「愛媛県女子師範学校・同付属小学校跡」碑(1977(昭和52)年)

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松山市須賀町に、愛媛県女子師範学校跡地の碑があります。

愛媛県女子師範学校が明治43年10月から昭和25年11月まで、

附属小学校が明治44年4月から昭和25年11月までこの地にあったことを示す石碑です。


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沢田大暁は、愛媛県師範学校には昭和18年から昭和25年まで助教授として勤めました。

ちょうど愛媛県師範学校が愛媛大学になるタイミングで大学を退職し高校教師になりました。

第二次世界大戦は大学に勤めていたんですね。

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愛媛大学、と名称が変わり新しくなるときに、

愛媛県師範学校と愛媛県女子師範学校がひとつになりました。

そこで、今の愛媛大学に移転したという事のようです。

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昭和25年時点で沢田家は北条にありました。

昭和28年の『習字』誌に、持田に引っ越す時の情報が掲載されていました。

でも、松山の大空襲の時は市内に家があったはずなんですよね。

元警官だった曽祖父が避難誘導をしていて

中の川で亡くなったと聞いたはずなので。

この辺りはどうなっているのか、まだ調べる必要がありそうです。

※2022/5/17

この碑に関する計画図面を自宅で発見しましたので

追記しておきます。

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こんな風に依頼されるんですね。

結構具体的で分かりやすいですが、

実際のサイズ感で太さやイメージを膨らませるのが

大変な作業だと改めて気づきました。

※2022/9/27

家の中で文鎮を見つけましたので追記します。

そういえばこういう記念行事で文鎮贈られること

昔はとても多かったですよね。

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伊予市立北山崎小学校正門(1966(昭和41)年)

伊予市中村に、伊予市立北山崎小学校があります。

この北山崎小学校の正門の文字も沢田大暁が書いています。

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沢田大暁略歴にも書いてありますが、

大暁の教員生活の始まりは、道後小学校への赴任でした。

つまり、最初数年は小学校の教員をしていました。

その後愛媛師範学校(今の愛媛大学)の助教授になり、

終戦後、退職して松山東高校の教員になりました。

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多分こういう経歴も影響していると思うのですが、

習字誌でも、高校だけでなく小中学校の教員や大学教授と一緒になって

書教育をやっていこう、という姿勢が一貫して見えます。

基本の筆使いには特に厳しく、

基礎がなってないと思ったらバッサリ切り捨てるところもありました。

(まぁそのあたりは芸術家っぽいかもしれませんね)

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この北山崎小学校には親しくしていた教員仲間がおり、

毎年小松で行っていた書道コンクールには一緒に行くような間柄でした。

小松の書道コンクールについてはまた別で書きますけれども、

10年以上行っていたのできっと参加したことがある方もおられるでしょう。

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その北山崎小学校から依頼されて

昭和41年に学校の正門の文字を書いたようです。

記録には「看板」と書いてありました。

児童、生徒として通っていた時は正門って見ながら通っていなかったですけど、

毎日通う子供たちを出迎えて、見送っているんだなと思うと

なんだかすごく大切なものに思えてきますよね。

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龍眠会特集の「墨美」159号(昭和41年6月)

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森田子龍先生の墨美において龍眠会の特集が組まれた時

寄稿したのが沢田大暁でした。

そもそもこの表紙がオシャレですよね。

個人的に色も好きだし、デザインも気に入っている一冊です。

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森田先生は京都にお住まいでしたので、

日常的にお会いするわけではありませんでしたが

東京に行く折には新大阪で新幹線を降りて船に乗り継ぐ時によく訪ねているようでした。

森田先生からのご紹介で瀧井孝作先生にもお会いすることができたようです。

瀧井孝作先生「俳人仲間」についてはこちら

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そもそも大暁が河東碧梧桐の書に感銘を受けたのは

現在松山市役所のすぐ近く、お堀のわきにある

碧梧桐の句碑を見て感動したところからだと

俳句と書の中で大暁自身が回想していました。

そこから、碧梧桐について調べ始め、

碧梧桐の親戚の方(姪御さん)にコンタクトを取って直接お話を聞きに行くなど

精力的に調査していたようです。

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それがあったので、森田先生は碧梧桐の直弟子であった

瀧井孝作先生をご紹介くださったのだと思われます。

これは1965(昭和40)年のことです。

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それから資料など見せてもらったり、

東京の碧梧桐のお墓(梅林寺)を見にいったり、

碧梧桐が看板を書いた平安堂へ出向いたり、

親戚の方やら知り合いの方のつてをたどって資料を集め、

時には息子(=現会長:澤田大星)を引き連れて大阪へ碧梧桐の作品の写真を撮りに行ったこともあったそうです。

(澤田大星の思い出話で聞きました)

この、初めて滝井先生にお会いした時のことは

習字誌昭和40年9月号に掲載していますので

これについてもまたご紹介します。

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そういった資料をたくさん集めるうち、

それらをまとめて出さないかと森田先生からご提案があって、

瀧井先生からも資料をお借りするなどして

この特集に寄稿することができた、と記録に残しています。

大暁は生涯碧梧桐について研究しており、

「河東碧梧桐 俳句と書」という本を出版していますが

文章が長くなりすぎるのでその件はまた別の機会にお話ししたいと思います。

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『新潮』(1972(昭和47)年新年特大号)

瀧井孝作『俳人仲間』(1973(昭和48)年10月)

『河東碧梧桐 ―俳句と書―』(1982(昭和57)年1月)

70周年記念誌にしようかと考え中…

※クリックするとリンク先にとびます

今、皆さまからの70周年記念コメントを募集しています。

(締め切りは来月8日です!ぜひよろしくお願いします!)

