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【失われたシリーズ④】愛媛県立松山東高等学校門標

遠い昔、松山東高校の門標を書いていたこともありました。
父の入学時(1967(昭和42)年4月)にはすでに今と同じ横書きの門標だったらしいので
昭和40年から42年の数年の間に代わったようです。
ちなみに、この頃に本館も建て替わっています。
今はもうないですが、校舎の両側に吹きっさらしの廊下があった建物です。
風通しがよかったですよね笑
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このあたりの日記は改めて通して読んだのですが、
門標に関する記述をみつけることができませんでした。
今度、機会があれば学校にも問い合わせてみようと思います。
たいてい探せば他にも問い合わせたい内容が出て来そうなので
まとまってから聞こうかと考えています。
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これとは別に、東高校では図書館の門標も書いていたはずなのですが、
以前学校を訪問した際図書館の方に伺ったところ
当時の図書館があった場所には体育館(旧 東体育館)が建っているため
学校内には残って無さそうだと云う事でした。
こちらは現在の図書館にも遠景の写真しかなく、
残念ながら門標は写っていませんでした。
ざんねんむねん。。。
(2023/4/22追記)

1957(昭和32)年の卒業アルバムで正門の写真を見つけました!
東高校図書館の先生方、快く閉架図書を見せていただきまして
本当にありがとうございました。
後ろにあるのが建て替え前の本館です。
しかし、この写真の門標は大暁のものではありませんね。
「県」が旧字体の「縣」になっていますし、
「高等学校」の部分の消え具合から見ても違うと思います。
これより後だったのかもしれませんね。

こちらは1959(昭和34)年の卒業アルバムです。
校舎側から門を見ているところだと思います。
左側が瓦礫に見えるのですが、これは…がれきか図書館建設前の状況なのか…?

こちらは百周年記念誌に掲載されていた正門の写真です。
門は縦書きですが文字は不鮮明でよく見えません。
結局のところ「よく分からない」という結論になってしまって残念です。
昭和32年のものと比べると、体育館や本館(第一教棟)の様子が違っていて
時代によってどんどん変わっていった様子が分かりますね。
【失われたシリーズ③】愛媛県立松山西高等学校門標(1975(昭和50)年)

こちらは現在の愛媛県立松山西中等教育学校です。
その名の通り、中高一貫の6年制の教育機関です。
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中等教育学校の前身である愛媛県立松山西高等学校は、
1974(昭和49)年4月1日に誕生しました。
現在では愛媛県立松山西中等教育学校になったため、
高等学校ではなくなりましたが
創立当初の門標を澤田大暁が揮毫していました。
さすがにもう無いかな…と半ば諦めモードで問い合わせましたが、
なんと!資料室に現在も所蔵されているということで、
さっそく撮影しに行ってまいりました!!わーい!

取り外す際に折れてしまった部分はあるものの、
当時そのままの門標が観られて本当に嬉しかったです。
自分が写り込まないように注意して撮影したので
なかなか良い感じに撮ることができました。
石に彫られた門標でしたので、綺麗なままの姿だったのが嬉しかったです。
こういった感じで統廃合された学校でも
もしかしたら現存する作品があるかもしれない、と
期待することができた有意義な取材でした。
西中等教育学校で対応して下さった皆さま、ありがとうございました!
松山市立湯築小学校校歌の額

松山市立湯築小学校は
昭和40年に校舎が出来上がり道後小学校と分離しました。
(湯築小学校10周年記念誌より)
この湯築小学校の体育館には、
現在でも澤田大暁が書いた校歌の額が飾られています。

遠目では分かりにくいですよね。
ちなみに、舞台の反対側にある水墨画は
石井南放先生のものでした。
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近づいてみると…

私の母校の小学校では木彫りの校歌が掲げられていたので
紙に筆で書いてあるのが新鮮で驚きました。
下にちゃんと名前も書いて下さっていてありがたかったです。
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小学生にも読める字で書いてあり、
軽やかでリズミカルな作品でした。
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そしてここにも

