第70回愛媛県学生書道展における感染拡大防止のための対策についてご説明します。
一昨年からと同じく、愛媛県美術館から
●一人一人の検温
●緊急連絡先の記入(会期後2週間で破棄します)
●マスクの着用
●会場内での飲食禁止
が義務付けられております。
また、もし体調が悪いようであれば、
御来場はご遠慮くださいますようお願い致します。
ご協力をお願い致します。
生活の中に生きる 書
第70回愛媛県学生書道展における感染拡大防止のための対策についてご説明します。
一昨年からと同じく、愛媛県美術館から
●一人一人の検温
●緊急連絡先の記入(会期後2週間で破棄します)
●マスクの着用
●会場内での飲食禁止
が義務付けられております。
また、もし体調が悪いようであれば、
御来場はご遠慮くださいますようお願い致します。
ご協力をお願い致します。
記念展である
第70回愛媛県学生書道展の出品を締めきりました!
みなさま、たくさんのご応募ありがとうございました!!
今年は本当にたくさんの方のご応募があり、
昨年を大幅に超えた出品点数となりました!!
がんばって書いた作品がたくさんで嬉しいです。
ご応募ありがとうございます!
中の人はこれから作品と名前、学年があっているか確認したり、
作品を部門ごと、学年ごとに並べ替えたりして
審査の準備に取り掛かる予定です。
審査の結果は月末までに出品責任者の方にお送りします。
楽しみにお待ちください!
中島司有先生は何度か上野の森美術館で展覧会を開いていました。
この1974年、澤田大暁は作品集に推薦文を寄稿しています。
実は家で探したところ別の年の作品集しか見つけられず、
推薦文がどうしても読んでみたかったので
直接中島先生が創設した現代書道研究所に問い合わせをしました。
そうしましたら、現所長の佐伯司朗先生が直接お返事とこの画像をくださいました。
いろいろな方のお世話になっております。
本当にありがとうございます。
さて、この作品集の推薦文については、
この個展の2か月前、
11月12日に原稿用紙200字詰5枚にまとめて送ったという日記がありました。
この度ついにその内容をご紹介します。
どうですか。
しょっぱなからの「親友」呼びで驚きましたよね。
「あれ、こんなに近しい感じ?」
と個人的にはびっくりしました。
直接ご存知の方は当たり前なのかもしれないです。
私は面白いなと感心しました。
また、戦後すぐから認知していて、
昭和31年からのつながりだったことや、
中島先生が松山市にお住まいだったころに親しくなったことなど、
私の持っている日記の昭和37年よりも前の情報が手に入ったことが
とても有意義でした。
こんな風にまた別の原稿から
日記以前のことが分かる資料が発掘されてほしいと思います。
どこにあるかはまだ分かりませんが楽しみに調査を進めたいと思います。
五禾書房『書道』をついに発見しましたのでご紹介します!
苦節五か月(意外と短い)、やっと見つけました。
雑誌はあまり残っていないことが多く、
古本屋さんやネットで気づくたびに検索して回っていたのですが
なかなか該当の号が見つけられず時間がかかってしまいました。
今回やっとネットで見つけた時は、
嬉しくてお店の方にも自慢してしまいました。
よく考えると迷惑な客ですね笑
当然のことながら内容は
『習字』1976(昭和51)年9月号に掲載された記事のと同じです。
ですが、記事の中に写真が掲載されていることは
今回手にしてみて初めて知りました。
「巌」と「喜」の作品ですね。
こんな感じにレイアウトされて記事になっていたとわかり
改めて嬉しかったです。
やはり百聞は一見に如かず、ですね。
この雑誌を残して下さっていた方にも、
この本を売って下さった古書店の方にも、
お礼を言いたい気持ちです。
ありがとうございました。
8/17(火)
(合宿も)終りに近い頃、別格本山西山興隆寺の看板を書いてあげる。最後大沢和尚への別れのあいさつや大沢和尚のあいさつがあり、その時看板は永久に記念にしたいと述べてくれたことは生徒への気持も出ていた
澤田大暁は高校教師だった頃から毎年夏に
西条市丹原町にある西山興隆寺で合宿をしていました。
看板を書いているとあったので今どうなっているかと思い
お寺へ電話をかけてみたところ、
今は和尚さんが変わったためどの看板のことか把握していないのですが
看板であれば外にあるでしょうから
よければ実際に観に来てくださいとのことでしたので行ってまいりました。
駐車場に車を停めて、さっそく上り口から入ります。
最初に小さな橋があり、写真正面に見える石碑のところから
右手におれて登っていくようです。
右に曲がってすぐ、りっぱな門が姿を現しました。
ここ西山興隆寺は紅葉がとっても美しいらしいのですが
このあたりはまだまだ緑でした。(※2022年11月上旬)
そしてよーーーく見ると、
門の向こう側に恐ろしいほどの階段が…この時は見えていませんでした。
分け入っても分け入っても青い山、ならぬ
登っても登っても階段…
緑が多いので空気はとてもおいしく
ゼェゼェ言っていても体に入る空気は少し冷たくて
すがすがしい気持ちになります。
階段を覆うように木が生えていて、
緑のトンネルのようです。
多分紅葉シーズンに来たらすごくきれいだと思います。
登る間にたくさんの杉の巨木がありました。
そのうちの一本は昭和43年に枯れ木となったと書いてありました。
昭和43年ならば毎年合宿をしている頃なので、
この杉が枯れ木となる前後で
大暁は合宿をしていたのだなと感慨深く思いました。
そして、その枯れ木にこんなにもまた新しい命が芽吹き
土にかえっていっている時間が経ったのだとも思いました。
さて、ここからすこし上ったところ右手側に、
何かの入り口がありました。
みつけました!
