『四季瀬戸の味 たにた』看板

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松山市二番町に『四季瀬戸の味 たにた(食べログにとびます)』はあります。

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魚料理がおいしいお店です。

このお店の文字が沢田大暁の作です。

昭和の頃からあるので、

今逆に新鮮で良い雰囲気だと思います。

懐かしい感じで素敵なお店です。

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というか、和食のお店ってやっぱり

筆文字看板が良いですよね。

タイポグラフィでも、手書き筆文字でも、

大衆的にも高級感も書くことができるので

文字だけでお店の雰囲気を伝えることができるところが

看板のすごいところだよなと思います。

これはお酒のラベルとかでもそうですよね。

見てるだけで面白いです。

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「愛媛県女子師範学校・同付属小学校跡」碑(1977(昭和52)年)

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松山市須賀町に、愛媛県女子師範学校跡地の碑があります。

愛媛県女子師範学校が明治43年10月から昭和25年11月まで、

附属小学校が明治44年4月から昭和25年11月までこの地にあったことを示す石碑です。


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沢田大暁は、愛媛県師範学校には昭和18年から昭和25年まで助教授として勤めました。

ちょうど愛媛県師範学校が愛媛大学になるタイミングで大学を退職し高校教師になりました。

第二次世界大戦は大学に勤めていたんですね。

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愛媛大学、と名称が変わり新しくなるときに、

愛媛県師範学校と愛媛県女子師範学校がひとつになりました。

そこで、今の愛媛大学に移転したという事のようです。

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昭和25年時点で沢田家は北条にありました。

昭和28年の『習字』誌に、持田に引っ越す時の情報が掲載されていました。

でも、松山の大空襲の時は市内に家があったはずなんですよね。

元警官だった曽祖父が避難誘導をしていて

中の川で亡くなったと聞いたはずなので。

この辺りはどうなっているのか、まだ調べる必要がありそうです。

※2022/5/17

この碑に関する計画図面を自宅で発見しましたので

追記しておきます。

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こんな風に依頼されるんですね。

結構具体的で分かりやすいですが、

実際のサイズ感で太さやイメージを膨らませるのが

大変な作業だと改めて気づきました。

※2022/9/27

家の中で文鎮を見つけましたので追記します。

そういえばこういう記念行事で文鎮贈られること

昔はとても多かったですよね。

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伊予市立北山崎小学校正門(1966(昭和41)年)

伊予市中村に、伊予市立北山崎小学校があります。

この北山崎小学校の正門の文字も沢田大暁が書いています。

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沢田大暁略歴にも書いてありますが、

大暁の教員生活の始まりは、道後小学校への赴任でした。

つまり、最初数年は小学校の教員をしていました。

その後愛媛師範学校(今の愛媛大学)の助教授になり、

終戦後、退職して松山東高校の教員になりました。

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多分こういう経歴も影響していると思うのですが、

習字誌でも、高校だけでなく小中学校の教員や大学教授と一緒になって

書教育をやっていこう、という姿勢が一貫して見えます。

基本の筆使いには特に厳しく、

基礎がなってないと思ったらバッサリ切り捨てるところもありました。

(まぁそのあたりは芸術家っぽいかもしれませんね)

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この北山崎小学校には親しくしていた教員仲間がおり、

毎年小松で行っていた書道コンクールには一緒に行くような間柄でした。

小松の書道コンクールについてはまた別で書きますけれども、

10年以上行っていたのできっと参加したことがある方もおられるでしょう。

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その北山崎小学校から依頼されて

昭和41年に学校の正門の文字を書いたようです。

記録には「看板」と書いてありました。

児童、生徒として通っていた時は正門って見ながら通っていなかったですけど、

毎日通う子供たちを出迎えて、見送っているんだなと思うと

なんだかすごく大切なものに思えてきますよね。

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道後公園句碑の裏書(昭和61年10月)

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道後公園北側出入り口(子規記念博物館の西側出入口)に

正岡子規・夏目漱石句碑があります。

ちょうど写真を撮った時がお花見シーズンだったので

背景に桜や提灯や出店が見えていますね。

この句碑の裏側の字を沢田大暁が書いています。

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今、この碑の裏側には立派なソテツが植わっているので

パッと見は分かりづらいかもしれないです。

でもよーく見るとちゃんと名前も書かれてありますよ!