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コメントやエピソードを頂いているうち、

これは記録として独立して残しておきたい!

という気持ちが私の中でむくむくと湧き起こってきています。

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むくむく。

道後公園句碑の裏書(昭和61年10月)

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道後公園北側出入り口(子規記念博物館の西側出入口)に

正岡子規・夏目漱石句碑があります。

ちょうど写真を撮った時がお花見シーズンだったので

背景に桜や提灯や出店が見えていますね。

この句碑の裏側の字を沢田大暁が書いています。

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今、この碑の裏側には立派なソテツが植わっているので

パッと見は分かりづらいかもしれないです。

でもよーく見るとちゃんと名前も書かれてありますよ!

ちなみにこの碑の日付は昭和61年11月2日ですが、

昭和61年10月20日に除幕式があり、

翌日10月21日の愛媛新聞にその記事がありましたので掲載しておきます。

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石碑は時間が経っても私が生きている間くらいはたいして摩耗もしないので、

見えるものを追いかけられることはありがたいことだと思います。

見えるものを探すこともまた、私の今の楽しみの一つです。

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第1回愛媛県学生書道展(『習字』1954(昭和29)年3月号、4月号)

今年2月に開催された第69回愛媛県学生書道展も、

勿論記念すべき第1回の時がありました。

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こちらは『習字』昭和29年3月号です。

下にあるページの中段部分に、第1回愛媛県学生書道展の

募集要項に関する記事が掲載されています↓

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まず主催が愛媛県習字教育研究会だけでなく

今治市教育委員会も主催になっています。

この時点でまずビックリですよね。

そして、

作品は一人一部門一点じゃなくても良いという点も現在とは違います。

また、最高賞が知事賞ではなくて今治市長賞な所も違いますね。

ちなみにこれは第1回だけの特徴で、

第2回愛媛県学生書道展からは知事賞が創設されています。

ですので、第2回愛媛県学生書道展で知事賞を獲得した方が

初代知事賞獲得者、ということになります。

初代知事賞は、永らく書道の先生として教鞭をとられていた柴田先生です。

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そしてなにより私が驚いたのは、

締め切り日から展覧会の会期までに5日しかないっていうところです。

これは一体どういうことなのでしょうね!

今の展覧会でも我々中の人はいっぱいいっぱいで

部門ごとや年齢ごとに作品を分けて、先生方を集めて審査して、

作品1枚1枚に金銀銅の賞の札を貼ったり賞状を作ったり

名前の不備がないか確認をしたり賞状の印や賞品を集めたり展示レイアウトを決めたり

展示のための棒に貼りつけたりするだけでも

5日なんかでは全然足りないと思うのですよ。

これは、やはり人海戦術…しかないですよね。

昭和20年代はまだまだ戦後色が強い頃だったはずですから

思い切り芸術に情熱を注げる環境や、

無から有を作り出す楽しみのような希望のような気持ちが

あったのかもしれません。推測ですけど。

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そして案の定(?)翌月、

めっちゃ大変だったという主旨の記事が掲載されていました。

昭和29年4月号の結果記事がこちらです↓

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それでもやりきるあたり、本当にすごいと尊敬します。

これからしばらく、展覧会場は各地の学校を転々としていきます。

巡回展みたいな感じで、自分の近くに会場が来るというのも

ある意味良かったのかもしれないと思います。

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『松山百点』創刊号(1965(昭和40)年3月号)と、愛媛タイムス(1965(昭和40)年4月5日号)

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『松山百点』という雑誌は現在も隔月で発行されており、

2022年現在のロゴは三代目ですよね。

初代の松山百点のロゴを沢田大暁が書いていましたので

今日はこれをご紹介したいと思います。

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この文字は特徴的なので、

この時代の松山百点をご存じの方だったら

見たことあるなと感じて下さると思います。

こういった書体は主に『六朝書』と呼ばれ、

河東碧梧桐もこういった書体で書いていました。

『六朝書』という言葉は大暁の残した文章の中にも度々登場します。

簡明 書道用語辞典(伊藤文生編 天来書院 2017年)によると、

『六朝時代の書。ただし、北魏を主とする北朝の書をいう。』

とあります。また、同じ辞典で『六朝』をひくと、

『後漢の滅亡後、隋の統一まで建業(現在の南京)に都した

 呉・東晋・宋・斉・梁・陳の六王朝』

とあります。

北魏の書というとどうも龍門の石窟の印象が強いですが、

河東碧梧桐とか中村不折とかの作品のイメージということだと思います。

(めっちゃ大雑把です。専門で研究されてる方ごめんなさい)

.

