愛光学園内『田中忠夫先生像』(1982(昭和57)年11月3日)

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愛光学園の正門から校舎に向かって歩く途中に

移設された田中忠夫先生像があります。

この像はもともとは古い正門の入ってすぐ左手にあったものですが、

正門をロータリーにするのに伴ってこちらに移動してきたそうです。

近づくとこんな感じです。

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分かりやすく大暁の文字ですね。

そしてこの胸像は伊藤五百亀先生によって造られています。

この二人といえば、

愛媛大学教育学部附属中学校内『行く河』像裏書き(1981(昭和56)年11月)

↑こちらでご紹介した『行く河』の像と同じですね。

違うのは、この像では大暁が表面の文字も書いているところでしょうか。

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像の方には背中に大きく伊藤先生のサインが入っていました。

下の文字は、ちょっと薄くなっていますが、ちゃんと読める状態でした。

拡大したものも掲載しておきますね。

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書いてある文字を読んでみました↓

   愛光百年の礎を確立した初代校長
   田中忠夫先生の功績は至大である
   創立三十周年に当り同窓生相集い
   て先生を偲び遺徳を永く後世に伝
   えんとするものである
    昭和五十七年十一月三日
         撰 文 門屋 方典
         像作者 伊藤五百亀
         書   澤田 茂雄
         贈 愛光学園同窓会
 

大暁は田中先生と親しくしていただいておりましたので、

関連リンクが下部にあります通り愛光学園内にはたくさんの文字があります。

また、愛光学園だけでなく、松山大学にもたくさん残っています。

(田中先生が愛光学園の前に松山大学の学長をしていた為です)

二人の出会いについては資料が残っていませんが

今の松山大学に田中先生がおられた当時、大暁も今の愛媛大学の助教授でしたので

その辺の繋がりかな、と想像しています。

新校舎となっても生徒たちを見守っている像をみて

嬉しくなりました。

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愛光学園正門(1972(昭和47)年)

愛光学園内『日野荘氏 顕彰碑』(昭和53年3月)

愛光学園生誕地の石碑(1978(昭和53)年3月)

愛光学園二期生『にぎわい』リレーマラソン(1986(昭和61)年10月)、(『習字』1986(昭和61)年12月号)

松山大学『三恩人』の胸像(1963(昭和38)年8月)

松山大学の正門(1965(昭和40)年6月)

松山大学御幸キャンパス(1985(昭和60)年)

松山大学御幸キャンパス『彰廉館』門標(1997(平成9)年3月)

【学生書道展】コロナ感染拡大防止対策について

第70回愛媛県学生書道展における感染拡大防止のための対策についてご説明します。

一昨年からと同じく、愛媛県美術館から

 ●一人一人の検温

 ●緊急連絡先の記入(会期後2週間で破棄します)

 ●マスクの着用

 ●会場内での飲食禁止

が義務付けられております。

また、もし体調が悪いようであれば、

御来場はご遠慮くださいますようお願い致します。

ご協力をお願い致します。

愛媛新聞『鐘はなる』(1976(昭和51)年4月13日)

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結婚についての記事のはずなのに、

結婚にまつわる話は最後の五行だけという驚きの記事です。

.

この取材は同年4月1日に持田の家で行われました。

当時の日記には

『小生がしゃべりまくって一応まとめてしまう。

 何かまともをはづれた感じである。』

とあって、「何をしゃべったんだ…?」と思っていたので

記事を見つけて納得しました。

ですが、名士夫婦のような憧れの対象として取材に来ていただけたことが

当時とても嬉しかった様子でした。

個人的には、

もうちょっと祖母について触れて欲しかったなと思いますが

この記事の内容と日記と大暁本人との思い出を考えると

取材のときの様子がなんとなく想像できるので

こうなるのも予想通りではありますよね。

.

こんな風に二人の写真を大きく出して記事にしてくださったことを

嬉しく思います。

.

