俵原池 石碑 (1953(昭和28)年)

松山市北条にある俵原池(たわらばらいけ)には

石碑があります。

作品集で見つけたので撮影しに行ってきました。

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これが作品集内のページです↑

まず俵原池に初めて行ったので

行き着くまでにちょっと迷っちゃいました。

サンセットヒルズカントリークラブのすぐ近くなので、

そのつもりで看板を見ていくと良いと思います!

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作品集と同じアングルで写真を撮ってみました!

昭和28年ということは、沢田大暁はまだ30代です。

だからなのか、これには本名も書いてありますね。

最後に、その年の習字誌にもチラッと出ていましたのでご紹介します。

『習字』昭和28年7月号

後年の沢田大暁なら表紙に写真を使うくらいのことはしそうな気がしますけど、

まさかのたった4行!

逆にビックリしますよね。

立派な石碑でした。

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愛媛県護国神社「挺身」石碑(昭和52年)

愛媛県護国神社は、

松山市御幸にある神社です。

愛媛大学や松山大学が近くにあり、

お正月にはたくさんの方が初詣に来るそうです。

この神社の入り口から北西方向には、

第二次世界大戦の慰霊碑がたくさんあります。

その中のひとつ、

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「殉職女子挺身隊員慰霊之碑」を

沢田大暁が揮毫しています。

昭和60年発刊の『沢田大暁作品集』の中では

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↑こんな感じの写真が掲載されていました。

現在の様子を観に行くと、

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まったく変わらない姿でそこにありました。

.

沢田大暁は大正4年生まれでしたので

終戦時にはすでに成人していました。

昭和10年から教師の道を歩んできていたということは、

きっと多くの教え子の死にも遭ってきたことと思います。

自分よりも若く未来のある教え子たちを見送る気持ちがいかなるものだったのか

私には想像もできません。

今日生きて元気に笑っていた子が

明日にはもうこの世にいないかもしれない生活は、

どこの誰にも起こってほしくないことです。

.

碑の裏側には碑文が記されていたのですが、

こちらは文字が薄く読みづらくなっていました。

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そのため、碑文の内容を下に書いておきます。

碑文

殉職者
竹内和栄 武替悦子 渡部節子

太平洋戦争激化の昭和19年県立松山高等女学校卒業と同時に祖国の危急に応じて女子挺身隊員となり呉海軍工廠に赴き電気部三次電池工場に勤務中終戦を三ヶ月程に控えた昭和20年6月22日米機B29の爆撃を受け殉職された三柱の霊を慰め併せてこれら乙女達が身命をかけてかち得た国の平和が永遠に続く事を願ってこの碑を建てる

昭和52年12月
愛媛県立松山高等女学校
42期生

題字 澤田大暁

 

(※2022/9/9追記)

全く変わらない姿でここにある、ということは

誰かが掃除してくれているのだろうとは思っていました。

たまたま松山南高校のホームページで見つけましたので

こちらにリンクを貼っておきます↓↓

松山南高校の「挺身」清掃の記事をひらく

年に一度、松山高等女学校を母体とする現在の松山南高校家庭クラブが

清掃してくださっているようです。

ありがとうございます!

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道後小学校跡の石碑

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ちょうど桜が満開だったので、

道後保育園の桜をバックにして撮影しました。

これは、

にぎたつ会館とメルパルクと道後保育園のところにある

湯築尋常高等小学校、道後小学校跡の石碑です。

こういう自然の石の石碑って、

書くバランスが難しそうですよね。

太い文字が右側に集まっているので すが、

文字数的に1列にするため横長の文字にして、

左側は細い代わりに密にして

遠目に見た時バランスが良くなるようなレイアウトにしたのかなと思いました。

最後の名前を縦長に傾けて書いてるのがポイントですよね。

道後には他にも石碑がありますので、

またご紹介します!

.

※2022/5/24追記

この湯築尋常高等小学校は

大暁が新任として初めて教壇に立った学校です。

この高等小学校で働きながら文検合格を目指しました。

その後愛媛師範学校の助教授になるまでの8年間を

この学校で過ごしましたので大暁にとって思い出深い学校です。

この石碑と共に、道後小学校正門(1969(昭和44)年1月)の門標も

大暁が揮毫しています。

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道後小学校正門(1969(昭和44)年1月)

愛光学園生誕地の石碑(1978(昭和53)年3月)

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草創期に入学された方はご存知でしょうが

愛光学園が開校した当初、

校舎があったのは今の衣山ではありませんでした。

でも、今でも生誕地には、

沢田大暁が揮毫した石碑が建っています。

さてここはどこでしょうか??

.

ここは宮田町のフジグラン松山です。

北東の角に、この石碑はあります。

初代校長の田中忠夫先生と親交があつた祖父は、

田中先生からたびたび依頼されたようです。

だいたいいつも家にやってきて、

一筆お願いします、ということになるようでした。

ここは昭和61年のリレーマラソンの出発地にもなりました。

リレーマラソンについては祖父のまた別の揮毫があるため

別に分けて書く予定です。

これについては調べ始めてから初めて知ったのですが、

いかにも愛光生らしい面白い企画でワクワクしました。

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愛光学園二期生『にぎわい』リレーマラソン(1986(昭和61)年10月)、(『習字』1986(昭和61)年12月号)

愛光学園内『日野荘氏 顕彰碑』(昭和53年3月)

愛光学園正門

昭和61年の愛媛新聞より

今、競書雑誌「習字」70周年に向けて、

昔の資料をあれこれ集めています。

これは愛媛新聞の昭和61年11月15日付に掲載された

番町小学校創立100周年の記念記事です。

この像は正門を入ってすぐ左手にあるのですが、

この像の土台にある「旅たち」という文字を

沢田大暁が揮毫しています。

.
この像は知ってたのですが、

この人は正岡子規さんだったと初めて知りました。

卒業生の方ならご存じだったのでしょうか。

昔の新聞は面白くて、

当時のニュースがひとつひとつ懐かしいです。

例えば、この月の新聞には

「来年度開校予定の松山中央高校が…」

という記事があったり、

「今、迷路がブーム!」

という見出しがあったりで、

そういえば自分が入って楽しむ迷路があったなとか、

そういえば中央高校がまだできてないのかとか、

そういえばそうだった!同じ時期だったんだと気づかされます。

紙っていうのは形に残るから良いのだなと改めて感じました。

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で、本当は全然違う記事を探していたのですが、

そっちは残念ながら見つかりませんでした笑

まぁそういうこともありますよね。

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