龍眠会特集の「墨美」159号(昭和41年6月)

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森田子龍先生の墨美において龍眠会の特集が組まれた時

寄稿したのが沢田大暁でした。

そもそもこの表紙がオシャレですよね。

個人的に色も好きだし、デザインも気に入っている一冊です。

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森田先生は京都にお住まいでしたので、

日常的にお会いするわけではありませんでしたが

東京に行く折には新大阪で新幹線を降りて船に乗り継ぐ時によく訪ねているようでした。

森田先生からのご紹介で瀧井孝作先生にもお会いすることができたようです。

瀧井孝作先生「俳人仲間」についてはこちら

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そもそも大暁が河東碧梧桐の書に感銘を受けたのは

現在松山市役所のすぐ近く、お堀のわきにある

碧梧桐の句碑を見て感動したところからだと

俳句と書の中で大暁自身が回想していました。

そこから、碧梧桐について調べ始め、

碧梧桐の親戚の方(姪御さん)にコンタクトを取って直接お話を聞きに行くなど

精力的に調査していたようです。

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それがあったので、森田先生は碧梧桐の直弟子であった

瀧井孝作先生をご紹介くださったのだと思われます。

これは1965(昭和40)年のことです。

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それから資料など見せてもらったり、

東京の碧梧桐のお墓(梅林寺)を見にいったり、

碧梧桐が看板を書いた平安堂へ出向いたり、

親戚の方やら知り合いの方のつてをたどって資料を集め、

時には息子(=現会長:澤田大星)を引き連れて大阪へ碧梧桐の作品の写真を撮りに行ったこともあったそうです。

(澤田大星の思い出話で聞きました)

この、初めて滝井先生にお会いした時のことは

習字誌昭和40年9月号に掲載していますので

これについてもまたご紹介します。

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そういった資料をたくさん集めるうち、

それらをまとめて出さないかと森田先生からご提案があって、

瀧井先生からも資料をお借りするなどして

この特集に寄稿することができた、と記録に残しています。

大暁は生涯碧梧桐について研究しており、

「河東碧梧桐 俳句と書」という本を出版していますが

文章が長くなりすぎるのでその件はまた別の機会にお話ししたいと思います。

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『新潮』(1972(昭和47)年新年特大号)

瀧井孝作『俳人仲間』(1973(昭和48)年10月)

『河東碧梧桐 ―俳句と書―』(1982(昭和57)年1月)

『松山百点』創刊号(1965(昭和40)年3月号)と、愛媛タイムス(1965(昭和40)年4月5日号)

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『松山百点』という雑誌は現在も隔月で発行されており、

2022年現在のロゴは三代目ですよね。

初代の松山百点のロゴを沢田大暁が書いていましたので

今日はこれをご紹介したいと思います。

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この文字は特徴的なので、

この時代の松山百点をご存じの方だったら

見たことあるなと感じて下さると思います。

こういった書体は主に『六朝書』と呼ばれ、

河東碧梧桐もこういった書体で書いていました。

『六朝書』という言葉は大暁の残した文章の中にも度々登場します。

簡明 書道用語辞典(伊藤文生編 天来書院 2017年)によると、

『六朝時代の書。ただし、北魏を主とする北朝の書をいう。』

とあります。また、同じ辞典で『六朝』をひくと、

『後漢の滅亡後、隋の統一まで建業(現在の南京)に都した

 呉・東晋・宋・斉・梁・陳の六王朝』

とあります。

北魏の書というとどうも龍門の石窟の印象が強いですが、

河東碧梧桐とか中村不折とかの作品のイメージということだと思います。

(めっちゃ大雑把です。専門で研究されてる方ごめんなさい)

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この松山百点の創刊号について、

愛媛タイムス(1965(昭和40)年4月5日号)で記事を見つけたのでこちらもご紹介します。

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この記事については記録が残っていて、

新聞が出た時に鴻池先生から大暁に電話を頂き、

表紙の書を褒めていたと教えてくださって

本人(大暁)も読んでみてすごく喜んだそうです。

銀座百点のイメージはそのままに、

それを六朝風の書として昇華させることで

松山らしさも表現できていると私も思います。

今はこのロゴではありませんけれど、

印象的なこの文字をぜひ観ていただきたくてここに掲載いたしました。

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「文化愛媛」創刊号(昭和57年1月)