この松山百点の創刊号について、

愛媛タイムス(1965(昭和40)年4月5日号)で記事を見つけたのでこちらもご紹介します。

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この記事については記録が残っていて、

新聞が出た時に鴻池先生から大暁に電話を頂き、

表紙の書を褒めていたと教えてくださって

本人(大暁)も読んでみてすごく喜んだそうです。

銀座百点のイメージはそのままに、

それを六朝風の書として昇華させることで

松山らしさも表現できていると私も思います。

今はこのロゴではありませんけれど、

印象的なこの文字をぜひ観ていただきたくてここに掲載いたしました。

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俵原池 石碑 (1953(昭和28)年)

松山市北条にある俵原池(たわらばらいけ)には

石碑があります。

作品集で見つけたので撮影しに行ってきました。

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これが作品集内のページです↑

まず俵原池に初めて行ったので

行き着くまでにちょっと迷っちゃいました。

サンセットヒルズカントリークラブのすぐ近くなので、

そのつもりで看板を見ていくと良いと思います!

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作品集と同じアングルで写真を撮ってみました!

昭和28年ということは、沢田大暁はまだ30代です。

だからなのか、これには本名も書いてありますね。

最後に、その年の習字誌にもチラッと出ていましたのでご紹介します。

『習字』昭和28年7月号

後年の沢田大暁なら表紙に写真を使うくらいのことはしそうな気がしますけど、

まさかのたった4行!

逆にビックリしますよね。

立派な石碑でした。

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松山東高校内『明教館』にある『六曲屏風』(1951(昭和26)年)

松山市ホームページより

愛媛県立松山東高校には『明教館』と呼ばれる

愛媛県指定文化財建造物があります。

ここは昔伊予松山藩の藩校として

1828年から1874年まで使用されてきた建造物で、

正岡子規や秋山兄弟がここで勉強したことで有名です。

(詳しくは松山市ホームページをご覧ください)

この建物は現在、東高校かるた部の練習場所として使用されています。

伺った日が雨の日で外観の写真が撮影できなかったので

松山市ホームページの写真を掲載しておきます。

その中に、沢田大暁の六曲屏風が置かれています。

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↑普段は閉じた状態でしまってあります。

ちょうどすぐ上に河東碧梧桐の扁額が飾ってありました。

この屏風は毎年文化祭の時に開いて飾るので、

観たことがある卒業生は多いと思います。

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開くとこんな感じです。

私が在学していた頃からずっとここに置いてくださっているので

たくさんの人の目に触れることができて

作品も喜んでいると思います。

もう何十年も生徒たちの目に触れるところで

活かしてもらっているのだと感じました。

また、屏風の配色が明教館の中の壁の色や天井の色や畳の色と

とてもよく合っていて、

明教館の雰囲気をより高尚なものにしている感じがしました。

今後もここで活躍してくれると期待しています。

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※2022/4/27追記→2022/5/1訂正

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「澤田大暁近作集」より

とても大きなミスをしていたことに気が付きました。

まさかの六曲屏風内容間違いをしておりました。

こちらが正解です。

昭和27年、日展初入選の作です。

そんな記念すべき作品を学校に寄贈していたとは思っていなかったので

驚いたとともに、そういうことを確かにやるかもしれない、とも思いました。

こちらは杜甫「哀王孫」という詩です。

安史の乱で没落した皇族を詠んだ詩だそうです。

私は安史の乱=玄宗皇帝=楊貴妃

みたいな短絡的な思考回路だったのですが、

この詩を読むとなんだかすごく哀愁を感じるというか

単純に正義と悪みたいなものは無くて

複雑で混沌としたものなのだなと思いました。

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松山東高校、松山北高校寄贈『山部宿祢赤人至伊予温泉』歌

【失われたシリーズ④】愛媛県立松山東高等学校門標

松山東高校生徒会誌『青柳』創刊号(1965(昭和40)年3月)

松山市青少年センター入り口(1971(昭和46)年)

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松山市青少年センター

松山市築山町という松山東高校や松山商業高校の近くにある施設です。

自習はできるしスポーツもできるし学校からも近いので

私自身も高校生の頃にはよくお世話になりました。

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この青少年センターの入口には、

(写真には写っていませんが)右手に白い看板があるので

そちらの印象が強いかもしれませんが、

この写真にあるように入口には石の名前が彫ってあります。

そして、この青少年センターと書いてある文字を

沢田大暁が書いています。

このセンターができる時に持田にあった大暁の家に依頼があり、

三種類作って渡したと記録があります。

それが1971(昭和46)年なので、

青少年センターができたのとは時期がズレるかもと思うのですけれども、

残念ながら青少年センターができた時期が分かりませんでした。

この入口も今も使っていただいている

生きた遺産だなと思っています。

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