残すことができました。

物はなくなったとしても、過去の繋がりが消えるわけではありませんものね。

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愛光学園生誕地の石碑(1978(昭和53)年3月)

愛光学園内『日野荘氏 顕彰碑』(昭和53年3月)

愛光学園二期生『にぎわい』リレーマラソン(1986(昭和61)年10月)、(『習字』1986(昭和61)年12月号)

『四季瀬戸の味 たにた』看板

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松山市二番町に『四季瀬戸の味 たにた(食べログにとびます)』はあります。

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魚料理がおいしいお店です。

このお店の文字が沢田大暁の作です。

昭和の頃からあるので、

今逆に新鮮で良い雰囲気だと思います。

懐かしい感じで素敵なお店です。

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というか、和食のお店ってやっぱり

筆文字看板が良いですよね。

タイポグラフィでも、手書き筆文字でも、

大衆的にも高級感も書くことができるので

文字だけでお店の雰囲気を伝えることができるところが

看板のすごいところだよなと思います。

これはお酒のラベルとかでもそうですよね。

見てるだけで面白いです。

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伊予市立北山崎小学校正門(1966(昭和41)年)

伊予市中村に、伊予市立北山崎小学校があります。

この北山崎小学校の正門の文字も沢田大暁が書いています。

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沢田大暁略歴にも書いてありますが、

大暁の教員生活の始まりは、道後小学校への赴任でした。

つまり、最初数年は小学校の教員をしていました。

その後愛媛師範学校(今の愛媛大学)の助教授になり、

終戦後、退職して松山東高校の教員になりました。

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多分こういう経歴も影響していると思うのですが、

習字誌でも、高校だけでなく小中学校の教員や大学教授と一緒になって

書教育をやっていこう、という姿勢が一貫して見えます。

基本の筆使いには特に厳しく、

基礎がなってないと思ったらバッサリ切り捨てるところもありました。

(まぁそのあたりは芸術家っぽいかもしれませんね)

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この北山崎小学校には親しくしていた教員仲間がおり、

毎年小松で行っていた書道コンクールには一緒に行くような間柄でした。

小松の書道コンクールについてはまた別で書きますけれども、

10年以上行っていたのできっと参加したことがある方もおられるでしょう。

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その北山崎小学校から依頼されて

昭和41年に学校の正門の文字を書いたようです。

記録には「看板」と書いてありました。

児童、生徒として通っていた時は正門って見ながら通っていなかったですけど、

毎日通う子供たちを出迎えて、見送っているんだなと思うと

なんだかすごく大切なものに思えてきますよね。

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松山東高校内『明教館』にある『六曲屏風』(1951(昭和26)年)

松山市ホームページより

愛媛県立松山東高校には『明教館』と呼ばれる

愛媛県指定文化財建造物があります。

ここは昔伊予松山藩の藩校として

1828年から1874年まで使用されてきた建造物で、

正岡子規や秋山兄弟がここで勉強したことで有名です。

(詳しくは松山市ホームページをご覧ください)

この建物は現在、東高校かるた部の練習場所として使用されています。

伺った日が雨の日で外観の写真が撮影できなかったので

松山市ホームページの写真を掲載しておきます。

その中に、沢田大暁の六曲屏風が置かれています。

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↑普段は閉じた状態でしまってあります。

ちょうどすぐ上に河東碧梧桐の扁額が飾ってありました。

この屏風は毎年文化祭の時に開いて飾るので、

観たことがある卒業生は多いと思います。

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開くとこんな感じです。

私が在学していた頃からずっとここに置いてくださっているので

たくさんの人の目に触れることができて

作品も喜んでいると思います。

もう何十年も生徒たちの目に触れるところで

活かしてもらっているのだと感じました。

また、屏風の配色が明教館の中の壁の色や天井の色や畳の色と

とてもよく合っていて、

明教館の雰囲気をより高尚なものにしている感じがしました。

今後もここで活躍してくれると期待しています。

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※2022/4/27追記→2022/5/1訂正

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「澤田大暁近作集」より

とても大きなミスをしていたことに気が付きました。

まさかの六曲屏風内容間違いをしておりました。

こちらが正解です。

昭和27年、日展初入選の作です。

そんな記念すべき作品を学校に寄贈していたとは思っていなかったので

驚いたとともに、そういうことを確かにやるかもしれない、とも思いました。

こちらは杜甫「哀王孫」という詩です。

安史の乱で没落した皇族を詠んだ詩だそうです。

私は安史の乱=玄宗皇帝=楊貴妃

みたいな短絡的な思考回路だったのですが、

この詩を読むとなんだかすごく哀愁を感じるというか

単純に正義と悪みたいなものは無くて

複雑で混沌としたものなのだなと思いました。

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松山東高校、松山北高校寄贈『山部宿祢赤人至伊予温泉』歌

【失われたシリーズ④】愛媛県立松山東高等学校門標

松山東高校生徒会誌『青柳』創刊号(1965(昭和40)年3月)

松山市青少年センター入り口(1971(昭和46)年)

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松山市青少年センター

松山市築山町という松山東高校や松山商業高校の近くにある施設です。

自習はできるしスポーツもできるし学校からも近いので

私自身も高校生の頃にはよくお世話になりました。

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この青少年センターの入口には、

(写真には写っていませんが)右手に白い看板があるので

そちらの印象が強いかもしれませんが、

この写真にあるように入口には石の名前が彫ってあります。

そして、この青少年センターと書いてある文字を

沢田大暁が書いています。

このセンターができる時に持田にあった大暁の家に依頼があり、

三種類作って渡したと記録があります。

それが1971(昭和46)年なので、

青少年センターができたのとは時期がズレるかもと思うのですけれども、

残念ながら青少年センターができた時期が分かりませんでした。

この入口も今も使っていただいている

生きた遺産だなと思っています。

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松山北高校剣道部「妙機」(1966(昭和41)年10月)

沢田大暁が松山北高校に赴任したのは

1966(昭和41)年4月でした。

それまで松山東高校で15年勤めましたが

これ以上は同一校に勤務ができない規定だったため

松山北高校へと転任することになりました。

.