ちなみにこの碑の日付は昭和61年11月2日ですが、

昭和61年10月20日に除幕式があり、

翌日10月21日の愛媛新聞にその記事がありましたので掲載しておきます。

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石碑は時間が経っても私が生きている間くらいはたいして摩耗もしないので、

見えるものを追いかけられることはありがたいことだと思います。

見えるものを探すこともまた、私の今の楽しみの一つです。

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第1回愛媛県学生書道展(『習字』1954(昭和29)年3月号、4月号)

今年2月に開催された第69回愛媛県学生書道展も、

勿論記念すべき第1回の時がありました。

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こちらは『習字』昭和29年3月号です。

下にあるページの中段部分に、第1回愛媛県学生書道展の

募集要項に関する記事が掲載されています↓

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まず主催が愛媛県習字教育研究会だけでなく

今治市教育委員会も主催になっています。

この時点でまずビックリですよね。

そして、

作品は一人一部門一点じゃなくても良いという点も現在とは違います。

また、最高賞が知事賞ではなくて今治市長賞な所も違いますね。

ちなみにこれは第1回だけの特徴で、

第2回愛媛県学生書道展からは知事賞が創設されています。

ですので、第2回愛媛県学生書道展で知事賞を獲得した方が

初代知事賞獲得者、ということになります。

初代知事賞は、永らく書道の先生として教鞭をとられていた柴田先生です。

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そしてなにより私が驚いたのは、

締め切り日から展覧会の会期までに5日しかないっていうところです。

これは一体どういうことなのでしょうね!

今の展覧会でも我々中の人はいっぱいいっぱいで

部門ごとや年齢ごとに作品を分けて、先生方を集めて審査して、

作品1枚1枚に金銀銅の賞の札を貼ったり賞状を作ったり

名前の不備がないか確認をしたり賞状の印や賞品を集めたり展示レイアウトを決めたり

展示のための棒に貼りつけたりするだけでも

5日なんかでは全然足りないと思うのですよ。

これは、やはり人海戦術…しかないですよね。

昭和20年代はまだまだ戦後色が強い頃だったはずですから

思い切り芸術に情熱を注げる環境や、

無から有を作り出す楽しみのような希望のような気持ちが

あったのかもしれません。推測ですけど。

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そして案の定(?)翌月、

めっちゃ大変だったという主旨の記事が掲載されていました。

昭和29年4月号の結果記事がこちらです↓

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それでもやりきるあたり、本当にすごいと尊敬します。

これからしばらく、展覧会場は各地の学校を転々としていきます。

巡回展みたいな感じで、自分の近くに会場が来るというのも

ある意味良かったのかもしれないと思います。

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『松山百点』創刊号(1965(昭和40)年3月号)と、愛媛タイムス(1965(昭和40)年4月5日号)

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『松山百点』という雑誌は現在も隔月で発行されており、

2022年現在のロゴは三代目ですよね。

初代の松山百点のロゴを沢田大暁が書いていましたので

今日はこれをご紹介したいと思います。

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この文字は特徴的なので、

この時代の松山百点をご存じの方だったら

見たことあるなと感じて下さると思います。

こういった書体は主に『六朝書』と呼ばれ、

河東碧梧桐もこういった書体で書いていました。

『六朝書』という言葉は大暁の残した文章の中にも度々登場します。

簡明 書道用語辞典(伊藤文生編 天来書院 2017年)によると、

『六朝時代の書。ただし、北魏を主とする北朝の書をいう。』

とあります。また、同じ辞典で『六朝』をひくと、

『後漢の滅亡後、隋の統一まで建業(現在の南京)に都した

 呉・東晋・宋・斉・梁・陳の六王朝』

とあります。

北魏の書というとどうも龍門の石窟の印象が強いですが、

河東碧梧桐とか中村不折とかの作品のイメージということだと思います。

(めっちゃ大雑把です。専門で研究されてる方ごめんなさい)

