松山北高校70周年記念誌『回顧と展望』(1970(昭和45)年)

※クリックすると大きくなります

松山北高校グループ旗(1967(昭和42)年~1990(平成2)年)の際に

ちらっと掲載しました『回顧と展望』を

家の本棚でようやく見つけました!

はー、よかった。

※クリックすると大きくなります
※クリックすると大きくなります

この70周年記念誌の表紙を開けたところに

この文字が登場します。

この文字が書かれてある紙が薄い和紙のような感じで、

なんとも高級感が出ています。

※クリックすると大きくなります

中の書道部のページです。

夏の合宿、表装の自作、というのは

大暁が指導する書道部のもはや伝統ですね。

裏打ちを今でもやっている部活は多いと思いますが

額を自分で作るのはなかなかないかもな、と思います。

でも、この時にやっておけば作品がどのようにできているのか

よく分かるような気がします。

大人になってからだと、表具屋さんにお願いするので

自分で作品を表具する機会ってあまりないですもんね。

.

部活動はおそらく毎日やってそうな感じだったのですが

大暁自身は毎日みっちり行っているわけではなくて

手本を書きに行ったり

「やっとるかー?」と様子を見に行ったりするような

そのくらいの感じがしました。(記録を読む限りの印象です)

本人はまあまあの頻度で出張に行っていましたし、

欧州旅行へ行ったり、

愛媛に来県した方々を案内したりと、

あまりおとなしくじっと学校にいるようではなかったように思います。

沢田大暁の足跡一覧にもどる

松山東高校、松山北高校寄贈『山部宿祢赤人至伊予温泉』歌

松山北高校剣道部「妙機」(1966(昭和41)年10月)

松山北高校生徒会誌『北斗』第15号(1969(昭和44)年)

松山北高校『閑吟』(1969(昭和44)年7月)

松山北高校門標(1975(昭和50)年6月)

松山北高校グループ旗(1967(昭和42)年~1990(平成2)年)

毎日書道展準大賞受賞(毎日新聞愛媛版1968(昭和43)年7月18日、『習字』1968(昭和43)年9月号)

※クリックすると大きくなります

松山北高校『閑吟』(1969(昭和44)年7月)の作品で

昭和43年に毎日書道展準大賞を受賞しました。

その時に『習字』誌上に掲載された記事がこちらです。

.

この記事の中にある毎日新聞愛媛版を探したのですが

最近のものならともかく昭和43年のものが図書館を回っても見つけられず、

今毎日新聞社に問い合わせをしています。

記事が見つかったらまたこちらでお知らせいたしますね。

.

この時に毎日書道展の審査員に推挙され、

以降参与として長年活躍しました。

.

2022/06/28追記

※クリックすると大きくなります

1968(昭和43)年7月18日の毎日新聞愛媛版です。

※クリックすると大きくなります

こちらは1968(昭和)43年7月19日付け東京本社発行夕刊です。

問い合わせてデータを頂けました☆

古いとなかなか手に入らないので

探すだけでも一苦労です。

ふー、歴史の中では近現代のはずなのに、

探すとなるとほんと難しいですね。

競書雑誌「習字」まとめに戻る

沢田大暁の足跡一覧にもどる

伏見冲敬先生の『習字』誌での連載(『書学散策』昭和55年6月号~昭和56年2月号)

※クリックすると大きくなります

我が家でいつも使っている角川書道字典の伏見冲敬先生は、

一時期『習字』誌で連載して下さっていたことがあります。

.

現在でも、これを臨書しなさいと言われたから、とか

有名な法帖と言われたからというだけで

何も分からぬままに字だけを追ってしまうことはよくあることです。

そんな(私も含めた)あなたのために!

十七帖の法帖の内容についてゆっくりと解説してくださっています。

今読み返してみてもとても面白い記事です。

平易に書いて下さっているので分かりやすく、

また他の法帖についても調べてみたいと思う内容になっています。

こういう情報って必要だなと思います。

.

この連載は、先生の体調不良により全8回で突然終わってしまうのですが

もっともっと読みたかったなと思う連載でした。

競書雑誌「習字」まとめに戻る

沢田大暁の足跡一覧にもどる

うちにある角川書店『書道字典』の話

※クリックすると大きくなります

このボロボロの書道字典は

我が家愛用の角川書店刊『書道字典』です。

(※上のリンクからAmazonに飛びます)

実は今は教室には置いてなくて(前は置いてたんですが)

大切にしまってあります。

初版本でもありますし、

※クリックすると大きくなります

伏見先生のサインも入っています。

.

