『昭和三十一年書初會並びに書道講習會』 習字 (1955(昭和30)年12月号)

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競書雑誌『習字』昭和30年12月号です。

この年、『昭和三十一年書初會並びに書道講習會』が初めて開催されました。

その案内が下の画像のページにあります。

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御幸中学校というのは、昭和58年まであった中学校で、

今の松山市立東中学校です。

昭和58年に御幸中学と城東中学が合併して東中学校になりました。

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ところで蛇足ですが、城東中学といえば

今の二之丸庭園のところにあった学校ですよね。

跡地として今も石碑があったように思います。

で、実は1967(昭和42)年、沢田大暁は城東中学へ

『立志』という作品を寄贈しているのです。

今はどうなっているんでしょうね。

ダメ元で東中学校に聞くかどうか迷うところです。うーむ。

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さて、この書き初め会ですが、

形を少しづつ変えて、長く続くことになります。

この初回は午前が講習会、午後が書き初め会ですね。

そのうち午前に書き初め会、午後に審査と表彰、という

一日で完結するコンクールへと変わっていきます。

開催地も、小松小学校に固定となりました。

東予、中予の方は参加された方もおられるでしょう。

一日で審査結果が発表されるなんてすごいスピードですよね。

でも、書いたその日に自分の評価が聞けるなんて、

参加している子どもたちにとっては嬉しいことだったのではないかな、と思います。

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今治明徳短期大学正門(1979(昭和54)年)

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愛媛県今治市に今治明徳短期大学があります。

この題字揮毫も澤田大暁作品集で知りました。

そうは言っても作品集に掲載されているのは一部なので

何もかもが記録として残っているわけではないのが

今調べていて難しいと感じているところです。

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こちらが現在の今治明徳短期大学の様子です。

作品集の白黒写真で見るよりずっと明るくてきれいですね!

詳細についてはまだ調査中のため、

この作品については分かり次第また追記します。

※2022/5/7

1978(昭和53)年12月20日に、

当時の学長であった宮本七郎氏が訪れて、

この門札の依頼をしたようです。

宮本先生の奥様が大暁の妻の友人で親友だったご縁だそうです。

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「墨美」第300号創刊30周年記念「1980年の書」(1981(昭和56)年8月)

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森田子龍先生の墨美300号記念「1980年の書」です。

この中の112、113ページに沢田大暁が掲載されています。

(左側の作品写真の右側の文字のところに

 思いきり住所と電話番号が掲載されていたので

 今のご時世では問題となる個人情報は消しました。)

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この書(画像左側の作品)について、

大暁は「捨心」というタイトルで隣のページに随筆を寄稿しています。

(上の画像の随筆部分を文字に起こしました)

—以下引用—

 感情の律動的表現を如何に書の上に表現し得るか、と私は生活の中に一体化しようとしている。その為、日常の喜怒哀楽の感動が、深浅はあっても、書に結びついている。それで私は、純粋な人間への希求を祈っている。世間の人たちの一面がよく見えるからである。
 現代の書を見ると、技術的には高いものがあるが、あまり魅力を感じない。それは格調が乏しいからであろう。また一定の技巧・方法が癖になって、独創性や新味を欠くからであろう。
 私は自然を愛し、人を愛し、自己をつとめて愛そうとしている。昨日の自分でないものを、今日見出そうとしているためである。過去を捨てて、現代に生きようとしているのは、その底流は古典を自己の感情の律動性に植えて、そうして多数字を書き、前衛書も書き、今は少字数を書いている。その少字数も変化しつつある。その中間報告が今回の朗嘯である。

—ここまで—

大暁の随筆を読んでいると、

初見のはずなのに考え方が私とよく似ていると思うところがあります。

筆遣いのテクニックを見せる、

画面構成の面白さを追求する、

派手さを求めるなど、

そういったことはもちろん日頃の鍛錬の成果ではありますけれども、

まず最初に自分の感動があって、それを表現するための手段でなければ

ほかの人を感動させるような作品はできない、ということだと思います。

主と従が逆転している作品が増えてきていると

昭和56年時点で憂えている様子が見て取れます。

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60代にしてまだまだ変化していこうというこの姿勢を

自分が60代になった時にも持てているかな、と

ちょっと心に留めておこうと思いました。

変化を恐れず変わる自分を楽しみたいものですね。

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西条高校表大看板(1966(昭和41)年10月)