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この松山百点の創刊号について、

愛媛タイムス(1965(昭和40)年4月5日号)で記事を見つけたのでこちらもご紹介します。

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この記事については記録が残っていて、

新聞が出た時に鴻池先生から大暁に電話を頂き、

表紙の書を褒めていたと教えてくださって

本人(大暁)も読んでみてすごく喜んだそうです。

銀座百点のイメージはそのままに、

それを六朝風の書として昇華させることで

松山らしさも表現できていると私も思います。

今はこのロゴではありませんけれど、

印象的なこの文字をぜひ観ていただきたくてここに掲載いたしました。

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松山市青少年センター入り口(1971(昭和46)年)

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松山市青少年センター

松山市築山町という松山東高校や松山商業高校の近くにある施設です。

自習はできるしスポーツもできるし学校からも近いので

私自身も高校生の頃にはよくお世話になりました。

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この青少年センターの入口には、

(写真には写っていませんが)右手に白い看板があるので

そちらの印象が強いかもしれませんが、

この写真にあるように入口には石の名前が彫ってあります。

そして、この青少年センターと書いてある文字を

沢田大暁が書いています。

このセンターができる時に持田にあった大暁の家に依頼があり、

三種類作って渡したと記録があります。

それが1971(昭和46)年なので、

青少年センターができたのとは時期がズレるかもと思うのですけれども、

残念ながら青少年センターができた時期が分かりませんでした。

この入口も今も使っていただいている

生きた遺産だなと思っています。

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愛媛県護国神社「挺身」石碑(昭和52年)

愛媛県護国神社は、

松山市御幸にある神社です。

愛媛大学や松山大学が近くにあり、

お正月にはたくさんの方が初詣に来るそうです。

この神社の入り口から北西方向には、

第二次世界大戦の慰霊碑がたくさんあります。

その中のひとつ、

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「殉職女子挺身隊員慰霊之碑」を

沢田大暁が揮毫しています。

昭和60年発刊の『沢田大暁作品集』の中では

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↑こんな感じの写真が掲載されていました。

現在の様子を観に行くと、

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まったく変わらない姿でそこにありました。

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沢田大暁は大正4年生まれでしたので

終戦時にはすでに成人していました。

昭和10年から教師の道を歩んできていたということは、

きっと多くの教え子の死にも遭ってきたことと思います。

自分よりも若く未来のある教え子たちを見送る気持ちがいかなるものだったのか

私には想像もできません。

今日生きて元気に笑っていた子が

明日にはもうこの世にいないかもしれない生活は、

どこの誰にも起こってほしくないことです。

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碑の裏側には碑文が記されていたのですが、

こちらは文字が薄く読みづらくなっていました。

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そのため、碑文の内容を下に書いておきます。

碑文

殉職者
竹内和栄 武替悦子 渡部節子

太平洋戦争激化の昭和19年県立松山高等女学校卒業と同時に祖国の危急に応じて女子挺身隊員となり呉海軍工廠に赴き電気部三次電池工場に勤務中終戦を三ヶ月程に控えた昭和20年6月22日米機B29の爆撃を受け殉職された三柱の霊を慰め併せてこれら乙女達が身命をかけてかち得た国の平和が永遠に続く事を願ってこの碑を建てる

昭和52年12月
愛媛県立松山高等女学校
42期生

題字 澤田大暁

 

(※2022/9/9追記)

全く変わらない姿でここにある、ということは

誰かが掃除してくれているのだろうとは思っていました。

たまたま松山南高校のホームページで見つけましたので

こちらにリンクを貼っておきます↓↓

松山南高校の「挺身」清掃の記事をひらく

年に一度、松山高等女学校を母体とする現在の松山南高校家庭クラブが

清掃してくださっているようです。

ありがとうございます!

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墨36号(1982年5月号)特集:虚子と碧梧桐

1982年(昭和57年)の墨36号に、

8ページにわたって高浜虚子と河東碧梧桐について

執筆させていただいています。

この頃の日記には、校正を郵送でやり取りしている様子が書かれてあり、

こちらからは毎回速達で送っていることが伺えます。

こういった研究では毎回全国を車で飛び回って作品の写真を撮り、

こまめに整理してはまとめていたようです。

退職していたとはいえ忙しかったはずなのに、

時間というのは捻出すればあるものなんだなと

改めて私もちゃんと生きようと思いました。

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