
第70回愛媛県学生書道展の出品明細書と硬筆手本をアップしました。
出品明細書は上下二つ、高校硬筆手本は左右二つありますが、
ダウンロードする際は半分に切ってお使いください。
これで募集に関する書類はすべてダウンロードできることになります。
個人でももちろん出品は大歓迎です!
ぜひふるってご応募下さい。
お待ちしております★

生活の中に生きる 書
五禾書房『書道』をついに発見しましたのでご紹介します!
苦節五か月(意外と短い)、やっと見つけました。
雑誌はあまり残っていないことが多く、
古本屋さんやネットで気づくたびに検索して回っていたのですが
なかなか該当の号が見つけられず時間がかかってしまいました。
今回やっとネットで見つけた時は、
嬉しくてお店の方にも自慢してしまいました。
よく考えると迷惑な客ですね笑
当然のことながら内容は
『習字』1976(昭和51)年9月号に掲載された記事のと同じです。
ですが、記事の中に写真が掲載されていることは
今回手にしてみて初めて知りました。
「巌」と「喜」の作品ですね。
こんな感じにレイアウトされて記事になっていたとわかり
改めて嬉しかったです。
やはり百聞は一見に如かず、ですね。
この雑誌を残して下さっていた方にも、
この本を売って下さった古書店の方にも、
お礼を言いたい気持ちです。
ありがとうございました。
8/17(火)
(合宿も)終りに近い頃、別格本山西山興隆寺の看板を書いてあげる。最後大沢和尚への別れのあいさつや大沢和尚のあいさつがあり、その時看板は永久に記念にしたいと述べてくれたことは生徒への気持も出ていた
澤田大暁は高校教師だった頃から毎年夏に
西条市丹原町にある西山興隆寺で合宿をしていました。
看板を書いているとあったので今どうなっているかと思い
お寺へ電話をかけてみたところ、
今は和尚さんが変わったためどの看板のことか把握していないのですが
看板であれば外にあるでしょうから
よければ実際に観に来てくださいとのことでしたので行ってまいりました。
駐車場に車を停めて、さっそく上り口から入ります。
最初に小さな橋があり、写真正面に見える石碑のところから
右手におれて登っていくようです。
右に曲がってすぐ、りっぱな門が姿を現しました。
ここ西山興隆寺は紅葉がとっても美しいらしいのですが
このあたりはまだまだ緑でした。(※2022年11月上旬)
そしてよーーーく見ると、
門の向こう側に恐ろしいほどの階段が…この時は見えていませんでした。
分け入っても分け入っても青い山、ならぬ
登っても登っても階段…
緑が多いので空気はとてもおいしく
ゼェゼェ言っていても体に入る空気は少し冷たくて
すがすがしい気持ちになります。
階段を覆うように木が生えていて、
緑のトンネルのようです。
多分紅葉シーズンに来たらすごくきれいだと思います。
登る間にたくさんの杉の巨木がありました。
そのうちの一本は昭和43年に枯れ木となったと書いてありました。
昭和43年ならば毎年合宿をしている頃なので、
この杉が枯れ木となる前後で
大暁は合宿をしていたのだなと感慨深く思いました。
そして、その枯れ木にこんなにもまた新しい命が芽吹き
土にかえっていっている時間が経ったのだとも思いました。
さて、ここからすこし上ったところ右手側に、
何かの入り口がありました。
みつけました!
この向かって右側の看板は、大暁の筆跡でしょう。
まだ本堂まではたどり着いていませんが
お目当ての看板を見つけてしまいました。
板の左側面にはちゃんと、「大暁書」の名が入っています。
風雨にさらされたせいで随分滲んでいますけれども
たしかにまだここに残っていました。
さて…
まだ階段は続いています。
見えにくいですが大きく写っている階段の左奥にもまだ階段が続いています。
ここまでだけでもかなりの階段を上ってきているので
着て来たコートはもう脱いでいるくらい暑いです。
しかし、せっかくなので本堂までは上ることにしました。
えっちらおっちら・・・・
上の方は木々が色づいて、
すでに黄色や赤の葉がたくさんありました。
そしてこの記事最初の画像、本堂に到着しました!