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愛媛県立西条高等学校といえば、

この一見お城かと見紛うほどの立派な正門ですよね。

そもそもお堀の中に学校があるというのが珍しいです。

ここと松山東雲女子中学・高等学校の正門は本当に良いと思います。

(↑個人の感想です)

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昭和41年10月21日(金)の記録に、

「西条高校の表大看板を書く。

 快心の作とはいかなくともかなりなものが仕上った。」

とありました。

どうやらお気に入りの作のようです。

おそらく

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↑この看板だと思います。

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もうすぐ60年経つのでだいぶ薄くなっていますが

これはこれで門の風合いと合っていて趣きがありますよね。

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実は私、たまたま数年前にこの門を観に行ったんですけど、

その時は大暁が書いたことを知らなかったのでスルーしちゃったんですよね。

知っていればもっとよく見ていたし周りにも宣伝しただろうに…と

今更思います。

後悔先に立たず。

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※2022/5/11追記

西条高校に収蔵してある大暁作品を観に行った時に

近くで写真を撮りました。

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近くって本当に接写です笑

「校」という文字のところです。

よく見ると、書いた文字の部分だけ少し盛り上がって見えますよね。

盛り上がるような物(墨に何か混ぜるとか?)とも想像しましたが、

大星先生や明佳先生にも見てもらって意見を聞きました結果、

これは板に直接墨で書いていて、

墨で書いた部分と書いていない部分とで木の瘦せ方が違ったのではないか

ということになりました。

だからこれは盛り上がっているのではなくて、

周りの木が痩せたのでそう見えるだけかもということでした。

なるほど。

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西条高校蔵『緑葵昌』扁額(1965(昭和40)年3月) 

愛光学園正門(1972(昭和47)年)

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『澤田大暁作品集』(p.137 昭和60年 正能商会)でこの写真を見つけたので、

写真を撮りに行ってきました。

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ら、

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正門付近は現在工事中でした。

(画面中央付近にある黒っぽい横長の長方形部分が揮毫した石です)

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新校舎ができるにあたり、旧校舎を取り壊しているようです。

OBに聞いたところ、グラウンドだったところが校舎になって

校舎だったところがグラウンドになる感じだと思う、とのことです。

なるほど…でもなんだか解体されている姿ってちょっと切ないですね。

そして図書館を心配されている皆様、

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図書館は健在でした。

校舎と繋がっていた気がするので一体向こう側がどうなっているのか分かりませんが

解体工事が終わったころに別の石碑を撮影しに行く予定があるので

(↑事務の方に許可を得ました)

その時見たいと思います。乞うご期待。

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題字部分も健在でした。

今後も正門が正門のままなのかどうか分かりませんけれど

少なくとも今ここにあるうちに撮影できて良かったです。

参考までに、ありし日の正門の様子も掲載しておきますね。

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個人的にはこういう正門って唯一無二の書体で書かれてあると

自分たちだけのもの感が出て良いんじゃないかと思っているので

この揮毫した文字はどうにか残ってほしいなあと思っています。

※2022/5/20追記

1972(昭和47)年9月19日の朝、

田中忠夫先生が大暁に「愛光学園」の文字と「定礎」の文字を

頼みに来た、と記録がありました。

最初、大暁は田中先生が書くのが一番良い、と

手本を書いて渡したそうなのですが、

結局後世に残った場合字そのものの善し悪しが問題になるから、と

大暁が書くことになった、とありました。

その後、11月3日、田中校長が県文化功労章を受けてから愛光学園に戻ってきて、

愛光学園同窓会二十周年記念が行われ、その時に出来上がった門標を見た、

と書いてありました。

その会の時に、大暁は壇上で田中先生へ差し上げる六曲屏風を

その場で揮毫しました。内容は以下の通りです。

「賦謹呈田中忠夫先生  沢田大暁
 碩学鶴身絶俗塵 其仁如水智彬々
 孳々鞠育二十戴 煌々愛光鳳暦新」

という自作の漢詩を書いたそうです。

2023/3/17追記

この2月末に工事が完了したというので正門の様子を見て来ました。

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大変残念なことに、もとの正門は跡形もなくなっておりました。

