『教育広報』第72号(昭和49年)

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そもそも『教育広報』という雑誌の存在を私は知らなかったので

調査してみて初めてこのような雑誌があったのかと驚きました。

昭和50年に退職した大暁にとって、

昭和49年というのは教員生活最後という

しめくくりの年だという意識があったように思います。

この雑誌に、以下のような随筆を寄せています。

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1970(昭和45)年、金子鴎亭先生を団長とする日本代表書家訪欧団に参加し、

ヨーロッパを観て回った大暁は帰国後西洋美術についても調べ始めました。

スライドを作ったり、本を読んだり、

今でも家には画集などがたくさんあります。(大きい、そして重いのが!)

そういった刺激もまだまだ残っているような文章ですよね。

随筆というのは、まあ多少かっこつけているところはあるにしても、

考え方が分かって面白いです。

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作品 松山大空襲「父爆死」(『習字』1995(平成7)年11月号)

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1945(昭和20)年7月26日の深夜、松山市で大規模な空襲がありました。
その際、私の曾祖父(大暁の父)は亡くなりました。

もうすぐ空襲の日がやってくるので、この作品を取り上げることにしました。

この空襲について、大暁は「おもかげ」の最終回で以下の様に語っています。

「松山が全滅するような大空襲の日、いつものように雄郡小学校で落ち合う約束で、家族それぞれ大事な物を身につけて家を出た。私は最後に見回ってから家を出、中の川を越して小学校まで走った。ところが、いつまで待っても、先に出たはずの父親が来ない。その日の空襲は、とてもひどかったので父の安否を皆でとても心配していた。

後で避難してきた近所の人が、「お父さんは、国鉄の線路よりずっとこっちの、林の方でやられていたようなよ。」と教えてくれた。長い夜が明けるのを待ちかねて、父親を探しに行った。あたりは、ひどい有り様だった。探して、探して、中の川橋の所で父が死んでいるのを見つけた。橋のあたりで爆撃され、そのまま走って逃げれば命を落とさずにすんだかもしれないが、父は当時足を悪くしていたので、逃げることをせず、そこの石の下に隠れようとしたらしい。それを思うと涙が出た。父は、しっかりとした厳格な人で、私にとってはこわいとも思われる存在だったが、体を悪くしていた最期が悲しい。その時の思いを、後に、詩に詠み、屏風作品とした。私の心を打ち込んだ、今でも目頭の熱くなる作品である。

その松山大空襲で、長く住んでいた江戸町の家は焼けてしまった。私達は家を失い、父親を失った。

―完―

沢田大暁短歌

父爆死(松山大空襲)

いづれにか父やおはすと燃えさかる紅蓮中にもとめ迷ふかも

爆弾(たま)うけしわか父の血ぞ赤々と布団の外ににじみいでたる

あはれあはれ息たえにけり父ねむる布団のうへに日はのぼりつゝ

うつつなく荼毘の煙のあと追へば松田ケ池の面にみたるる 」

布団の外まで血が滲んでくるような状況で、
それでも次の空襲があるかもしれなくてゆっくり悲しみに浸ることもできない、
そんな日常だったことがありありと迫ってきます。

私が読む日記には、命を大切にしてほしいという気持ちが何度も出てきます。

生徒が事故を起こした時、自殺した時、
そのたびに心を痛めている様子の記述を残しています。

こんなつらい思いをした人が日本中のすべての地域に
たくさんいたことを忘れてはいけないし、
世界に目を向けると、
今まさにこのようなつらい思いをしている方がたくさんいることを
他人事にしてはいけないと思います。

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独学で臨書を初めてする方へ

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「習字」誌では毎月高校部、一般半紙部の方向けに

臨書のお手本を掲載しています。

そこには誰の何という法帖を書いているのかも載せています。

しかしながら、昨日締め切りの昇段昇級試験で

指定した法帖の臨書を提出するにあたり

「これは一冊ずつ本を買うのでしょうか?」

「どこに売っていますか?」

などのご質問をいただきましたので

今日は独学で勉強している方向けに一冊ご紹介します。

(回し者ではありませんよ念のため)

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臨書、というのは昔の能書(上手な書)を真似て書くことです。

臨書をする時、過去の上手な書をお手本にするのですが

それにはいろいろな種類があり、それぞれにストーリーがあります。

みんな違って、みんな良いです。

自分が書きやすいと思うものも、

書きにくいと思うものもあるでしょう。

どちらを選んでも良いのです。

「習字」誌に掲載している「参考手本」を見て

練習して下さってももちろん構いませんし、

その場合はもし必要であれば原寸大手本(コピー)を

有料(330円)でお付けすることもできます。

ただ、自由にいろいろな法帖を見てみたいと思った場合

何がどうなのか、初めは分かりませんよね。

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そんな時、当会では上にあるピンクの本をおすすめしています。