この字典は筒井先生から渡して頂いたと記録があったのですが

伏見冲敬先生と大暁の間は筒井先生を介していただけで

お互いがさしたる知り合いだとは思っていなかったのです。

でもこの前、気になっていたので直接筒井先生に伺ったところ、

伏見先生とは直接お会いして話していたことを知りました。

思っていたより親しくしていてビックリしましたし、

なんと『習字』誌上で連載もされていたことが分かりました!

(連載についてはまた別記事にしますね。)

.

やはり日記は万能ではありませんね。

伺ってみて良かったです。

そして答えを知ることができることをありがたいと思いました。

大暁の始まりの師、三宅木兎先生

※クリックすると大きくなります

明日6月15日から19日(日)まで、

愛媛県美術館2階特別展示室において

第23回いろどりの書作展が開催されます。(詳細はこちら)

一昨年はコロナでできなかったこと、

昨年はまだまだ人をそんなに呼べるような上京じゃなかったことから、

今年は久し振りに大々的に呼びかけられる展覧会となりました。

 

そこで今回、ちょうど筒井先生から三宅先生のかなの半切作品を頂いたので

大暁のかな作品と並べてちょっとしたコーナーを作り、

展示することにしました。

 

大暁のはじまりは教員生活初年度、

湯築尋常小学校で校長先生から習字の担当に指名されたことでした。

その同じ年の昭和10年に、愛媛師範学校へ赴任してきたのが

当時32歳の三宅木菟(本名:武夫)先生でした。

つまりは学生時代にお世話になっていたわけではないということです。

そして愛媛師範学校に教員として赴任する前の昭和16年に

自身の故郷である岐阜師範学校へ転勤して行っています。

(大暁が愛媛師範学校に赴任したのは昭和18年です)

ちょうど大暁が文検を目指して三宅先生を訪ね、

勉強している間だけ愛媛におられた先生ということになります。

 

人との出会いというのはこういうご縁なのかもしれないですね。

展示の際に展覧会場で三宅先生のかなと

大暁のかなを並べて見て、似ているところを感じました。

 

三宅先生に教わり、三宅先生が比田井天来先生の弟子(自称?)だったことから

大暁は手島先生と出会うことになります。

人とのつながりがまずあって、

そこから数珠繋ぎにどんどん世界が広がっていくさまは

もうご縁としか言いようがないですよね。

その起点が観られる展覧会だと思います。

沢田大暁の足跡一覧にもどる

戦前の地図(昭和13年の社会科の資料集)

※クリックすると大きくなります
※クリックすると大きくなります

我が家には古い本がたくさんあります。

和綴じの本も沢山あって、背表紙が無いので

正直本棚に置いてあっても何の本か全然分かりません。

競書雑誌とかもいろいろな種類があって、

『奎星会 書友版』とか、『書藝なにはづ』とか、

五禾書房の『書道』とかもありますし、

書道雑誌だと、『墨』もありますが

『書品』『墨美』『書道芸術』など

なんやかんや古いものがたくさんあります。

この前『松山百点』創刊号(1965(昭和40)年3月号)をご紹介する時

愛媛県立図書館で写真を撮りましたが家に帰るとパッと見つかりました。

こういうの、何度もやってます。

.

さて、そんな我が家にあっても昭和10年代の本はけっこう珍しいです。

こちらは『新選 歴史精図』という本で、

おそらく社会科の資料集だと思われます。

昭和13年のもののようです。

しかもこの図版の中身は80年以上経っているのにカラーできれいです。

※クリックすると大きくなります

資料として貴重だなと眺めながら感心してしまいました。

書道に関係ないことですので単なる個人の感想なのですが

年代のわりにあまりにもきれいなのでご紹介しました。

横書きの文章を右から左に読むことや旧字体に抵抗が無い方なら

多分かなり面白いと思っていただけるのではないでしょうか。

こういう教科書で勉強していた時代があったのだという

一つの資料として貴重だと思います。

愛媛県習字教育研究会のバッジ(『習字』昭和30年7月~昭和31年2月)

私は存在すら知らなかったのですが、

バッジがあったらしいです。

これは昭和30年7月から昭和31年2月までだけの限定で販売されていました。

なんで蛍なのかとか、(蛍雪的な…?)

蛍って紺色だったかしらとか、

なんで三角なんだろうかとか、

なんかいろいろ気になる点があるのですが

そもそもこういうものがあったことにビックリしました。

.

この文面に時代が出ていますよね。

一個「三五」円で、「二十五」個以上…のあたりにも、

今のようにパソコンで作成して印刷するのとは違う

アナログの趣きが感じられます。

競書雑誌「習字」まとめに戻る

「書家酒豪大会大阪場所」(『習字』1967(昭和42)年5月号)

※クリックすると大きくなります

大暁本人をご存知の方はご存知でしょう。

澤田大暁とお酒が切り離せないことを…!!