この本堂は階段上がって右手にあるのですが、
寝泊まりするってなるとここではなくて、
左手側にあるこの建物だったのかなと思います。
建物自体は変わっているかもしれないのでなんとも言えないのですが
母曰く階段の左だったような気がすると言っていたので
この場所にあったのかなと想像しています。
ちなみにこの左奥には塔が建っています。
(太陽の位置の関係で写真が撮れませんでした)
街灯などもほぼなさそうなこんな山奥では
夏とはいえ怖くなかったのかなと思いましたが
仲間と一緒ならさほど怖くもなかったのかなとか
毎年行くほどなのだからむしろ楽しかったのかなとか
いろいろ想像できました。
看板を見つけることができて本当に行ってよかったです。
追伸
行きがあるということは帰りもあるということで。
帰りもヒィヒィ言いながら降りました。
運転手の弟氏は膝が笑っていると言っていました。
実を言うと、いったい何がどうつながってこの雑誌なのか
全然分かっていないのですが、
昭和51年2月2日の日記に
「筏で松本松吉氏に会う。絹小路の推薦文が「酒」という本に出た。
昨年小生が原稿を書いたものである。」
というのが突然出て来て、
慌てて前年の日記を見返すもそんな記述が無いため
いったいいつ書いたのか、どういう繋がりなのか謎です。
ただ、ありがたいことに家に雑誌は保管してありました。
雑誌のたぐいは今探そうと思ってもなかなかないのでありがたいです。
たしかに文言は大暁が書いているようなのですが
この写真………みなさまはどう思われますか?
写真の写り方かもしれませんが大暁に見えないので
一応念のため両親にも聞いてみましたが
やはり「違うと思う」とのこと。
体格はそれっぽいんですけれど、
そうなるとこの右側の方は一体誰なのか…?
そもそも本人も「推薦文が出た」と書いているだけで
写真が載ったとは書いていないんですよね。
うーん、どうなんでしょう。
.
「書家酒豪大会大阪場所」(『習字』1967(昭和42)年5月号)
にもあります通り祖父大暁はお酒が好きだったので
そういうお酒の席での繋がりや人脈で
この推薦文が掲載されるに至ったのかもしれませんね。
よく一人でフラッと飲みに出て、
行った先で誰かと会って話す、ということがよくありました。
それが情報源となって現状を分析するとか、
愛媛・松山に来てくださった方を案内するための顔つなぎ、
という面もあったのかなと思います。推測ですが。
.
この「酒」という雑誌は佐々木久子さんという方が編集長をなさっていた
お酒専門の雑誌です。(1997(平成9)年に休刊しています)
佐々木さんはお酒の本も多数出版されていて、
家にある本には大暁へのメッセージのあるものもありました。
表紙と裏表紙です。
昭和57年のようなのでこの「酒」という雑誌よりは随分後ですが、
何かしらのお付き合いはあったようですね。
こういうサイン本?は本を開けてみないと分からないので
本棚にたっていて「お、読んでみようかな」と手にとると
急にサインが出て来て驚きます。
本からも大暁の人生の歴史が感じられて
親近感も突然出てくるので不思議です。
西条市周布に愛媛県立東予高等学校があります。
今年(2022年)発表された高等学校の再編によって
西条産業科学高等学校(仮称)になるかもしれませんが
現在のところ東予高等学校としてあるこの学校は、
1962(昭和37)年に壬生川工業高等学校として誕生しました。
1972(昭和47)年2月、この壬生川工業高校の
講堂に掲げる作品を書いて欲しいという依頼があり、
澤田大暁が『勤勉』と『創意』という作品を
全紙に濃墨と淡墨で書きました。
後日、当時校長だった萩尾晴美先生が直接
持田町の大暁の自宅までお礼に来られたそうです。
.
