松山大学『三恩人』の胸像(1963(昭和38)年8月)

松山大学には三恩人と呼ばれる、

大学(当時の松山高等商業学校)設立に尽力した三人の先駆者がいます。

三恩人についてはここから松山大学のホームページをご覧ください)

特に説明を受けるというわけでもないと思うので、

在校生でも知らない方は多いかもしれませんが、

キャンパス内には三人の胸像があります。

建立されている場所に赤い丸を付けてみました。

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正門から入ってすぐが新田温山の胸像です
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大学構内三号館前から正門を向くと
手前が加藤彰廉、奥が加藤拓川です。

ここで、毎日学生たちを見守っています。

この胸像の名前と、それぞれの胸像の碑文を沢田大暁が書いています。

ではまず、新田温山翁からです。

新田温山翁は実業家の方で、松山大学だけでなく味生小学校の設立にも

財政的に援助しています。

そして新田高校を創立した新田仲太郎の叔父でもあります。

(新田仲太郎の父の弟が新田温山です)

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この像は正門を入ってすぐにあるのですが、

周りの緑に映えてまさかここに60年も建っているとは思えない程きれいな像でした。

左の写真を撮った時に撰文も大暁だと思っていなくて碑文を撮り忘れたため

再度行くと左の写真では咲いていなかったツツジが咲いていました笑

撰文を撮り忘れてガックリきていましたが、

結果的に満開のツツジに会えたので良かったです。(ポジティブ)

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さて、次は加藤拓川翁です。

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この方は正岡子規の叔父にあたりますし

第五代松山市長も務められた方なのでご存知の方もおられるでしょう。

この方が、新田温山翁と加藤彰廉翁をつないだといわれています。

こちらの碑文は文字が薄く、もうはっきりとは読めませんでした。

彫ってある部分だけ色を塗ってくれないかな、

塗ってくれれば読めるのに…!と思いました。

(松山大学関係者の方もし見ていたら宜しくお願いします!)

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さて、最後に初代校長の加藤彰廉先生です。

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この像の前にはベンチがあるので、

知らず知らず見ている学生さんもたくさんおられるはずと思います。

衆議院議員、北予高校(現在の松山北高校)の校長を務めた後、

亡くなるまでずっと松山高等商業学校(現在の松山大学)校長を務めました。

現在の校訓「三実」を作った方と言われています。

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碑文の方は読みづらくて比較できませんが、

銘の方は比較することができました。

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こうやって並べてみると面白いですね。

「加藤」さんがお二人いますがそれぞれ書体を変えていることが分かります。

また、左のふたつは「翁」なのに、「加藤彰廉先生」になっています。

私見ですが、加藤彰廉先生は「教育者」という側面が強かったのかなと思っています。

それに、初代学長を務めておられたということもあると思います。

年齢的には新田温山翁より少し年下ですし

それ以外に思いつかないのですが、いかがでしょうか。

依頼は同時期だったのでこの三つは一緒に書いたと思います。

ということは、書体も、敬称もわざと変えて書いたはずです。

三つの胸像の真ん中だけ少し変えている、というのが

ちょっと面白いですよね。

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松山大学の正門(1965(昭和40)年6月)

松山大学御幸キャンパス(1985(昭和60)年)

松山大学御幸キャンパス『彰廉館』門標(1997(平成9)年3月)

『太陽』10月号-No.52(1967(昭和42)年9月)

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月刊『太陽』10月号です。

こちらは、先日小池邦夫先生からお電話を頂いた際に

おすすめしてくださった雑誌です。

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この左ページにある「松山の三つの寺」という瀧井孝作先生の記事です。

私もこの随筆に大暁が掲載されていることは知っていたのですが

家の中にこの号が見当たらず、ちょうど古本を注文したところでした。

小池先生はお電話口にて

「二人の関係性が良く出ていて僕は本当にこれは良い記事だと思う」

とおっしゃっていたので、届くのを心待ちにしていました。

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カラーが美しい誌面ですよね。

石手寺だと思いますが、今より両脇がすっきりしているような気がします。

※右から順に読んでください
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このほかにもお寺のカラー写真が豊富にあり充実した誌面でしたが

今回はそちらは割愛しておきます。

文章だけでも松山に行きたくなる盛りだくさんな記事ですね。

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この時のことは大暁も日記に書いていて、

照らし合わせてみても同じことが書いてありました。

瀧井先生は二人(大暁と妻)とのやりとりをそう長く書いているわけではないのに

二人のしぐさを具体的に書いておられるのでなんとなく空気感というか

距離感が伝わりますよね。

最初に「知己」と書いておられるところもなんだかほっこりします。

ちなみに大暁の日記の方は紙面の都合上行き先などメモしていた感じでしたが

「瀧井孝作先生来る!」と日記のタイトル文字をめっちゃ大きくしていたところに

期待感というか喜びを感じられる日記でした。

(多分、大暁本人をご存知の方なら「わかるー」ってなるやつです)