現在も愛媛県文化振興財団から発行されている、

「文化愛媛」という雑誌があります。

この創刊号の特集として「子規の系譜」が組まれ、

その中で河東碧梧桐の短詩についての記事を寄稿しています。

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たったの17音でも

そこにはストーリーがあるっていう話ですよね。

発句であり、俳句であり、俳諧というのは、

つまりは短詩であるっていう

そういう話なのかなと思って読みました。

小学生の頃ってことあるごとに俳句作ってて

俳句作るのなんて楽勝な気分でしたけれど

(いや勿論上手とか下手とかは抜きにしてですよ)

大人になっていざ作ってみようと思うと

これがけっこう難しいんですよね。

たったの一言、言葉を変えただけで

句そのものの雰囲気がガラッと変わってくるところが

面白くて難しいと思います。

習字誌をご覧の皆様にはおなじみだと思いますが

大暁自身も俳句はよく作っていて句集も出していますよね。

おそらくかなり昔から作っていたようです。

季節を大切にしたり、

意識的に生活の中の驚きを発見したりすることは

芸術をする上でとても大切なことだと思います。

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墨36号(1982年5月号)特集:虚子と碧梧桐

1982年(昭和57年)の墨36号に、

8ページにわたって高浜虚子と河東碧梧桐について

執筆させていただいています。

この頃の日記には、校正を郵送でやり取りしている様子が書かれてあり、

こちらからは毎回速達で送っていることが伺えます。

こういった研究では毎回全国を車で飛び回って作品の写真を撮り、

こまめに整理してはまとめていたようです。

退職していたとはいえ忙しかったはずなのに、

時間というのは捻出すればあるものなんだなと

改めて私もちゃんと生きようと思いました。

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瀧井孝作『俳人仲間』(1973(昭和48)年10月)

沢田大暁の足跡シリーズ。

瀧井孝作『俳人仲間』(1973(昭和48)年10月15日発行 新潮社)です。

初版本を頂いたようです。

3枚目の右ページに沢田大暁が登場していますのでご注目ください。

瀧井先生とは親交があり、松山に来られた際には自宅にも泊まりに来てくださったと

この後のページに詳細な記述があります。

また、別の随筆にも登場するようで、

東京と愛媛という離れた場所に住んでいながらも近しい

付き合いがあったことが分かります。

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『太陽』10月号-No.52(1967(昭和42)年9月)

『新潮』(1972(昭和47)年新年特大号)

河東碧梧桐特集の「墨美」164号(昭和41年12月)

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我が家の本棚にはあふれんばかりの本があるのです。

こちらは雑誌「墨美」164号。

ちなみに墨美は創刊号から200号以上保管してあります。

雑誌って、意外と貴重なんですよね。

大学院の頃に雑誌の複写依頼をたくさんしてきたので

家にこんなにあるとなると宝の山のようです。

逆にいえば大学院に行かなければこの貴重さが分からなかったとも思いますけれど。

さて、この「墨美」164号は河東碧梧桐の特集で、

大暁が座談会に参加しています。

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碧梧桐の研究をしていたことは知っていても

どこでどんな活動をしていたのか、

孫の私にははっきりと分からないことが多いです。

少しずつ本棚を探検して、

研究内容についてどんなことを語っていたのか調べています。

少しずつ大暁の興味が伝わってくると同時に、

私自身の勉強になって面白いです。

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※2022/4/22追記

この『墨美」の記事について書かれてある

愛媛新聞(昭和41年12月16日)を見つけました。

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碧梧桐の書風の変化を四つに分けることを考えたのは

瀧井先生だったように思いますが、

それをもとにして年譜を作ったり、

それを瀧井先生にお見せして確認を取ったり、

このあたりの大暁の日記は碧梧桐の調査・研究について多く語られています。

親族の方に作品をみせていただき写真を撮ってそれを現像に出すなど、

調査を楽しそうにしている様子が伝わります。

また、この雑誌が発刊されてから、

いろいろな方に贈呈しているところを見ると

とても嬉しかったんだろうなと想像できて

読んでいるこちらも嬉しくなります。

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