「大暁道人」の印影が使われていました。
伏見冲敬先生から頂いた印です。
学校に寄贈する用なのでしょうか?
記録はいまのところ見つかっていませんが
もしかしたらそうなのかもしれません。
また謎が深まってきてしまいました。
愛媛県女子薬剤師会誌『たちばな』(1975(昭和50)年9月)

愛媛県女子薬剤師会は、現在の愛媛県女性薬剤師会だと思われます。
昭和50年に20年を記念して作られた記念誌の表紙文字を
澤田大暁が書いております。
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当時の日記には当日のことが書かれておらず、
9月30日に
「昨日頼まれた「愛媛県薬会報」を書いてみる。プリントの表紙にするらしい。」
と書いてありました。
そのため、普通の会報(通常の定期会報)かと思っていましたし
会報といってもプリントなのかと想像していました。
しかし、調べていただいたところ
こんな立派な冊子を発見していただけました!
古いものですし図書館などには置いておらず半ばあきらめておりましたので
本当にありがたく、うれしかったです。
ありがとうございました!
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ていうかこれ「プリント」とかじゃ全然ないじゃん…
と心の中で突っ込んでしまいました。

編集後記にはちゃんと名前も書いていただいており、
ありがたいかぎりです。
もうちょっと日記に詳細を書いてくれていれば、と
思わないでもないですが、
こうやって一つ一つ見つけていくのは私にとって
まさに宝探しのような感じです。
残しておいてくださったことに感謝です。
70周年記念誌を送付しました(報告遅くてすみません)

TwitterとInstagramでは書いていましたが
こちらに書いていなかったので備忘録。
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私が今年調べてきたことをまとめ、
習字誌の理念と絡めて書いた記念誌を発刊いたしました。
じつはまだまだ足りないのですが、
70周年という年のうちに発刊することができたという点に
意義があると思っています。
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そしてなにより私自身が一番楽しかったです。
それもこれもひとえにご協力いただいた皆様方のおかげです。
ありがとうございました!
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正直まだまだ調べ足りないし書き足りないしで
ますますやる気になっております!
それくらい楽しかったです。
私は調べたりまとめたりすることが好きなんだなと改めて思いました。
澤田大暁の足跡ページはこれからもまだまだ追記される予定ですので
今後ともよろしくお願い致します!
楽しく読んで下さると嬉しいです。
『子規遺墨』書籍編を推す(愛媛新聞1975(昭和50)年11月8日)

『子規遺墨』は、山上次郎氏が監修した
全三編(書跡編・絵画編・書簡編)の正岡子規の遺墨集です。
山上次郎氏は愛媛県出身の歌人、文筆家で
愛媛県議会議員も務めておられた方のようです。
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大暁はご本人と友人関係にあったわけではなく、
愛媛新聞文化部の方から推薦文を頼まれてこの文章を書いたそうです。
日記によれば、大暁原稿で14枚書いたとか。
あ。
大暁原稿って知ってる人にしか通じないですよね。
200字詰めの原稿用紙で、左下に沢田大暁原稿って書いてあるんです。
うちにまだあります。
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頼まれてから山上次郎さんの本をたくさん読み始めた様子で、
原稿が終わってからも本を買ってきては読んでいたようです。
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【追記】大暁原稿の写真も載せておきます!↓

愛媛大学教育学部附属中学校内『行く河』像裏書き(1981(昭和56)年11月)

愛媛大学教育学部附属中学校の中庭に
『行く河』という像がたっています。
この像は(おそらく「行く河」の文字も??)、彫刻家の伊藤五百亀さんが作ったものです。
現在の西条市出身であった伊藤五百亀さんの作品は、
西条市の鉄道歴史パーク in SAIJOにある十河信二像、
松山東高校にある安倍能成像や、
松山市立子規記念博物館にある正岡子規像でも見ることができます。
そして、以前ご紹介しました
加藤拓川像を制作されたのも伊藤五百亀さんです。(背面にサインがあります)
少なくとも昭和38年から大暁とも手紙のやり取りでお付き合いがあったようで
そう思うと長いお付き合いですよね。
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さて、そんなわけでこの『行く河』像の裏書を大暁が書いています。
「行く河」という正面の文字は大暁のものではなさそうですので
もしかしたら伊藤先生がお書きになったのかもしれません。(不明です)