こちらからAmazonで購入することもできますし

電話かメールかLINEでご連絡下されば当会から郵送することもできます。

(郵送料は別途実費かかります。)

いろいろな種類の法帖が一度に見られることと、

その最初に簡単な説明があることが特徴です。

もう少し慣れてきたら詳しい説明が掲載されているものや

全臨できるように全部掲載された1冊ずつの本が良いかもしれませんが

最初は有名な法帖が一度にざっと見られて

少しずついろいろ練習できる本がおすすめかなと思っています。

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法帖にはそれぞれストーリーがありますので

慣れて来てもし歴史が好きな方でしたらそういう切り口から選んでも

面白いかなと思います。

臨書って言われるがままに書いてしまって

自分が今何を書いているのか分からなかったり、

種類がたくさんありすぎてハードルが高いように感じてしまったりするのですが

実際のところは背景が面白かったり

歴史を感じられたりするワクワクするものなので、

その最初のきっかけとして使ってもらえると良いなと思います。

また、何か質問などあればいつでも聞いて下さればと思っています。

愛媛県立松山北高校中島分校正門(1973(昭和43)年3月)

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松山北高校は松山市にある中島という島に分校があります。

(松山北高校中島分校のHPはこちら)

今は松山市ですが、『温泉郡中島町』という呼び名の方が

馴染みがあるという方もいるかもしれません。

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記録によればこの中島分校が建て変わるタイミングで、

正門の文字を書くことになったそうです。

3月20日の記録には

『中島分校の新校舎が出来、立派な門が出来ることになっている。その門に銅鋳ではめこむ書を作る。今日仕上げる。』

とあります。

中島分校は1948(昭和23)年の創立のようなので、

創立25年の時のようですね。

少子化により分校が閉校になることも多い中、

今も残ってくれているのが嬉しいです。

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松山東高校、松山北高校寄贈『山部宿祢赤人至伊予温泉』歌

松山北高校剣道部「妙機」(1966(昭和41)年10月)

松山北高校グループ旗(1967(昭和42)年~1990(平成2)年)

松山北高校『閑吟』(1969(昭和44)年7月)

松山北高校生徒会誌『北斗』第15号(1969(昭和44)年)

松山北高校70周年記念誌『回顧と展望』(1970(昭和45)年)

松山北高校弓道場『正射必中』額(1974(昭和49)年2月)

松山北高校門標(1975(昭和50)年6月)

会員ログインページのIDとパスワードを変更しました☆

桜が満開になっていますね。

お手元に7月号が届いていますでしょうか?

今月もコメントの続きを掲載しております。

みなさまのそれぞれの思い出があり

読んでいるとほっこりしますね。

来月まで掲載する予定ですのでよろしくお願いいたします。

さて、会員ログインページのIDとパスワードを

7月号のものに変更しました!

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『関東明教』第23号(2022(令和4)年5月)

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今年の『関東明教』において

小池邦夫先生が大暁について書いて下さっています。

見開き2ページのうち、三分の一くらいを割いて

丁寧に書いて下さっていて嬉しかったです。

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関東に住んでいたこともあったのに

この同窓会誌を購読したことが無かったのですが

表紙の文字や絵をはじめ、

知っている方の作品や文章が数多く掲載されていて

読んでよかったと思いました。

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そして、快く1冊贈って下さった

関東支部の同窓会の方々に感謝致します。

そして、うっかり間違えて『明教』に問い合わせたにも関わらず

関東明教を調べて下さった担当の先生にも感謝しています。

みんな優しい…

本当にありがとうございました!

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松山東高校内『明教館』にある『六曲屏風』(1952(昭和27)年)

松山東高校、松山北高校寄贈『山部宿祢赤人至伊予温泉』歌

書は心の探究(サンケイ新聞(1981(昭和56)年1月5日)、『習字』昭和56年1月号)

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この新聞記事については、

『習字』誌で『読者のひろば』コーナーが始まった時に

第2回で登場したのでご存知の方は…あまりいないかもしれませんね。

なにしろそれでももう10年以上前の話です。

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サンケイ新聞に掲載されたこの記事は、

この両脇に名前がたくさん書かれてあったので、

多分広告として出したものかな?と思います。

文章は『習字』昭和56年1月号にも掲載されていました。

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なんだか難解な感じの文章なのですが、

結局のところは

古典も臨書をすることで法帖の心に触れることができる

ということと、

自分の感動を表現する手段として、

過去の感動を表現した手段を土台に

現代の要素や個性をを自分なりに加えていくことが書である

ということかなと考えました。

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こういう書に対する考え方を書いている文章は

昔からずっと一貫して同じ信念を持っており、

生涯変わらなかったんだろうと思われます。

自分の心が動いて作品ができて、

そしてその作品がまた誰かを感動させる、というのが

芸術ってすごいなと思うところですよね。

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