この向かって右側の看板は、大暁の筆跡でしょう。
まだ本堂まではたどり着いていませんが
お目当ての看板を見つけてしまいました。
板の左側面にはちゃんと、「大暁書」の名が入っています。
風雨にさらされたせいで随分滲んでいますけれども
たしかにまだここに残っていました。
さて…
まだ階段は続いています。
見えにくいですが大きく写っている階段の左奥にもまだ階段が続いています。
ここまでだけでもかなりの階段を上ってきているので
着て来たコートはもう脱いでいるくらい暑いです。
しかし、せっかくなので本堂までは上ることにしました。
えっちらおっちら・・・・
上の方は木々が色づいて、
すでに黄色や赤の葉がたくさんありました。
そしてこの記事最初の画像、本堂に到着しました!
この本堂は階段上がって右手にあるのですが、
寝泊まりするってなるとここではなくて、
左手側にあるこの建物だったのかなと思います。
建物自体は変わっているかもしれないのでなんとも言えないのですが
母曰く階段の左だったような気がすると言っていたので
この場所にあったのかなと想像しています。
ちなみにこの左奥には塔が建っています。
(太陽の位置の関係で写真が撮れませんでした)
街灯などもほぼなさそうなこんな山奥では
夏とはいえ怖くなかったのかなと思いましたが
仲間と一緒ならさほど怖くもなかったのかなとか
毎年行くほどなのだからむしろ楽しかったのかなとか
いろいろ想像できました。
看板を見つけることができて本当に行ってよかったです。
追伸
行きがあるということは帰りもあるということで。
帰りもヒィヒィ言いながら降りました。
運転手の弟氏は膝が笑っていると言っていました。
実を言うと、いったい何がどうつながってこの雑誌なのか
全然分かっていないのですが、
昭和51年2月2日の日記に
「筏で松本松吉氏に会う。絹小路の推薦文が「酒」という本に出た。
昨年小生が原稿を書いたものである。」
というのが突然出て来て、
慌てて前年の日記を見返すもそんな記述が無いため
いったいいつ書いたのか、どういう繋がりなのか謎です。
ただ、ありがたいことに家に雑誌は保管してありました。
雑誌のたぐいは今探そうと思ってもなかなかないのでありがたいです。
たしかに文言は大暁が書いているようなのですが
この写真………みなさまはどう思われますか?
写真の写り方かもしれませんが大暁に見えないので
一応念のため両親にも聞いてみましたが
やはり「違うと思う」とのこと。
体格はそれっぽいんですけれど、
そうなるとこの右側の方は一体誰なのか…?
そもそも本人も「推薦文が出た」と書いているだけで
写真が載ったとは書いていないんですよね。
うーん、どうなんでしょう。
.
「書家酒豪大会大阪場所」(『習字』1967(昭和42)年5月号)
にもあります通り祖父大暁はお酒が好きだったので
そういうお酒の席での繋がりや人脈で
この推薦文が掲載されるに至ったのかもしれませんね。
よく一人でフラッと飲みに出て、
行った先で誰かと会って話す、ということがよくありました。
それが情報源となって現状を分析するとか、
愛媛・松山に来てくださった方を案内するための顔つなぎ、
という面もあったのかなと思います。推測ですが。
.
この「酒」という雑誌は佐々木久子さんという方が編集長をなさっていた
お酒専門の雑誌です。(1997(平成9)年に休刊しています)
佐々木さんはお酒の本も多数出版されていて、
家にある本には大暁へのメッセージのあるものもありました。
表紙と裏表紙です。
昭和57年のようなのでこの「酒」という雑誌よりは随分後ですが、
何かしらのお付き合いはあったようですね。
こういうサイン本?は本を開けてみないと分からないので
本棚にたっていて「お、読んでみようかな」と手にとると
急にサインが出て来て驚きます。
本からも大暁の人生の歴史が感じられて
親近感も突然出てくるので不思議です。
西条市周布に愛媛県立東予高等学校があります。
今年(2022年)発表された高等学校の再編によって
西条産業科学高等学校(仮称)になるかもしれませんが
現在のところ東予高等学校としてあるこの学校は、
1962(昭和37)年に壬生川工業高等学校として誕生しました。
1972(昭和47)年2月、この壬生川工業高校の
講堂に掲げる作品を書いて欲しいという依頼があり、
澤田大暁が『勤勉』と『創意』という作品を
全紙に濃墨と淡墨で書きました。
後日、当時校長だった萩尾晴美先生が直接
持田町の大暁の自宅までお礼に来られたそうです。
.