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碧梧桐という自分と相手の共通に好きなもの(人)について

心ゆくまで語り合うことができるのは、

年齢に関わらず近しい間柄になれるのだと思いました。

一種の友情かもしれません。同志だったのかもしれません。

師弟関係というわけでもないですし、

ともかく特別な関係だったのかなと想像します。

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ところで、この来松の際には愛媛新聞社において座談会が行われ

後日(昭和42年4月30日)の愛媛新聞に掲載されました。

そちらもまたご紹介しますね。

※2022/6/11追記

『習字』1967(昭和42)年6月号に来松の際の随筆がありました。

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(1)とか書いてますがこの1回きりで終わりでした…

こういうのわりとあるんですよね。

最後まで書いて欲しかったー!

新聞に載ってた松山城の写真がありましたが、

この中ではまだ松山城まで行きついてないんですよね。

桜満開の松山城を背景にした写真は

一体誰に撮ってもらったんでしょうか?

通りすがりの人だったのでしょうか?

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愛媛新聞『碧梧桐座談会』(1967(昭和42)年4月30日)

『新潮』(1972(昭和47)年新年特大号)

『続 愛媛の文学散歩』(愛媛新聞 1973(昭和48)年7月16日)

瀧井孝作『俳人仲間』(1973(昭和48)年10月)

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愛光学園内『日野荘氏 顕彰碑』(昭和53年3月)

愛光学園内に『日野荘氏 顕彰碑』があります。

この『澤田大暁作品集』(昭和60年 正能商会)内では後ろ側がグラウンドですが、現在は

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上のような感じで新校舎の前に建っています。

裏はこんな感じです↓

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読んでいただくと分かるように、

愛光学園がここに移転してくる時に

それまでここ衣山の土地を所有し整備した日野荘氏の功績を讃え

碑を建立したようです。

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昭和50年代は大暁の石碑が多くあります。

昭和50年に高校の教員を退職したので、

時間的にも余裕ができたのかもしれません。

石碑はだいたい外に置いてありますし、

劣化しづらく長く残るので、

今調べるにはやりやすくて良いです。

字が薄くなっている場合もありますけれど、

あれは上から黒いペンキ?を塗れば大丈夫だったはず。

物があってすぐに見られるのはありがたいことです。

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愛光学園正門

愛光学園生誕地の石碑(1978(昭和53)年3月)

愛光学園二期生『にぎわい』リレーマラソン(1986(昭和61)年10月)、(『習字』1986(昭和61)年12月号)

松山市立桑原小学校(1970(昭和45)年7月)

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松山市桑原にある松山市立桑原小学校です。

門がピンクでかわいらしいですね。

校訓がこんなに大きいのも、二宮金次郎像もなかなか珍しい気がします。

そして、この門の文字も沢田大暁が書いています。

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頑張ってきれいに撮ろうと思っていたのですが、

残念ながら反射してしまってこの程度しか写りませんでした。

見えづらくてすみません。

偏にカメラマンの腕の問題です。

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桑原地区は、

沢田の本籍が正円寺にあるというのも繋がりとしてあるかなと思っています。

ただ大暁の父は警察官であり、転勤も多かったと話していましたので

小さい頃に住んだとかそういうことではないと思います。

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そしてここまで見てきて皆様もお思いだと思います。

学校にまつわるものがとにかく多いです。

あとまだ写真を撮りに行けてない校旗とか、額とかもあります。

写真を撮るだけでも結構大変なので、

ぼちぼちご紹介していきたいと思っております。

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『昭和三十一年書初會並びに書道講習會』 習字 (1955(昭和30)年12月号)