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『中島司有書作展』推薦文(1974(昭和49)年1月)

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中島司有先生は何度か上野の森美術館で展覧会を開いていました。

この1974年、澤田大暁は作品集に推薦文を寄稿しています。

 

実は家で探したところ別の年の作品集しか見つけられず、

推薦文がどうしても読んでみたかったので

直接中島先生が創設した現代書道研究所に問い合わせをしました。

そうしましたら、現所長の佐伯司朗先生が直接お返事とこの画像をくださいました。

いろいろな方のお世話になっております。

本当にありがとうございます。

 

さて、この作品集の推薦文については、

この個展の2か月前、

11月12日に原稿用紙200字詰5枚にまとめて送ったという日記がありました。

この度ついにその内容をご紹介します。

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どうですか。

しょっぱなからの「親友」呼びで驚きましたよね。

「あれ、こんなに近しい感じ?」

と個人的にはびっくりしました。

直接ご存知の方は当たり前なのかもしれないです。

私は面白いなと感心しました。

 

また、戦後すぐから認知していて、

昭和31年からのつながりだったことや、

中島先生が松山市にお住まいだったころに親しくなったことなど、

私の持っている日記の昭和37年よりも前の情報が手に入ったことが

とても有意義でした。

こんな風にまた別の原稿から

日記以前のことが分かる資料が発掘されてほしいと思います。

どこにあるかはまだ分かりませんが楽しみに調査を進めたいと思います。

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中島司有「沢田大暁書作展に思う」(五禾書房『書道』第21巻7号(1975(昭和50)年7月))

五禾書房『書道』より中島司有「沢田大暁書作展に思う」(「習字」1976(昭和51)年9月号)

『別格本山西山興隆寺』看板(1971(昭和46)年8月17日)

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8/17(火)
(合宿も)終りに近い頃、別格本山西山興隆寺の看板を書いてあげる。最後大沢和尚への別れのあいさつや大沢和尚のあいさつがあり、その時看板は永久に記念にしたいと述べてくれたことは生徒への気持も出ていた

澤田大暁は高校教師だった頃から毎年夏に

西条市丹原町にある西山興隆寺で合宿をしていました。

西山興隆寺公式ホームページはこちら

看板を書いているとあったので今どうなっているかと思い

お寺へ電話をかけてみたところ、

今は和尚さんが変わったためどの看板のことか把握していないのですが

看板であれば外にあるでしょうから

よければ実際に観に来てくださいとのことでしたので行ってまいりました。

 

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駐車場に車を停めて、さっそく上り口から入ります。

最初に小さな橋があり、写真正面に見える石碑のところから

右手におれて登っていくようです。

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右に曲がってすぐ、りっぱな門が姿を現しました。

ここ西山興隆寺は紅葉がとっても美しいらしいのですが

このあたりはまだまだ緑でした。(※2022年11月上旬)

そしてよーーーく見ると、

門の向こう側に恐ろしいほどの階段が…この時は見えていませんでした。

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分け入っても分け入っても青い山、ならぬ

登っても登っても階段…

緑が多いので空気はとてもおいしく

ゼェゼェ言っていても体に入る空気は少し冷たくて

すがすがしい気持ちになります。

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階段を覆うように木が生えていて、

緑のトンネルのようです。

多分紅葉シーズンに来たらすごくきれいだと思います。

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登る間にたくさんの杉の巨木がありました。

そのうちの一本は昭和43年に枯れ木となったと書いてありました。

昭和43年ならば毎年合宿をしている頃なので、

この杉が枯れ木となる前後で

大暁は合宿をしていたのだなと感慨深く思いました。

そして、その枯れ木にこんなにもまた新しい命が芽吹き

土にかえっていっている時間が経ったのだとも思いました。

 

さて、ここからすこし上ったところ右手側に、

何かの入り口がありました。

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みつけました!

この向かって右側の看板は、大暁の筆跡でしょう。

まだ本堂まではたどり着いていませんが

お目当ての看板を見つけてしまいました。

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板の左側面にはちゃんと、「大暁書」の名が入っています。

風雨にさらされたせいで随分滲んでいますけれども

たしかにまだここに残っていました。

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さて…

まだ階段は続いています。

見えにくいですが大きく写っている階段の左奥にもまだ階段が続いています。

ここまでだけでもかなりの階段を上ってきているので

着て来たコートはもう脱いでいるくらい暑いです。

しかし、せっかくなので本堂までは上ることにしました。

えっちらおっちら・・・・

 

上の方は木々が色づいて、

すでに黄色や赤の葉がたくさんありました。

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そしてこの記事最初の画像、本堂に到着しました!