この『妙機』という作品は

今も松山北高校剣道部において使ってくださっている

北高剣道部員にとってはおなじみのものです。(多分)

昨年(2021年)もこの文字を背中に染め上げたTシャツを着ている

北高生を見かけましたのでおそらく間違いないと思います。

.

この記事を書くにあたりネットで検索していると

昭和44年卒業の剣道部の方の集合写真に

この「妙機」の旗?が写っておりましたので、

おそらく赴任して間もない頃に書いたものだと思われます。

ということは、

もうかれこれ50年以上も使っていただいていることになり

これはとても嬉しいかぎりです!

剣道部の歴史の一部となって生き続けているのを見ると、

形に残るものがあるのは幸せなことだと感じます。

 

※2022/4/16、2022/8/29追記

記録を調べ、昭和41年10月3日に

240cm×160cmの大紙に書いたということが判明しました。

その前月の9月に、同じく北高校で剣道部の顧問をされていた佐伯先生から

県下女子剣道大会の優勝旗の揮毫を頼まれたことがご縁のようです。

佐伯先生とはその後もお付き合いがあり、

佐伯先生が中山高校の校長先生を務めておられた時には

大暁が中山高校の卒業証書を書いていました。

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松山東高校、松山北高校寄贈『山部宿祢赤人至伊予温泉』歌

松山北高校『閑吟』(1969(昭和44)年7月)

松山北高校生徒会誌『北斗』第15号(1969(昭和44)年)

松山北高校グループ旗(1967(昭和42)年~1990(平成2)年)

松山北高校70周年記念誌『回顧と展望』(1970(昭和45)年)

松山北高校弓道場『正射必中』額(1974(昭和49)年2月)

松山北高校門標(1975(昭和50)年6月)

宝塔寺の扁額

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松山市朝日ヶ丘に「宝塔寺」というお寺があります。

昭和60年発刊の「沢田大暁作品集」には

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↑こんな風に掲載されていたので、

今どうなっているかなと観に行きました。

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本堂前の様子です。本堂前に扁額が掲げてあるのが見えます。

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2022年3月現在、扁額は↑こんな感じでした。

昭和60年に写真を撮影したとして、

もう37年になりますものね。

写真よりずいぶん薄くなっていました。

長い間使い続けて下さっていることが嬉しいです。

.

さて、そしてここになぜ扁額があるのかといいますと、

この宝塔寺にはこの方のお墓があるのです↓

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ちなみに、東京台東区の梅林寺にもお墓があります。

梅林寺の方はお墓だけで、中のお骨は移動されて枚方にあると

梅林寺のホームページに書いてありました。

宝塔寺に碧梧桐のお墓があることは知っていたのですが、

宝塔寺自体がとても広くてどこにあるか分からず結構迷いました。

そうしたらたまたまお二人連れの俳人の女性が通りかかり、

たまたま碧梧桐のお墓へ行くところだと仰っていたので、

ありがたく後ろからついていかせていただきました。

これは本当にラッキーでした。

とても広かったので一人だったら諦めていたかもしれません。

お二人にはただただ感謝しています。

ありがとうございました。

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さて、ところでこの墓標は碧梧桐自らが書いたものです。

亀田小蛄『子規時代の人々』(昭和42年 俳誌 うぐいす社)によれば、

『因に墓銘の事で一言する。梅林寺のもここ(注-宝塔寺墓苑)のも先生御自署の「碧梧桐墓」であるが、この墓銘はこの地(松山)の先生の侍者だった故藤田杉晩君が生前来松中の先生に「先生私の墓銘を書いて置いて下さい」というのを引取って「イヤ君は若い、僕のを書いて置こう」と即座揮毫されたもの是(これ)であった。』

とあります。

実際の墓銘と同じくらいのサイズで書かれていたとどこかで読んだ記憶があるのですが

いったいどこだったのか今思い出せません。

蛇足ですが、

親友だった高浜虚子の碧梧桐追悼句。

「碧梧桐とはよく親しみよく争ひたり」の詞書で、

たとふれば 独楽のはぢける 如くなり

(高浜虚子『虚子五句集(上)』岩波文庫(1996年9月)より)

という句があります。

松山東高校に寄贈してある沢田大暁の作品の中で

「獨楽」という作品が二つあるのは

きっとここからきているんだろうと思います。

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松山大学正門の文字

松山大学正門の「学校法人 松山大学」という文字も

沢田大暁が揮毫しております。

下の画像は、

日経新聞に広告を掲出した際のものだそうです。

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これは、もともと松山商科大学だった時から

正門の文字を沢田大暁が揮毫しておりましたので

学校名が変わるタイミングでまた新たに書き直したものです。

もともとの写真も残っておりましたので掲載しておきます。

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現在の名称に大学名が変更になるタイミングで

新聞記事なども掲載されていたと

松山大学様にご協力頂いて記事を頂けましたので

そちらも掲載しておきます。

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日頃はあまり正門や図書館の文字をじっくり観るようなことはないかもしれませんが

もし近くを通る機会がある時には

観て頂けると嬉しいです。

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松山大学『三恩人』の胸像(1963(昭和38)年8月)

松山大学御幸キャンパス(1985(昭和60)年)

松山大学御幸キャンパス『彰廉館』門標(1997(平成9)年3月)