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競書雑誌『習字』昭和30年12月号です。

この年、『昭和三十一年書初會並びに書道講習會』が初めて開催されました。

その案内が下の画像のページにあります。

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御幸中学校というのは、昭和58年まであった中学校で、

今の松山市立東中学校です。

昭和58年に御幸中学と城東中学が合併して東中学校になりました。

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ところで蛇足ですが、城東中学といえば

今の二之丸庭園のところにあった学校ですよね。

跡地として今も石碑があったように思います。

で、実は1967(昭和42)年、沢田大暁は城東中学へ

『立志』という作品を寄贈しているのです。

今はどうなっているんでしょうね。

ダメ元で東中学校に聞くかどうか迷うところです。うーむ。

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さて、この書き初め会ですが、

形を少しづつ変えて、長く続くことになります。

この初回は午前が講習会、午後が書き初め会ですね。

そのうち午前に書き初め会、午後に審査と表彰、という

一日で完結するコンクールへと変わっていきます。

開催地も、小松小学校に固定となりました。

東予、中予の方は参加された方もおられるでしょう。

一日で審査結果が発表されるなんてすごいスピードですよね。

でも、書いたその日に自分の評価が聞けるなんて、

参加している子どもたちにとっては嬉しいことだったのではないかな、と思います。

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今治明徳短期大学正門(1979(昭和54)年)

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愛媛県今治市に今治明徳短期大学があります。

この題字揮毫も澤田大暁作品集で知りました。

そうは言っても作品集に掲載されているのは一部なので

何もかもが記録として残っているわけではないのが

今調べていて難しいと感じているところです。

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こちらが現在の今治明徳短期大学の様子です。

作品集の白黒写真で見るよりずっと明るくてきれいですね!

詳細についてはまだ調査中のため、

この作品については分かり次第また追記します。

※2022/5/7

1978(昭和53)年12月20日に、

当時の学長であった宮本七郎氏が訪れて、

この門札の依頼をしたようです。

宮本先生の奥様が大暁の妻の友人で親友だったご縁だそうです。

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「墨美」第300号創刊30周年記念「1980年の書」(1981(昭和56)年8月)

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森田子龍先生の墨美300号記念「1980年の書」です。

この中の112、113ページに沢田大暁が掲載されています。

(左側の作品写真の右側の文字のところに

 思いきり住所と電話番号が掲載されていたので

 今のご時世では問題となる個人情報は消しました。)

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この書(画像左側の作品)について、

大暁は「捨心」というタイトルで隣のページに随筆を寄稿しています。

(上の画像の随筆部分を文字に起こしました)

—以下引用—

 感情の律動的表現を如何に書の上に表現し得るか、と私は生活の中に一体化しようとしている。その為、日常の喜怒哀楽の感動が、深浅はあっても、書に結びついている。それで私は、純粋な人間への希求を祈っている。世間の人たちの一面がよく見えるからである。
 現代の書を見ると、技術的には高いものがあるが、あまり魅力を感じない。それは格調が乏しいからであろう。また一定の技巧・方法が癖になって、独創性や新味を欠くからであろう。
 私は自然を愛し、人を愛し、自己をつとめて愛そうとしている。昨日の自分でないものを、今日見出そうとしているためである。過去を捨てて、現代に生きようとしているのは、その底流は古典を自己の感情の律動性に植えて、そうして多数字を書き、前衛書も書き、今は少字数を書いている。その少字数も変化しつつある。その中間報告が今回の朗嘯である。

—ここまで—

大暁の随筆を読んでいると、

初見のはずなのに考え方が私とよく似ていると思うところがあります。

筆遣いのテクニックを見せる、

画面構成の面白さを追求する、

派手さを求めるなど、

そういったことはもちろん日頃の鍛錬の成果ではありますけれども、

まず最初に自分の感動があって、それを表現するための手段でなければ

ほかの人を感動させるような作品はできない、ということだと思います。

主と従が逆転している作品が増えてきていると

昭和56年時点で憂えている様子が見て取れます。

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60代にしてまだまだ変化していこうというこの姿勢を

自分が60代になった時にも持てているかな、と

ちょっと心に留めておこうと思いました。

変化を恐れず変わる自分を楽しみたいものですね。

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西条高校表大看板(1966(昭和41)年10月)

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愛媛県立西条高等学校といえば、

この一見お城かと見紛うほどの立派な正門ですよね。

そもそもお堀の中に学校があるというのが珍しいです。

ここと松山東雲女子中学・高等学校の正門は本当に良いと思います。

(↑個人の感想です)