↑この背面から見たところにあるプレートです。

プレートを拡大したところがこちら↑です。
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ちょうどこの時の附属中学校の校長先生が洋画家の小泉政孝先生で、
県展座談会(愛媛新聞1967(昭和42)年5月4日)でご紹介したように
県展でもよく会う間柄でしたので
11月の除幕式の際は前日の夜から前夜祭と称して飲んでいたようでした。
楽しそうなやり取りが伝わってきますね。
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附属中学校のあった場所は昔、今は愛媛大学に統合されている
旧制松山高等学校がありました。
現在の場所に附属中学校ができたのが昭和38年のことで、
現会長の大星が小学6年生の頃だったそうです。
ご存知の方も多いと思いますが大暁の家はこの学校のすぐ近くにありましたので
大星は中学校が近いところにやってきた!と喜んで
附属中学校に入学したと言っていました。
しかも当時は幼・小・中学校をぐるりと囲う鉄の柵は生垣だったので…(以下自粛)
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現在でもとてもよく見える所に立つこの像が
残って見守られていることを嬉しく思いました。
松山北高校門標(1975(昭和50)年6月)

愛媛県立松山北高校です。

前にこちらに伺った時から、
この門標の文字には見覚えがある気がするぞ、と思っていました。
どう見てもこれは大暁の筆跡だと思うなと思っていたところ、
それらしい記述を発見しました。
1975(昭和50)年4月2日
学校の門標文字をたくさん書く。
二時半まで書く。たくさんの中から4、5点選出しておく。
いつもなら「○○学校」と学校名を書くのに学校名がないので
これでまさかのここじゃなかったらショックなのですが、
1975(昭和50)年6月12日
松山北高校第5教棟が完成したので今日は式典があった。小生が門標を書いておいたがそれが出来たので写真を撮りに行く。鋳造は立派に出来ていた。
この記述を読んで、これは北高校の門標のことだと確信しました。
あー、発見できて良かったです。
これで、松山北高校は中島分校と両方の正門の門標を揮毫していることがわかりました。
最近は門標もフォントが増えましたけど、
鋳造の昔ながらの門標って良いですよね。
松山北高校文芸誌『たぎり』第24号(1966(昭和41)年)
松山北高校70周年記念誌『回顧と展望』(1970(昭和45)年)
愛媛県立松山北高校中島分校正門(1973(昭和43)年3月)
松山北高校生徒会誌『北斗』第15号(1969(昭和44)年)
松山北高校弓道場『正射必中』額(1974(昭和49)年2月)
松山大学御幸キャンパス『彰廉館』門標(1997(平成9)年3月)
松山大学御幸キャンパスの門標については以前お話ししました。

そのキャンパスの一番奥に、武道場である『彰廉館』があります。
「あります」とか堂々と書いていますが実はキャンパス内のどこか分からなくて
御幸キャンパス内の守衛さんに聞きました…その節はありがとうございました。

行った日にちょうど曇っていたので空が白いですが
晴れた日だとすごくきれいです。
この武道場の向かって左側にある文字を大暁が書いています。

この頃のことは日記がないため詳細は分かりませんが、
両親によりますと自宅まで依頼があったという記憶があるそうです。
また、詳しい落成日について松山大学に問い合わせたところ、
1997(平成9)年3月12日の落成だと分かりました。
81歳の時の書ということになります。(誕生日が5月なので)
年齢を重ねると、人生が出るというか若い時とはまた違った魅力がありますよね。
味わいのある字だと思います。