酒豪大会の記事を掲載するのも楽しそうなレポートですよね。

個人的には第23代木村庄之助さんと握手しているのが

めっちゃうらやましいところですね。

第24代木村庄之助さんから木村庄之助さんは木村伊之助を経由しないと

庄之助に上がれないことが決まったので、

第23代木村庄之助さんは最後の伊之助を経由しない庄之助さんです。

(文字だけ見たら意味不明な文章ですね笑)

ちなみに第23代木村庄之助さんは木村正直さんからの庄之助さんです。

.

話が逸れました。

.

お酒好きな印象の強い大暁ですが、

もともとはお酒にはめっぽう弱かったそうです。

ちなみに昭和29年時点での写真はこちらです↓

※クリックすると大きくなりすぎるのでご注意ください

こちらは『習字』昭和29年11月号に掲載された写真です。

.

え、だ、、、誰…??

.

って感じですよね。

めちゃくちゃ痩せてます。

しかし、当時は当然のようにあった

「お酒の付き合い」がどうしても必要だと思ったそうで、

下戸から飲めるようになったのだとか聞きました。

下戸ってそんな強制的に飲めるようになるのかどうか、

私には分かりませんが

そういうことだと本人が言っていましたので

そうなのではないでしょうか。

競書雑誌「習字」まとめに戻る

沢田大暁の足跡一覧にもどる

趣味の雑誌・酒(1976(昭和51)年2月号)

愛媛師範学校女子部に勤めていた記録

「愛媛県女子師範学校・同付属小学校跡」碑(1977(昭和52)年)にある通り、

澤田大暁は1943(昭和18)年から1950(昭和25)年まで

確かに愛媛師範学校女子部で勤めていたのですが、

松山北高校を退職して年金をもらうようになる頃、

愛媛師範学校に勤めた記録がないので大変だったというエピソードがあります。

.

というのも、愛媛師範学校男子部は当時木屋町にあったらしいのですが

その師範学校が松山大空襲で焼失してしまい、

事務書類も何もかもが失われてしまったのだそうです。

それで、勤めていた記録…というかなんなら働いた記録が

一切合切無くなっていたのだそうです。

そのため、愛媛師範学校でたしかに勤めていたと

証明してくれる人物を何名も集めて

書類を作るのが大変だった様子が書かれてありました。

(その間無職ってことになると年金に響きますものね)

.

確かに、空襲で校舎も何もかも無くなってしまって

しかもその後男子部と女子部が一緒になったり

学校が木屋町と須賀町から城北へと移転したり、

学校名が変わったりという事務的に煩雑な時期に

ポンと県立高校へ転任してしまったとあれば

大変になってしまったのもうなづけるなとは思います。

最終的には証明できたようで良かったです。

『碧梧桐の書の変遷』(愛媛新聞1973(昭和48)年12月25、26日)

※クリックすると大きくなります

こちらが昨日ブログでお話しした日記になかったスクラップブックの記事です。

全く書いていないわりにはちゃんと朱墨で囲っていて

誤字も書きだしているのですが…

こう見ると、新聞の紙の色はこんなに褪せているのに

朱墨の色が全然変わらないので朱墨ってすごいですね。

※クリックすると大きくなります

この1973(昭和48)年は、

「虚碧生誕百年祭」と銘打って大々的な展覧会が開かれていました。

その実行副委員長を大暁が務めていたので

この時はかなり精力的に碧梧桐について執筆していたようです。

新聞については全く書いていなかったのですが

この展覧会のパンフレットと思われるものの文章を書いたらしく

(パンフレットかどうかは推測です。本人は「六十頁の案内帖」と書いています)

頼まれてからは原稿書きに勤しんでいる様子が書かれてあります。

.

この足跡を調べるようになってから大暁の執筆した文章を読むことが増えたため、

なんだかすっかり碧梧桐にも詳しくなってきたような気がします。

各所で撮影した碧梧桐の作品の写真をスクラップにしているものもあるのですが

本人の作品ではなく碧梧桐の作品であるということや、

所蔵されている方の名前が書かれてあることなどから

こちらでご紹介することができないのが残念です。

沢田大暁の足跡一覧にもどる

『愛媛』「碧梧桐の書と書論」(1964(昭和39)年9月、11月)

龍眠会特集の『墨美』159号(1966(昭和41)年6月)

河東碧梧桐特集の『墨美』164号(1966(昭和41)年12月)

愛媛新聞『碧梧桐座談会』(1967(昭和42)年4月30日)

河東碧梧桐『三千里』上下巻、『続三千里』上巻(1973(昭和48)年~)

『河東碧梧桐 ―俳句と書―』(1982(昭和57)年1月) 

『文化愛媛』創刊号「河東碧梧桐の短詩」(1982(昭和57)年1月)

『墨』36号(1982(昭和57)年5月号)特集:虚子と碧梧桐