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昭和41年10月21日(金)の記録に、

「西条高校の表大看板を書く。

 快心の作とはいかなくともかなりなものが仕上った。」

とありました。

どうやらお気に入りの作のようです。

おそらく

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↑この看板だと思います。

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もうすぐ60年経つのでだいぶ薄くなっていますが

これはこれで門の風合いと合っていて趣きがありますよね。

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実は私、たまたま数年前にこの門を観に行ったんですけど、

その時は大暁が書いたことを知らなかったのでスルーしちゃったんですよね。

知っていればもっとよく見ていたし周りにも宣伝しただろうに…と

今更思います。

後悔先に立たず。

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※2022/5/11追記

西条高校に収蔵してある大暁作品を観に行った時に

近くで写真を撮りました。

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近くって本当に接写です笑

「校」という文字のところです。

よく見ると、書いた文字の部分だけ少し盛り上がって見えますよね。

盛り上がるような物(墨に何か混ぜるとか?)とも想像しましたが、

大星先生や明佳先生にも見てもらって意見を聞きました結果、

これは板に直接墨で書いていて、

墨で書いた部分と書いていない部分とで木の瘦せ方が違ったのではないか

ということになりました。

だからこれは盛り上がっているのではなくて、

周りの木が痩せたのでそう見えるだけかもということでした。

なるほど。

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西条高校蔵『緑葵昌』扁額(1965(昭和40)年3月) 

愛光学園正門(1972(昭和47)年)

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『澤田大暁作品集』(p.137 昭和60年 正能商会)でこの写真を見つけたので、

写真を撮りに行ってきました。

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ら、

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正門付近は現在工事中でした。

(画面中央付近にある黒っぽい横長の長方形部分が揮毫した石です)

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新校舎ができるにあたり、旧校舎を取り壊しているようです。

OBに聞いたところ、グラウンドだったところが校舎になって

校舎だったところがグラウンドになる感じだと思う、とのことです。

なるほど…でもなんだか解体されている姿ってちょっと切ないですね。

そして図書館を心配されている皆様、

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図書館は健在でした。

校舎と繋がっていた気がするので一体向こう側がどうなっているのか分かりませんが

解体工事が終わったころに別の石碑を撮影しに行く予定があるので

(↑事務の方に許可を得ました)

その時見たいと思います。乞うご期待。

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題字部分も健在でした。

今後も正門が正門のままなのかどうか分かりませんけれど

少なくとも今ここにあるうちに撮影できて良かったです。

参考までに、ありし日の正門の様子も掲載しておきますね。

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個人的にはこういう正門って唯一無二の書体で書かれてあると

自分たちだけのもの感が出て良いんじゃないかと思っているので

この揮毫した文字はどうにか残ってほしいなあと思っています。

※2022/5/20追記

1972(昭和47)年9月19日の朝、

田中忠夫先生が大暁に「愛光学園」の文字と「定礎」の文字を

頼みに来た、と記録がありました。

最初、大暁は田中先生が書くのが一番良い、と

手本を書いて渡したそうなのですが、

結局後世に残った場合字そのものの善し悪しが問題になるから、と

大暁が書くことになった、とありました。

その後、11月3日、田中校長が県文化功労章を受けてから愛光学園に戻ってきて、

愛光学園同窓会二十周年記念が行われ、その時に出来上がった門標を見た、

と書いてありました。

その会の時に、大暁は壇上で田中先生へ差し上げる六曲屏風を

その場で揮毫しました。内容は以下の通りです。

「賦謹呈田中忠夫先生  沢田大暁
 碩学鶴身絶俗塵 其仁如水智彬々
 孳々鞠育二十戴 煌々愛光鳳暦新」

という自作の漢詩を書いたそうです。

2023/3/17追記

この2月末に工事が完了したというので正門の様子を見て来ました。

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大変残念なことに、もとの正門は跡形もなくなっておりました。

当然門標も違います。

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諸行無常ですね。

残念な気持ちはもちろんありますが、

逆に、前回のあのタイミングで門標を撮影することができていて

本当に良かったと思いました。

おかげで写真として残すことができました。

物はなくなったとしても、過去の繋がりが消えるわけではありませんものね。

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愛光学園生誕地の石碑(1978(昭和53)年3月)

愛光学園内『日野荘氏 顕彰碑』(昭和53年3月)

愛光学園二期生『にぎわい』リレーマラソン(1986(昭和61)年10月)、(『習字』1986(昭和61)年12月号)

『四季瀬戸の味 たにた』看板

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松山市二番町に『四季瀬戸の味 たにた(食べログにとびます)』はあります。

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魚料理がおいしいお店です。

このお店の文字が沢田大暁の作です。

昭和の頃からあるので、

今逆に新鮮で良い雰囲気だと思います。

懐かしい感じで素敵なお店です。

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というか、和食のお店ってやっぱり

筆文字看板が良いですよね。

タイポグラフィでも、手書き筆文字でも、

大衆的にも高級感も書くことができるので

文字だけでお店の雰囲気を伝えることができるところが

看板のすごいところだよなと思います。

これはお酒のラベルとかでもそうですよね。

見てるだけで面白いです。

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