この本堂は階段上がって右手にあるのですが、

寝泊まりするってなるとここではなくて、

左手側にあるこの建物だったのかなと思います。

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建物自体は変わっているかもしれないのでなんとも言えないのですが

母曰く階段の左だったような気がすると言っていたので

この場所にあったのかなと想像しています。

ちなみにこの左奥には塔が建っています。

(太陽の位置の関係で写真が撮れませんでした)

街灯などもほぼなさそうなこんな山奥では

夏とはいえ怖くなかったのかなと思いましたが

仲間と一緒ならさほど怖くもなかったのかなとか

毎年行くほどなのだからむしろ楽しかったのかなとか

いろいろ想像できました。

看板を見つけることができて本当に行ってよかったです。

 

追伸

行きがあるということは帰りもあるということで。

帰りもヒィヒィ言いながら降りました。

運転手の弟氏は膝が笑っていると言っていました。

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『おおさか剣道かわら版』に名前を掲載していただきました☆

※クリックするとPDFが開きます。2ページ目をご覧ください。

公益社団法人大阪府剣道連盟が発行している広報誌

「おおさか剣道かわら版」11月号

パナソニックEW社剣道部の部旗「妙機」が特集されています。

この「妙機」という部旗は、

松山北高等学校剣道部の部旗からとって来たものらしく、

「妙機」の揮毫の経緯について取材を受けました。

(妙機の記事については以下にあります↓
 松山北高校剣道部「妙機」(1966(昭和41)年10月)

大したお話をできたわけではないので恐縮ですが

「最後に」に愛習研の名前も入れて下さりありがたいかぎりです。

妙機という旗がこういう風につながっていっていることが

純粋に嬉しかったです。

益々の御発展をお祈りいたします!

『子規遺墨』書籍編を推す(愛媛新聞1975(昭和50)年11月8日)

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『子規遺墨』は、山上次郎氏が監修した

全三編(書跡編・絵画編・書簡編)の正岡子規の遺墨集です。

山上次郎氏は愛媛県出身の歌人、文筆家で

愛媛県議会議員も務めておられた方のようです。

.

大暁はご本人と友人関係にあったわけではなく、

愛媛新聞文化部の方から推薦文を頼まれてこの文章を書いたそうです。

日記によれば、大暁原稿で14枚書いたとか。

あ。

大暁原稿って知ってる人にしか通じないですよね。

200字詰めの原稿用紙で、左下に沢田大暁原稿って書いてあるんです。

うちにまだあります。

.

頼まれてから山上次郎さんの本をたくさん読み始めた様子で、

原稿が終わってからも本を買ってきては読んでいたようです。

.

【追記】大暁原稿の写真も載せておきます!↓

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松山北高校門標(1975(昭和50)年6月)

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愛媛県立松山北高校です。

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前にこちらに伺った時から、

この門標の文字には見覚えがある気がするぞ、と思っていました。

どう見てもこれは大暁の筆跡だと思うなと思っていたところ、

それらしい記述を発見しました。

1975(昭和50)年4月2日
学校の門標文字をたくさん書く。
二時半まで書く。たくさんの中から4、5点選出しておく。

いつもなら「○○学校」と学校名を書くのに学校名がないので

これでまさかのここじゃなかったらショックなのですが、

1975(昭和50)年6月12日
松山北高校第5教棟が完成したので今日は式典があった。小生が門標を書いておいたがそれが出来たので写真を撮りに行く。鋳造は立派に出来ていた。

この記述を読んで、これは北高校の門標のことだと確信しました。

あー、発見できて良かったです。

これで、松山北高校は中島分校と両方の正門の門標を揮毫していることがわかりました。

最近は門標もフォントが増えましたけど、

鋳造の昔ながらの門標って良いですよね。

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松山北高校文芸誌『たぎり』第24号(1966(昭和41)年) 

松山北高校70周年記念誌『回顧と展望』(1970(昭和45)年)

松山北高校剣道部「妙機」(1966(昭和41)年10月)

愛媛県立松山北高校中島分校正門(1973(昭和43)年3月)

松山北高校『閑吟』(1969(昭和44)年7月)

松山北高校生徒会誌『北斗』第15号(1969(昭和44)年)

松山北高校弓道場『正射必中』額(1974(昭和49)年2月)

松山北高校グループ旗(1967(昭和42)年~1990(平成2)年)

松山東高校、松山北高校寄贈『山部宿祢赤人至伊予温泉』歌