当然門標も違います。

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諸行無常ですね。

残念な気持ちはもちろんありますが、

逆に、前回のあのタイミングで門標を撮影することができていて

本当に良かったと思いました。

おかげで写真として残すことができました。

物はなくなったとしても、過去の繋がりが消えるわけではありませんものね。

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愛光学園生誕地の石碑(1978(昭和53)年3月)

愛光学園内『日野荘氏 顕彰碑』(昭和53年3月)

愛光学園二期生『にぎわい』リレーマラソン(1986(昭和61)年10月)、(『習字』1986(昭和61)年12月号)

『四季瀬戸の味 たにた』看板

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松山市二番町に『四季瀬戸の味 たにた(食べログにとびます)』はあります。

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魚料理がおいしいお店です。

このお店の文字が沢田大暁の作です。

昭和の頃からあるので、

今逆に新鮮で良い雰囲気だと思います。

懐かしい感じで素敵なお店です。

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というか、和食のお店ってやっぱり

筆文字看板が良いですよね。

タイポグラフィでも、手書き筆文字でも、

大衆的にも高級感も書くことができるので

文字だけでお店の雰囲気を伝えることができるところが

看板のすごいところだよなと思います。

これはお酒のラベルとかでもそうですよね。

見てるだけで面白いです。

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「愛媛県女子師範学校・同付属小学校跡」碑(1977(昭和52)年)

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松山市須賀町に、愛媛県女子師範学校跡地の碑があります。

愛媛県女子師範学校が明治43年10月から昭和25年11月まで、

附属小学校が明治44年4月から昭和25年11月までこの地にあったことを示す石碑です。


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沢田大暁は、愛媛県師範学校には昭和18年から昭和25年まで助教授として勤めました。

ちょうど愛媛県師範学校が愛媛大学になるタイミングで大学を退職し高校教師になりました。

第二次世界大戦は大学に勤めていたんですね。

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愛媛大学、と名称が変わり新しくなるときに、

愛媛県師範学校と愛媛県女子師範学校がひとつになりました。

そこで、今の愛媛大学に移転したという事のようです。

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昭和25年時点で沢田家は北条にありました。

昭和28年の『習字』誌に、持田に引っ越す時の情報が掲載されていました。

でも、松山の大空襲の時は市内に家があったはずなんですよね。

元警官だった曽祖父が避難誘導をしていて

中の川で亡くなったと聞いたはずなので。

この辺りはどうなっているのか、まだ調べる必要がありそうです。

※2022/5/17

この碑に関する計画図面を自宅で発見しましたので

追記しておきます。

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こんな風に依頼されるんですね。

結構具体的で分かりやすいですが、

実際のサイズ感で太さやイメージを膨らませるのが

大変な作業だと改めて気づきました。

※2022/9/27

家の中で文鎮を見つけましたので追記します。

そういえばこういう記念行事で文鎮贈られること

昔はとても多かったですよね。

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伊予市立北山崎小学校正門(1966(昭和41)年)

伊予市中村に、伊予市立北山崎小学校があります。

この北山崎小学校の正門の文字も沢田大暁が書いています。

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沢田大暁略歴にも書いてありますが、

大暁の教員生活の始まりは、道後小学校への赴任でした。

つまり、最初数年は小学校の教員をしていました。

その後愛媛師範学校(今の愛媛大学)の助教授になり、

終戦後、退職して松山東高校の教員になりました。

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多分こういう経歴も影響していると思うのですが、

習字誌でも、高校だけでなく小中学校の教員や大学教授と一緒になって

書教育をやっていこう、という姿勢が一貫して見えます。

基本の筆使いには特に厳しく、

基礎がなってないと思ったらバッサリ切り捨てるところもありました。

(まぁそのあたりは芸術家っぽいかもしれませんね)

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この北山崎小学校には親しくしていた教員仲間がおり、

毎年小松で行っていた書道コンクールには一緒に行くような間柄でした。

小松の書道コンクールについてはまた別で書きますけれども、

10年以上行っていたのできっと参加したことがある方もおられるでしょう。

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その北山崎小学校から依頼されて

昭和41年に学校の正門の文字を書いたようです。

記録には「看板」と書いてありました。

児童、生徒として通っていた時は正門って見ながら通っていなかったですけど、

毎日通う子供たちを出迎えて、見送っているんだなと思うと

なんだかすごく大切なものに思えてきますよね。

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『書道』(1963(昭和38)年5月)