壬生川工業高校はその後東予工業高校になり、今の東予高校になりましたので
さすがにもう残っていないだろうと思っていました。
それが、先日お邪魔した松山西中等教育学校(こちらの記事です)で担当頂いた先生が
たまたま少し前東予高校に務めてらしたということで
壬生川工業高校のも残っている可能性がありますよと教えて下さいました。
そこで、思い切って連絡してみますと
『現在も体育館に飾ってありますよ』とのご返答が!
喜んでさっそく撮影に行きました。
こちらが体育館です。
中に入ると、
ありました!
この正面にある舞台の左右に掲げてある作品がそれです。
両方とも丁寧に表具されて掲げてありました。
とてもありがたいです。
そして気になる落款印はというと…
どちらも馴染みのある伏見冲敬先生から頂いた印でした。
やはり学校に寄贈する作品にはこの落款印を使っているようです。
一対になっている作品だからこのような朱文と白文の使い方をしたのかなと
興味深く感じました。
.
ちなみにこの二つの言葉は、校訓の言葉なのだそうです。
校門入ってすぐのところで校訓を見つけました。
こちらは初代の校長先生が書かれた作品だそうですが、
五つある校訓のうち最初の二つが、今回掲げられていた作品の文言です。
工業高校の校訓として、どれも必要な資質のように思いました。
そして、この最初の二つのうち
「創意」を淡墨、「勤勉」を濃墨にしている点についても
なんだか納得のチョイスだと思いませんか。
校訓というのは、児童・生徒として中にいる時はあまり意識していなかったですが
大人になってから見てみると
実に的を射た文言であるものだと感心します。
対応して下さった教頭先生をはじめ先生、事務の方、
ありがとうございました!
2022/11/12追記
東予高校ホームページにて紹介していただけました!
こちらからぜひご覧になって下さい★
愛媛大学に勤めておられた村上節太郎先生が退官なさる時に
学生時代の友人から大学教員仲間だった方など、
関わった方々それぞれが村上先生との思い出を語る
随筆集を出版されました。
この中に、愛媛県師範学校(現:愛媛大学)の元同僚として
澤田大暁が随筆を寄せています。
「私が投手をするのは当然のことながら」とかいうあたりは
え、あ、そうなの??と突っ込みたくなりますが、
それにしてもいろんなことをよく覚えているものだと感心しました。
いつどこでだれがどういうことを言ったか、なんて
この頃はたいして日記もつけていなかったのによく覚えているものです。
そしてこの写真は、なんだか見慣れた祖父の姿で
この写真一枚だけでも懐かしい感じがします。
個人的にはもうすこし髪が長い姿が一番見慣れていますけれど、
新聞などによく載っていた頃の祖父はだいたいこんな感じの容貌であるように思います。
後の火事によって今、愛媛大学内には祖父の資料は何もありませんが
(勤めていた記録も全部燃えちゃったそうなので)
こうやって一緒に勤めていた方がおられると
事実勤めていたのだと確信が持てて嬉しいです。
いえ、もちろん疑っていたわけでは決してないんですけれど。
遠い昔、松山東高校の門標を書いていたこともありました。
父の入学時(1967(昭和42)年4月)にはすでに今と同じ横書きの門標だったらしいので
昭和40年から42年の数年の間に代わったようです。
ちなみに、この頃に本館も建て替わっています。
今はもうないですが、校舎の両側に吹きっさらしの廊下があった建物です。
風通しがよかったですよね笑
.
このあたりの日記は改めて通して読んだのですが、
門標に関する記述をみつけることができませんでした。
今度、機会があれば学校にも問い合わせてみようと思います。
たいてい探せば他にも問い合わせたい内容が出て来そうなので
まとまってから聞こうかと考えています。
.
これとは別に、東高校では図書館の門標も書いていたはずなのですが、
以前学校を訪問した際図書館の方に伺ったところ
当時の図書館があった場所には体育館(旧 東体育館)が建っているため
学校内には残って無さそうだと云う事でした。
こちらは現在の図書館にも遠景の写真しかなく、
残念ながら門標は写っていませんでした。
ざんねんむねん。。。
(2023/4/22追記)
1957(昭和32)年の卒業アルバムで正門の写真を見つけました!
東高校図書館の先生方、快く閉架図書を見せていただきまして
本当にありがとうございました。
後ろにあるのが建て替え前の本館です。
しかし、この写真の門標は大暁のものではありませんね。
「県」が旧字体の「縣」になっていますし、
「高等学校」の部分の消え具合から見ても違うと思います。
これより後だったのかもしれませんね。
こちらは1959(昭和34)年の卒業アルバムです。
校舎側から門を見ているところだと思います。
左側が瓦礫に見えるのですが、これは…がれきか図書館建設前の状況なのか…?
こちらは百周年記念誌に掲載されていた正門の写真です。
門は縦書きですが文字は不鮮明でよく見えません。
結局のところ「よく分からない」という結論になってしまって残念です。
昭和32年のものと比べると、体育館や本館(第一教棟)の様子が違っていて
時代によってどんどん変わっていった様子が分かりますね。