壬生川工業高校はその後東予工業高校になり、今の東予高校になりましたので
さすがにもう残っていないだろうと思っていました。
それが、先日お邪魔した松山西中等教育学校(こちらの記事です)で担当頂いた先生が
たまたま少し前東予高校に務めてらしたということで
壬生川工業高校のも残っている可能性がありますよと教えて下さいました。
そこで、思い切って連絡してみますと
『現在も体育館に飾ってありますよ』とのご返答が!
喜んでさっそく撮影に行きました。
こちらが体育館です。
中に入ると、
ありました!
この正面にある舞台の左右に掲げてある作品がそれです。
両方とも丁寧に表具されて掲げてありました。
とてもありがたいです。
そして気になる落款印はというと…
どちらも馴染みのある伏見冲敬先生から頂いた印でした。
やはり学校に寄贈する作品にはこの落款印を使っているようです。
一対になっている作品だからこのような朱文と白文の使い方をしたのかなと
興味深く感じました。
.
ちなみにこの二つの言葉は、校訓の言葉なのだそうです。
校門入ってすぐのところで校訓を見つけました。
こちらは初代の校長先生が書かれた作品だそうですが、
五つある校訓のうち最初の二つが、今回掲げられていた作品の文言です。
工業高校の校訓として、どれも必要な資質のように思いました。
そして、この最初の二つのうち
「創意」を淡墨、「勤勉」を濃墨にしている点についても
なんだか納得のチョイスだと思いませんか。
校訓というのは、児童・生徒として中にいる時はあまり意識していなかったですが
大人になってから見てみると
実に的を射た文言であるものだと感心します。
対応して下さった教頭先生をはじめ先生、事務の方、
ありがとうございました!
2022/11/12追記
東予高校ホームページにて紹介していただけました!
こちらからぜひご覧になって下さい★
愛媛大学に勤めておられた村上節太郎先生が退官なさる時に
学生時代の友人から大学教員仲間だった方など、
関わった方々それぞれが村上先生との思い出を語る
随筆集を出版されました。
この中に、愛媛県師範学校(現:愛媛大学)の元同僚として
澤田大暁が随筆を寄せています。
「私が投手をするのは当然のことながら」とかいうあたりは
え、あ、そうなの??と突っ込みたくなりますが、
それにしてもいろんなことをよく覚えているものだと感心しました。
いつどこでだれがどういうことを言ったか、なんて
この頃はたいして日記もつけていなかったのによく覚えているものです。
そしてこの写真は、なんだか見慣れた祖父の姿で
この写真一枚だけでも懐かしい感じがします。
個人的にはもうすこし髪が長い姿が一番見慣れていますけれど、
新聞などによく載っていた頃の祖父はだいたいこんな感じの容貌であるように思います。
後の火事によって今、愛媛大学内には祖父の資料は何もありませんが
(勤めていた記録も全部燃えちゃったそうなので)
こうやって一緒に勤めていた方がおられると
事実勤めていたのだと確信が持てて嬉しいです。
いえ、もちろん疑っていたわけでは決してないんですけれど。
公益社団法人大阪府剣道連盟が発行している広報誌
パナソニックEW社剣道部の部旗「妙機」が特集されています。
この「妙機」という部旗は、
松山北高等学校剣道部の部旗からとって来たものらしく、
「妙機」の揮毫の経緯について取材を受けました。
(妙機の記事については以下にあります↓
松山北高校剣道部「妙機」(1966(昭和41)年10月))
大したお話をできたわけではないので恐縮ですが
「最後に」に愛習研の名前も入れて下さりありがたいかぎりです。
妙機という旗がこういう風につながっていっていることが
純粋に嬉しかったです。
益々の御発展をお祈りいたします!