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この本のことをご知の方はおられるでしょうか。(※最後に追記あり)

昭和38年発行の沢田大暁著『書道』です。

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この本は競書雑誌『習字』創刊号からの記事を加筆・修正し

本として発行したものです。

ちなみに創刊号は「鑑賞の仕方」について書いてあったので

順番なども本にするにあたって変えているようです。

本としてまとめたのが昭和38年なので

およそ10年分の記事がまとまっているということになるでしょう。

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そういうわけでこの度、競書雑誌『習字』では、

2022年6月号からこの本の記事を

分割して掲載していくことが決定いたしました!!

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本人が書いた文章をそのまま掲載する予定ですので、

文章からなんとなく大暁の感じがする記事になると思います笑

言い回しとか、言葉のチョイスとか、

そういうちょっとした部分に人柄って出ますよね。

もしかしたらこの頃の習字誌をご存知の方は

『見た事あるかも』とか『読んだことあるかも』と

懐かしく思っていただけるのではと期待しています。

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文字の成り立ちから順を追ってゆっくり進むので、

書を知らない方にも分かりやすい内容だと思います。

鑑賞の仕方についてけっこう独特の表現をしているので

そのあたりもまた大暁らしいなと個人的には気に入っています。

ぜひぜひお楽しみに☆

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(※2022/5/5追記)

当時在校生だった方からご指摘がありました。

この本は松山東高校の書道の授業の副教材として

書道を選択していた方には全員配られていたそうです。

副教材にして良いかの許可は愛媛県教育委員会へ取りに行っていたのですが

その後の記述が無く、そのままになっていたのかと思っていました。

記録を読み返してみると、1963(昭和38)年6月に

松山商業高校へ18冊、松山南高校へ50冊納めているようですし

少なくとも三校では副教材として使用されたようです。

教えて下さりありがとうございました。

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龍眠会特集の「墨美」159号(昭和41年6月)

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森田子龍先生の墨美において龍眠会の特集が組まれた時

寄稿したのが沢田大暁でした。

そもそもこの表紙がオシャレですよね。

個人的に色も好きだし、デザインも気に入っている一冊です。

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森田先生は京都にお住まいでしたので、

日常的にお会いするわけではありませんでしたが

東京に行く折には新大阪で新幹線を降りて船に乗り継ぐ時によく訪ねているようでした。

森田先生からのご紹介で瀧井孝作先生にもお会いすることができたようです。

瀧井孝作先生「俳人仲間」についてはこちら

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そもそも大暁が河東碧梧桐の書に感銘を受けたのは

現在松山市役所のすぐ近く、お堀のわきにある

碧梧桐の句碑を見て感動したところからだと

俳句と書の中で大暁自身が回想していました。

そこから、碧梧桐について調べ始め、

碧梧桐の親戚の方(姪御さん)にコンタクトを取って直接お話を聞きに行くなど

精力的に調査していたようです。

.

それがあったので、森田先生は碧梧桐の直弟子であった

瀧井孝作先生をご紹介くださったのだと思われます。

これは1965(昭和40)年のことです。

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それから資料など見せてもらったり、

東京の碧梧桐のお墓(梅林寺)を見にいったり、

碧梧桐が看板を書いた平安堂へ出向いたり、

親戚の方やら知り合いの方のつてをたどって資料を集め、

時には息子(=現会長:澤田大星)を引き連れて大阪へ碧梧桐の作品の写真を撮りに行ったこともあったそうです。

(澤田大星の思い出話で聞きました)

この、初めて滝井先生にお会いした時のことは

習字誌昭和40年9月号に掲載していますので

これについてもまたご紹介します。

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そういった資料をたくさん集めるうち、

それらをまとめて出さないかと森田先生からご提案があって、

瀧井先生からも資料をお借りするなどして

この特集に寄稿することができた、と記録に残しています。

大暁は生涯碧梧桐について研究しており、

「河東碧梧桐 俳句と書」という本を出版していますが

文章が長くなりすぎるのでその件はまた別の機会にお話ししたいと思います。

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『新潮』(1972(昭和47)年新年特大号)

瀧井孝作『俳人仲間』(1973(昭和48)年10月)

『河東碧梧桐 ―俳句と書―』(1982(昭和57)年1月)